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第56話 侯爵令嬢、現場を押さえる


 律子の自室。


 影の視界が、変わった。


 暗い、廊下。古い木の床。ランプの光。


 二階へ上がる、階段。


 影は、階段を、上った。


 廊下を、進んだ。


 一つの扉の前で、止まった。


 扉の隙間から、光が、漏れていた。


 声は、聞こえない。影には、聴覚がない。


 しかし、影は、扉の隙間から、部屋の中へ、するりと、入った。


 ◇


 律子は、寝台の上で、目を閉じたまま、——その光景を見つめていた。


 影の視界に、部屋の中が、映っていた。


 テーブルの上に、二つの、グラス。


 ワインのボトル。


 そして、ヴィオラが座っている。屋敷で見せる顔と少し違う。もっと華やかな笑み。もっと少女のような、——燃える笑み。


 その向かいに、若い男性が座っていた。


 律子の内心がカチリ、と反応した。


 ……出ました。


 二十代半ば。長身。整った顔立ち。黒い、舞台衣装のような上着。髪を少し長めに、後ろで束ねている。


 律子の前世の頭が一瞬で判定した。


 ……役者ね。

 ……ヴィオラの元同業者か、後輩。


 ヴィオラが男の顔に手を当てた。男がヴィオラの髪に指を絡めた。二人が顔を寄せ合って笑った。


 ヴィオラの声は届かない。しかし、音は要らなかった。


 律子の内心のファイルがカチリ、と確定した。


 ……映像だけで十分、ね。

 ……肩の距離、身体の近さ。

 ……目線の絡み、夫婦のそれではない。

 ……手の置き方、「お友達」、ではない。


 律子は確信した。


 しかし、男の口元が時々、同じ動きを繰り返しているのが気になった。


 律子は首を傾けた。


 ……あら、あの人、同じ言葉を繰り返しているわね。

 ……何て、おっしゃっているの?


 律子は影に頼んだ。


 ……唇に集中できる?


 影が男に近づいた。律子の頭の中に口の動きの形が映った。


 最初のひと音。Mio。

 次のひと言。Tesoro。

 三つ目。Splendido。


 律子の息が一瞬、止まった。


 ……ああ。


 律子が呟いた。


 ……「Mio tesoro splendido」。

 ……「私の素敵な、宝物」。

 ……愛の言葉。


 律子の心の中で、——口元が少しだけ歪んだ。


 ……前世で、私が一度も掛けられなかった類の言葉。まぁ、日本人は、あんまりこういうこと言わないか。

 

 律子は、軽く肩をすくめた。


 ……でも、貴重な情報を、——頂戴いたしました。

 ……あの男は、「素敵な宝物」と言った。

 ……これは「お友達」の言葉、ではない。

 ……「愛人」の言葉、ね。

 ……しかも、繰り返している、——継続的なご関係。

 ……一夜限り、ではない。


 律子の内心のファイルが確定した。


 ……証拠、確定。

 ……「Mio tesoro splendido」、三単語で十分。


 律子はもう少し観察を続けた。二人のお互いを見つめになる目線。ヴィオラが男の頬に触れる手。


 ……これ以上は、——悪趣味ね。


 律子は影を部屋の外に出した。


 ◇


 律子は、寝台の上で、目を開けた。


 天井を、見上げた。


 ……見た。

 ……ヴィオラ。

 ……あなたの、本当の舞台は、——あそこなのね。

 ……お父さまの前では、完璧な女優だった。

 ……でも、あの部屋では、——女優では、なかった。

 ……作られていない、笑み。

 ……あれが、本物。


 律子は、静かに、息を、ついた。


 ……証拠が、揃った。

 ……さて。

 ……どうしましょうか。


 足元に、影は、まだ、ない。


 律子は、寝台の上に、寝転んだまま、——天井を見ていた。


 ◇

 

