第55話 侯爵令嬢の、大追跡
休日明けの朝、律子は、自室で、本を読んでいた。仮病を使って学校はお休み。
今日はお父さまは元老院へ。ということは、ヴィオラは自分の家に帰る。
扉が、軽く、叩かれた。
「お嬢様、——準備、できました!」
ジーナが、扉を開けた。
律子が、顔を上げ、
——そのまま、固まった。
白い頭巾。黒い長衣。胸元に、小さな、天秤の紋章。
ジーナが、修道女の服を着て、立っていた。
ただ、背が高いので、修道女にしては、妙に迫力がある。
律子は、本を、閉じた。
「……ジーナ」
「はい!」
「——その服、どうしたの」
ジーナは、少し得意そうに言った。
「実は、昨日、教会に参りまして」
「……教会に」
「シスター・テレーザに、洗濯のご奉仕を提案して、修道服をお借りして来ました」
律子は、しばらく、ジーナを見ていた。
「……ジーナ」
「はい!」
「——別に、変装しなさい、とは、言っていないわよ」
「でも!メイドの格好でヴィオラ様の後をついて行ったら、すぐにバレてしまいます!」
律子は、答えに詰まった。
……それは、正しい。
……完全に、正しい。
「——それは、そうね」
「でしょう! それに、修道女の格好なら、どの通りを歩いても、不自然じゃないですし、——顔も半分隠れますし、お祈りしながら歩いてもおかしくないですし!」
律子は、ジーナを、改めて見た。
白い頭巾の下から、茶色い髪が少しはみ出している。日焼けした丸顔が、頭巾に全く似合っていない。背が高すぎて、修道女というより、修道女に変装した背の高い女性、——にしか見えない。
しかし。
……段取りは、完璧。
……交渉も見事。
律子の口元が、少しだけ、上がった。
「——ジーナ」
「はい!」
「よくやりました」
ジーナの顔が、ぱあっと、輝いた。
「ありがとうございます! お嬢様!」
ジーナは、鏡を覗き込んだ。それから、律子を振り返った。
「——お嬢様、わたし、修道女に見えますか」
律子は、令嬢の笑みで、答えた。
「——遠目には」
「遠目には!」
「近づかれなければ、——大丈夫よ」
「近づかれないようにします!」
律子は、影に、目を落とした。
足元の影が、形を変えた。
……準備は、できている。
「——影さんも、準備ができているそうよ」
「影さん! よろしくお願いします!」
ジーナは、影に向かって、深々と、頭を下げた。
影は、ジーナの足元で、少しだけ、揺れた。
律子の心が、温かくなった。
……この子の行動力は、本当に、凄い。
……動く前に考える人間と、考えながら、動く人間がいる。
……ジーナは、考えながら動くのね。
「——ジーナ」
「はい!」
「——気をつけて、行ってらっしゃい」
「お任せください! 必ず、お役に立ちます!」
ジーナは、修道女の長衣を翻して、扉に向かった。
扉の前で、一度、振り返った。
「——お嬢様」
「ええ」
「——影さんのこと、大事にします」
それだけ言って、出ていった。
扉が、静かに、閉まった。
◇
律子は、窓の外を、見た。
ヴィオラの馬車が、セヴェリーニ家の玄関から、走り出した。
玄関から少し離れた路地の陰で、修道女が一人、それを見送った。
背が高い。歩幅が広い。修道女にしては、足取りが、——やや、元気すぎる。
ジーナは、頭巾を直しながら、馬車の後を、歩き始めた。
律子の口元が、上がった。
……遠目には、大丈夫、と言ったけれど。
……相手の勘が鋭くなければ、の話ね。
律子の影は、ジーナの影に、溶け込んでいた。
律子は、寝台に横になって、目を閉じた。
……さあ。
……舞台裏を、拝見しましょうか。
足元の影は、もうここにはない。
ジーナと一緒に、外を歩いている。
……影さん。
……見えているわ。
影の視界が、流れ込んでくる。
王都の朝の通りの、石畳。行き交う人々の足元。修道女の黒い長衣の裾が、視界の端に揺れている。
……ジーナが歩いている。
律子は、寝台の上で、目を閉じたまま、王都の通りを、見ていた。
◇
ヴィオラの馬車は、速かった。
ジーナは、早足で、後を追った。しかし、馬車との距離が、じりじりと、広がっていく。
……まずい。
ジーナは、唇を噛んだ。
その時、後ろから、荷馬車の音が、した。
ジーナは、振り返った。
野菜を積んだ、大きな荷馬車。御者は、五十代の、人の良さそうな男だった。
ジーナは、——考えるより、先に、動いていた。
「——お待ちください!」
ジーナは、荷馬車の前に、走り出た。
御者が、手綱を引いた。
「おっと、——なんだい、シスター」
「神のお告げが、ございました!」
ジーナは、修道女の所作で、深く、頭を下げた。
「——あの馬車を、追わなければなりません。どうか、乗せていただけませんか!」
御者は、目を丸くした。
「神のお告げ、って——」
「急ぎでございます! 神の御心のままに!」
御者は、しばらく、ジーナを見ていた。
修道女の格好をした、背の高い、日焼けした顔の女性が、真剣な目で、自分を見ている。
「……まあ、シスターの頼みごとなら」
「ありがとうございます! 神のご加護が、ありますように!」
ジーナは、荷馬車に、飛び乗った。
◇
律子の自室。
影の視界が、突然、高くなった。
そして、揺れ始めた。
律子は、寝台の上で、目を開けた。
……あら。
……視点が、高くなった。
……揺れている。
……石畳が、速く、流れている。
……これは、馬車ね。
律子は、天井を見上げたまま、少しだけ、口元を動かした。
……ジーナ。
……どうやって、乗ったの?
◇
荷馬車は、ヴィオラの馬車を、追っていた。
ジーナは、荷台の野菜の袋の上に座りながら、前方を、睨んでいた。
御者が、手綱を操りながら、横目で聞いた。
「——あの馬車は、知り合いかい」
「ええ、まあ」
「どんなご縁で」
「——神のご縁で」
御者は、それ以上、聞かなかった。
馬車は、コルソ通りを、抜けた。王都の、少し古い地区に、入っていった。
ヴィオラの馬車が、ある建物の前で、止まった。
「——ここで、結構です!」
ジーナは、荷馬車から、飛び降りた。
着地しながら、御者に向かって、祈りのポーズをとった。
「——神の祝福が、あなたに、ありますように!」
「ああ、どうも」
御者は、少し、面食らった顔で、手綱を引いた。
荷馬車が、走り去った。
◇
律子の自室。
視点が、低くなって、また、石畳が見えた。
……降りた。
……無事、ね。
律子は、少し、息をついた。
影の視界の中に、古い建物が、見えた。
三階建て。石造り。窓に、厚いカーテン。表向きは、普通の建物。しかし、一階に、小さな看板。
……あれは、——お茶屋。
……二階、三階は、個室か。
律子は、目を閉じたまま、観察を、続けた。
◇
ジーナは、建物の前に、立った。
ヴィオラはもう、中に入っていた。
ジーナは、建物を、見上げた。
それから、足元を、見た。
影が、石畳の上に、伸びていた。
ジーナは、影に向かって、そっと、親指を、立てた。
影が、少しだけ、形を変えた。
ジーナには、影が親指を立てているように、見えた。
ジーナは、小声で言った。
「——行ってらっしゃい」
影は、石畳を、するりと、滑った。
建物の壁に、触れた。
そのまま、壁の隙間に、吸い込まれるように、——消えた。




