第53話 侯爵令嬢、カチンとくる
それから、ヴィオラ・モレッリは屋敷に出入りするようになった。お父さまが笑うのを見ると、心が和んだ。喪が明けてから、ずっと静かだった屋敷に、——別の空気が入ってくる感覚。
……お父さまに、こういう時間も、——必要なのかもしれない。
そう思う一方で、ヴィオラがお母さまの席に座るたびに、——律子の心に何かがチクリと刺さった。
そして、律子の違和感も膨らんでいた。全てが——彼女の作る舞台のように見えてしまう。
……あの方の——真意はどこにあるか。
……あの方は、お母さまのお席にお座りになるに、——ふさわしいか。
……それを、私が見極めさせていただきます。
律子は、頷いた。
……ただ、観察し、——記録する。
……時が来たら、——動く。
……弁護士の基本だ。
◇
その日も、ヴィオラは当然のような顔をして居間にいた。
ヴィオラがお茶を注文した。侍女がお茶を運んできた。カップがテーブルに置かれた。
律子の息が一瞬、止まった。
……あ。
白磁に淡い青の縁取り。
……お母さまの——お気に入りのカップ。
……アイスブルーのお母さまの瞳と同じ色のカップ。
ヴィオラがカップに口をつけた。唇がカップの縁に触れた。——ゆっくりとお茶を飲んだ。
律子の表情は変わらなかった。令嬢の完璧な微笑み。——しかし、心のファイルに一行、書き込まれた。
……このカップ、あなたがお使いになるべきでしょうか。
律子はお茶をひとくち、飲んだ。——令嬢の所作で。しかし、ファイルは既に開いていた。
ヴィオラが、カップを、ソーサーに、置いた。
そこで、ヴィオラが取り上げた話題は、——お父さまの元老院での仕事に関係する、法案の話だった。
彼女が詳しいはずもなく、社交界の伝手をたどって、——情報を集めてきたことが話の端々に滲んでいた。
「——侯爵、一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「元老院で、婚姻に関する法案が、審議されているとか、伺いましたが」
侯爵の目が、少し、動いた。
「……よく、ご存知ですね」
「未亡人の身には、——他人事でございませんので」
ヴィオラは、扇子を、軽く、閉じた。
「教会から、世俗の法廷へ、婚姻の管轄を、移すのでございましょう」
「ええ。——審議は、難航しております」
「教会派の、反発があるのですね」
「左様。——しかし、現行のままでは、たとえ夫から妻への暴力があっても、——妻側からは、婚姻の解消を申し立てられない」
「まあ」
ヴィオラの目が、少し、曇った。
「それは、——あまりにも」
「ええ。——これは、法の問題です。信仰の問題では、ない」
侯爵は、少し、間を、置いた。
それから、静かに、続けた。
「——誰もが、教会で、神に、永遠の愛を、誓う」
「ええ」
「しかし、それは——人間の、望みです」
応接間が、少しだけ、静まった。
「永遠の愛を、維持するには、——思いやりと、たゆまぬ努力が、いる」
「……」
「神が、永遠の愛を、保証する、わけでは、ない」
侯爵は、窓の外を、見た。
「誓いは、人間が、するものです。だから、——人間の法が、それを、扱うべきだ」
ヴィオラは、しばらく、侯爵を、見ていた。
それから、静かに、言った。
「——大変、よく分かりますわ」
その声は、いつもより、少し、低かった。
侯爵は、窓の外から、視線を、戻した。
「——ヴィオラ夫人も、ご苦労が、おありだったのでしょう」
「いいえ」
ヴィオラは、首を、振った。
「——夫は、誠実な人でした。ただ、病に、勝てなかっただけで」
「……それは、失礼を」
「いいえ。——ただ、その後に、気づいたのです」
ヴィオラは、扇子を、ゆっくりと、開いた。
「——誓いを、維持しようと、努力できる相手がいる、ということが。——どれほど、有難いことか、と」
侯爵は、答えなかった。
ただ、少しだけ、視線を落とした。
◇
律子は、お茶のカップを、持ったまま、その場面を、見ていた。
前世で扱った離婚案件が、次々と浮かんでくる。
暴力を受けながら、——証拠が揃わずに申し立てを諦めた依頼人。子供の親権のために、——離婚を踏みとどまった依頼人。不貞の証拠を集めるために、——何年もかかった案件。