 数時間後、扉が、勢いよく、開いた。


「お嬢様!!!」


 ジーナが、飛び込んできた。修道女の頭巾が、ずれていた。


「——見ましたか!!!」


 律子は、寝台の上で、体を起こした。


「ええ」


「あの男の人!!! あの距離の近さ!!! これはもう、絶対に、怪しいです!!!」


「……ジーナ、あなたは、外で待っていたの?」


「はい! 影さんが中に入っていったので、わたしは外でお祈りしていました! 修道女ですから!」


 律子は、令嬢の笑みで、答えた。


「後で、二人が連れ立って出ていくのをバッチリおさえました」


「——よく、やりました」


「お役に立てましたか!!!」


「ええ。——十分に」


 ジーナは、ぱあっと、顔を輝かせた。


 律子は、少し、首を傾けた。


「ところで」


「はい」


「どうやって馬車に乗ったの?」


「神のお告げ、——と言いました」


「——神のお告げで、通したの?」


 ジーナは、頭巾を、直しながら、笑った。


「——だって、本当に、お告げがあったみたいなものでしょう! 乗らなきゃ、追いつけませんでしたから!」


 律子は、今度は、令嬢の笑みより、少し、本音に近い笑みで、答えた。


「——そうね」


 影が、ジーナの影から、するりと、戻ってきた。


 律子の足元に、静かに、収まった。


 律子は、影を、見た。


 ……お疲れさま。

 ……あなたも、よく、やってくれました。


 影は、律子の足元で、静かに、揺れた。


 ◇


 それから、数日間、律子は作戦を練った。多数の家事事件を扱って来た頭が、状況を整理した。


 ……ヴィオラと若い男の継続的な関係、確定。

 ……お父さまの側にいらっしゃる、その目的は、——

 ……お父さまへの情熱、ではない。

 ……それは、屋敷での様子からも、明らかだった。

 ……目的は、おそらく、侯爵夫人の地位。

 ……お父さまをお財布として利用する計画。

 ……そして、若い男との愛を、育み続ける計画。

 ……これは、前世の調停で、よく見た、「典型的な二股、タイプ」。

 ……お父さまの尊厳を傷つける。

 ……お父さまの家をお護りする必要がある。

 ……家事事件のベテランとしての、——私の仕事。


 ……しかし、相手は、あの手練れの女優だ。

 ……頭も良いし、機転も効く。

 ……そして、あの度胸。

 ……言い逃れさせずに、追い込むことが出来るのか。


 律子は立ち上がった。令嬢の所作で。しかし、内心は別の人物だった。


 ……そちらがベテラン女優なら、

 ……私は、家事事件の調停で、何十人もの愛人案件を扱って来た城山律子。

 ……調停の女王が相手だ。

 ……やる以上、全力で当たらせていただきます。


 律子は母の扇子を握りしめた。この扇子は、私の武器。次の対峙は、これを開く時。


 ◇


 数日後の午後。


 律子は応接間に一人で座っていた。


 お父さまは、王宮へのお出かけ。夕方までお戻りにならない。


 ロドリゴとマルチェッラたちには前もって伝えておいた。


「本日は、ヴィオラ様と私がお話をいたします」


「お茶をお運びいただきましたら、あとは皆様、お下がりくださいませ」


 マルチェッラは少しだけ何かを悟ったようだったが、「承知いたしました」と一礼して引き下がった。


 律子の膝の上にお母さまの扇子。まだ、閉じている。今日は、——開く。


 律子の弁護士の頭が整理した。


 ……対峙の構造の十段階。


 律子は内心、頷いた。


 ……お母さま。

 ……プリュ、参ります。

 ……お母さまのお屋敷をお護り申し上げます。


 扉が叩かれた。


「お嬢様、ヴィオラ様がお見えで、ございます」


「お通しして」


 律子は立ち上がった。令嬢の所作で。しかし、左手の扇子は握ったまま。


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