第54話 侯爵令嬢、黒歴史が暴かれる
また、別の日。
午後の光が、庭に傾いていた。
律子は窓から、ヴィオラが庭に降りていくのを見ていた。
ヴィオラが庭師のジョルジョに、——声をかけた。
「立派なお庭ですわね。長くお勤めなの?」
ジョルジョは、メイド部屋の前に植えた木に水を撒いていた。
ジョルジョが苦笑混じりに答えた。
「お嬢様がお小さい頃から、——で、ございますよ」
「あら、まあ」
「お嬢様も子供のころは、——この庭を駆け回っていらしたのかしら」
ジョルジョが、庭の池に目を落とした。
「もう十年ほど前で、ございましたか——」
律子の心臓が、——止まりそうになった。
プルデンティアの人生で一番の黒歴史。
……ジョルジョ、ダメ、ダメ、ダメ!
しかし、遅かった。
「お嬢様が、蛙を百匹お育てになって——」
「蛙、百匹?」
「バルナバス坊ちゃまのお誕生会の夜に、箱にお入れになって、お届けしまして——」
ヴィオラが噴き出した。
「まあ、なんてお元気なお嬢様!」
「ええ、ええ、——その後、奥様が『仕返しをしては、駄目よ』、とお諭しになられて——」
律子の胸が、刺されたように痛んだ。
……お母さまの、あのお言葉。
……プリュの人生の指針になった、お言葉。
……それも、この女の耳に。
プルデンティアの感情は、もう爆発寸前だった。
しかし——
律子の頭は、別のことを見ていた。
ヴィオラの噴き出した笑い、その後の顔。
……あら。
ヴィオラの顔が、一瞬、疲れていた。完璧な社交の笑みの、その下に、つまらなそうな表情。
律子の前世の家事事件の勘が、強く反応した。
……これ、知っている顔。
……前世の調停で、何度も見た顔。
……この屋敷の調査をしながら、舞台を作りながら、——それでも心はここにない。
律子は心の中で頷いた。
……ヴィオラには、——別の生活がある。
……お父さまお側だけで生きているわけではない。
律子の心のファイルが更新された。
……愛人がいる可能性、また上昇。
……しかし、証拠は、——まだ不十分。
◇
その翌日。
マルチェッラが、律子の部屋に来た。
いつも通りの所作でお茶を置いた。いつも通りの礼をした。
しかし、退出しかけたところで、——少しだけ、足が止まった。
律子は気づいた。
「マルチェッラ」
「はい、お嬢様」
「——どうかなさいました?」
マルチェッラは、少しの間、黙っていた。
言葉を選んでいる、というより——何かを、測っている。
「……いえ」
マルチェッラは、少しだけ、首を傾けた。
「——ヴィオラ様のお召し物が、少し、——気になりまして」
「お召し物?」
「いつも閣下のお好みの上品な色のお召し物でいらっしゃいますのに、——今日に限って、袖口の裏地が、——派手な朱色で、ございましたので」
マルチェッラは何も付け加えなかった。ただ、——首を傾けた理由だけを言った。
……でも、よく見ているわね。
律子は、お茶のカップを、静かに、置いた。
「——ありがとう、マルチェッラ」
「……いえ、お嬢様」
マルチェッラは一礼して、退出した。
扉が、静かに閉まった。
◇
律子は、窓の外を見た。
お母さまの薔薇の葉が、午後の光の中で、揺れていた。
律子の頭の中で、三つが並んだ。
ペッピーノから聞いたお話の——声色の温度差。
ジョルジョの前でのヴィオラの——疲れたお顔。
そして、袖口の——朱色の裏地。
……三つ、揃った。
律子の前世の家事事件の頭が、静かに、結論を出した。
……ヴィオラには恋人がいる。
……お父さまへの感情は、本物ではない。
……経済的な理由で、侯爵夫人の席を、狙っているだけ。
律子はお茶を一口、飲んだ。
……まだ、状況証拠だけ。
……お父さまにお話するには、足りない。
……物的証拠が、必要。
しかし、——
律子は、影を見た。足元の影を。
……どうする?
その時。
扉が、勢いよく、開いた。
「お嬢様!」
ジーナだった。
お盆を持ったまま、目を輝かせて、飛び込んできた。
「ヴィオラ様って、素敵な方ですよね! 凄くないですか! もしかして、あの方が——新しいお母さまになられるのでしょうか! お綺麗な方ですし、閣下もきっとお寂しかったでしょうし——」
プルデンティアの顔が、ひきつった。
ジーナは、自分が何を言ったか、気づいていない。——目を輝かせたまま、続けている。
「——お嬢様にとっても、嬉しいことですよね! 凄いと思います!」
律子は、お茶のカップを、静かに、置いた。
令嬢の笑みを、保った。
しかし、——
……お母さま。
プルデンティアの十三歳の身体が、固まっていた。
……「新しいお母さまに」、——という言葉が。
……処理しきれない速さで、刺さった。
ジーナは、まだ、気づいていない。
「——お嬢様? どうかなさいましたか?」
律子は、息を、一つ、整えた。
「——ジーナ」
「はい!」
「ありがとう。——お盆を、そこに置いてちょうだい」
「あ、はい!」
ジーナがお盆を置いた。それから、律子の顔を見た。
何かに気づいたのか、——少しだけ、表情が曇った。
「……お嬢様、もしかして、わたし、何か——」
「いいえ」
律子は、令嬢の笑みで、答えた。
「——何でもないわ」
ジーナは、まだ、少し、心配そうにしていた。
律子は、窓の外の薔薇の葉を、もう一度、見た。
……ジーナ。
……あなたは、悪くない。
……ただ、——
足元の影が、静かに、形を変えた。
律子は、影に、目を落とした。
……そう、ね。
……証拠が、必要。
影が、また、形を変えた。
律子は、少しだけ、首を傾けた。
……あなたが、行ける?
影は、答えなかった。
しかし、律子の足元で、少しだけ、伸びた。
律子は、ジーナを見た。
ジーナは、まだ、心配そうに、律子を見ていた。
……ジーナ。
……あなたが、地雷を踏んだのは、本当。
……でも、——
律子の口元が、少しだけ、上がった。
「——ジーナ」
「は、はい!」
「一つ、お願いがあるのだけれど」
「なんでしょう!なんでもおっしゃってください!」
ジーナの目が、また、輝いた。
律子は、令嬢の声で、言った。
「——今度、ヴィオラ様が、お帰りになる時」
「はい」
「後をつけて、——影を、一緒に、連れて行ってくださる?」
ジーナが、きょとんとした。
「……影さんを?」
「ええ」
「……どこへ?」
「——ヴィオラ様の、行かれる先へ。これは、今度、孤児院へ行くための予行演習」
ジーナは、少しの間、律子を見ていた。
それから、胸をどん、と叩いた。
「——お任せください!」