……弁護士の時は、——証拠基準が高すぎることが、問題だった。
……でも、この世界の女性たちは、——その申し立てすら、できない。
……お父さまの法案が、通れば。
……変わる。
でも、十三歳の令嬢が、それを口にすることは不自然だ。
律子は令嬢の笑みを保ったまま、——お父さまの横顔を見た。
……お父さまが、永遠の愛の話を、している。
……思いやりと、たゆまぬ努力が、——いる。
……お父さまとお母さまは、その努力を、続けていらした。
……だから、——素晴らしい家庭を築けた。
律子は、カップを、置いた。
……ヴィオラは、今の言葉を、——どう、受け取ったか。
……「努力できる相手がいることの有難さ」。
……——上手い。
……お父さまの言葉を、受け取って、——すぐに、返した。
……お父さまの心の、動く場所を、——正確に、射た。
……でも。
律子の頭の中で、何かが、静かに、動いた。
……「誓いを維持しようと努力できる相手」。
……ヴィオラには、その相手が、別に、——いるかも。
……それでも、この言葉を、言える。
……さすがに、——女優。
律子は、令嬢の笑みを、保っていた。
……ヴィオラ。
……あなたは、今日も、自分の舞台で演じていらっしゃるのね。
しかし、内心の家事事件弁護士のファイルが、また一行、更新されていた。
律子の観察は続いた。
でも、ヴィオラの舞台作りも続いていた。
◇
ある午後。
律子は二階から降りようとして、厨房の扉の前で、足を止めた。
扉の中から、——声が漏れていた。
ヴィオラの、少し甘えた声。
「ペッピーノ、ねえ、お願い。——プルデンティア様の小さい頃のお話を、聞かせてちょうだい?」
ペッピーノの声が戸惑っている。
……ヴィオラが私のことを、——調べている?
律子はそのまま扉の前で、会話を聞き続けた。
「お、奥様、——いえ、ヴィオラ様、——」
「料理長のお話を、聞きかせていただきたいの。——三十年もお仕えでいらっしゃるんでしょう?」
「左様で、ございますが——」
「小さいお嬢様、——それは可愛らしかったでしょう?」
ペッピーノの声が、少し、緩んだ。
律子が心の中で叫んだ。
……ペッピーノ、ダメ、ダメ、ダメ!
……女優の話術に、乗っちゃダメ!
しかし、遅かった。
「左様でございますね、——可愛らしいお嬢様で、いらっしゃいました」
「ねえ、一つで良いから、一番、可愛らしかったお話を聞かせて」
「——」
「私、プルデンティア様のお母様、——と申し上げる立場では、ございませんが、——侯爵のお側にいる者として、お嬢様の小さい頃を知っておきたいの」
律子は内心、頭を抱えた。
……出ました、「お父様のお側にいる者として」、——立場のすり替え戦術。
……前世の調停で、三十回は見た。
……ペッピーノ、耐えて!
しかし、ペッピーノは耐えなかった。
「五歳半の頃で、ございましたか、——」
律子の体が固まった。
……来た。来てしまった。
ペッピーノが語り始めた。
深夜、五歳半のお嬢様が眠れなくて、厨房にお一人で降りていらした。コルネリア様に諭され、お嬢様が泣きそうなお顔で「ごめんなさい、ペッピーノ」と。
ヴィオラの声が、うっとり、と響いた。
「まあ、なんて可愛らしいお話」
「奥様もお優しいお方でいらっしゃったのね」
「お嬢様の小さい頃のご様子、よく分かりましたわ」
律子は扉の陰で、崩れ落ちそうになった。
……お母さまと私だけのお話が——
……あの、お母さまのお声が——
……あの女の耳に——
プルデンティアの感情は、怒りで震えそうになった。
しかし——
城山律子の頭は、別のことに気づいていた。
……ヴィオラの声が、一瞬、お父さまへのお話と——少しだけ温度が違った。
……お父さまの前での声色とも、少し違う。
……ペッピーノに対しては、もっと「情報を引き出す」、——職人技の温度。
……あら。
……ヴィオラ、お父さまのお側にいない時は、少し違うのね。
……お父さまの前でのお顔と、使用人の前でのお顔が、使い分けできていらっしゃる。
……さすがに、女優。
律子の心のファイルに一行、追加された。
……ヴィオラ、お父さまへのお声色に、情熱、薄め。
律子は扉の陰からそっと退いた。




