第52話 侯爵令嬢、屋敷が舞台になる
コルソ侯爵家の晩餐会から、数日後のこと。
律子は、屋敷の図書室にいた。
母の遺した法律書を何冊も広げて、——あちこちに付箋を挟んでいた。
この膨大は法律を、——体系的に整理する。
……気の遠くなるような作業。
……でも、これが出来るのは私しかいない。
再び、紙面に目を落とす。
そこへ、マルチェッラが、扉を、軽く叩いた。
「お嬢様」
「ええ」
「閣下を訪ねてお客様が、いらっしゃいました」
「お父さまに、お客様?」
「はい。——ヴィオラ・ダルコ様、と、おっしゃる方で」
律子は、本から、目を上げた。
……ヴィオラ。
「——お父さまは」
「応接間に、いらっしゃいます。——お嬢様にも、ご挨拶を、とのことで」
律子は、本を閉じた。
◇
階段を下りながら、律子は、応接間の方に、耳を澄ませた。
……お父さまの声。
……それから、女性の声。
……そして、——お父さまの、笑い声。
律子の足が、一瞬、止まった。
……笑い声。
……晩餐会の時と同じ。
……久しく聞いていなかった明るい笑い声だ。
律子は、令嬢の所作を、整えた。
扇子を、軽く、握り直した。
……参ります。
◇
応接間の扉を、マルチェッラが、開けた。
侯爵が、ソファーに座っていた。
向かいに、ヴィオラが、座っている。
深い緑のドレス。セヴェリーニ家の応接間の、暗い木目の家具に、——よく、合っていた。
手土産らしい、小さな箱が、テーブルの上に、置かれていた。
律子は、一瞬で、その箱を確認した。
……あの箱は、——王都の、有名な菓子店の。
……お父さまが、唯一、召し上がる甘いもの。
……よく、ご存知ね。
「プリュ、——ヴィオラ夫人が、いらしてくださった」
「ヴィオラ・ダルコでございます。先日は勝手に歌の題材にして——失礼いたしました」
ヴィオラは、立ち上がって、律子に、貴族らしい礼をした。
「いいえ、——あの時は、本当に助かりました」
律子は、令嬢の礼で、応じた。
ヴィオラは、律子を、見た。温かい目で。しかし、一瞬だけ、——値踏みの光が、混じった。
……あら。
……今、何かを、測った。
「——本当に、お美しいお嬢様ですこと」
ヴィオラは、微笑んだ。
「カリスト殿下も、——お幸せでいらっしゃいますわ」
律子は、令嬢の笑みで、返した。
「ありがとうございます」
◇
お茶が、運ばれてきた。
ジーナが、お盆を持って、入ってくる。
ヴィオラは、ジーナを眺めた。
「——まあ、可愛らしい侍女さんね」
「ありがとうございます!」
ジーナは、ぱあっと、顔を輝かせた。
ヴィオラは、笑った。侯爵も、笑った。
……この人は分かってやっている。
……ジーナが顔を輝かせることも。
……それで、場が和む、——ことも。
律子は、お茶のカップを、手に取った。
……出来過ぎているわね。
◇
話は、弾んでいた。
「——先日の、腰を抜かされた貴族の殿方の、その後が、気になっておりましたの」
ヴィオラは、笑みを浮かべながら言った。
「ああ。心配ありません。翌日には、何事もなかった顔で、役所にいらした」
「まあ」
ヴィオラは、扇子で、口元を隠した。
「——さすが、貴族ね。立ち直りが、お早い」
「悪い人ではないのですが、……少し酒癖が悪くて」
侯爵は、少し、間を置いた。
「——実は、十年前、相続の件で、相談を受けたことが、あって」
「相続、でございますか」
「ええ。——先代から、遺言書が、三通、出てきた、という、ご相談で」
「——三通も」
「ええ、実はその先代も酒癖が悪かったらしく、酒を飲みながら、興が乗ったら遺言を書いていた。——その時の気分で。だから、それぞれ、書かれた日付が、違う。内容も、違う。——どれが、有効か、という話で」
ヴィオラは、少し、前のめりになった。
「——それは、どうなりましたの」
「最終的には、一番、新しい日付のものが、有効、——ということに、なりましたが」
「まあ」
「ただ、その最新のものは一部が読みにくく、——泥酔して書いたのではないかという話になり」
「——それは、大変」
「ええ。——それで、また、一から、やり直しに」
ヴィオラは、笑った。
「——まるで、舞台のようですわ」
「舞台ねぇ」
「ええ。——私、以前、相続争いを題材にした、喜劇に、出たことが、ございまして」
「ほう」
「遺言書を巡って、兄弟三人が、それぞれ、全財産を自分のものと思い込んで、大騒ぎをする、という話で」
「——それは、また」
「最後には、全財産が、実は、莫大な借金だった、と分かって、三人とも、青ざめる、——という結末でございますの」
侯爵は、また、楽しそうに笑った。
「——それは、面白い」
「お客様には、大変、受けましたの。笑えるけれど、他人事ではない、というのが、よろしかったのかしら」
「——いや、」
侯爵は、珍しく、続きを、言った。
「——現実は、物語より奇なり、と申しまして」
「まあ、——そうなのでございますか」
「ええ。——似たような判例が、実際に、ございまして」
「判例」
「兄弟三人が親を連れて、それぞれ、別々の公証人のところへ行って、それぞれ、自分に有利な遺言書を、作らせた、という事例が」
「——まあ!」
ヴィオラは、扇子を、閉じた。
「——三通も、作らせた、のでございますか」
「ええ。——それぞれ、本物の公証人の、本物の証明付きで」
「——それは、どちらが、有効に」
「——裁判所が、全て、無効と、判断しました」
「全て?」
「ええ。——認知能力がなかった、という理由で。要するに呆けていたわけです。」
ヴィオラは、しばらく、侯爵を見ていた。
それから、——笑い出した。
「——侯爵、」
「ええ」
「——それ、喜劇より、面白うございますわ」
侯爵は、少し、照れたように、目を細めた。
「——判例は、たいてい、そういうものです」
「——ぜひ、もっと、聞かせていただきたいわ」
ヴィオラは、カップを、置いた。
「——侯爵のお話は、大変、面白いのですもの」
侯爵は、——また、笑った。
律子は、お茶のカップを、手に取ったまま、その場面を、見ていた。
……お父さまが、——判例の話を、している。
……私はともかく、普通の人は興味を持ちにくい話題。
……でも、ヴィオラは、——続きを、求めた。
……本当に、面白いと思っているのか。
……それとも、——面白いと思わせるのが、上手いのか。
……分からない。
……でも、全てが、
律子は、カップを、置いた。
……出来過ぎている。
◇
帰り際。
ヴィオラは、律子に、向き直った。
「——プルデンティア様、いずれアルカディアへ、お発ちになるのでしょう」
「ええ、——予備法曹学院を卒業しましたら、アルカディアの賢者学府へ参ります」
「——寂しくなりますわね、侯爵も」
ヴィオラは、チラ、と侯爵を見た。侯爵は、小さく、頷いた。
律子は、令嬢の笑みで、答えた。
「——ヴィオラ様のような方が、お父さまをお気にかけてくださると、——安心でございます」
ヴィオラは、少し、目を細めた。
「——まあ」
それだけ言って、微笑んだ。
その微笑みは、完璧だった。
◇
玄関で、ヴィオラを見送った後。
侯爵は、書斎に、戻った。
律子は、玄関ホールに、少しの間、佇んでいた。
馬車の音が、遠ざかっていった。
その音が、消えた瞬間。
屋敷の空気が、——すっと、元に戻った。
……。
律子は、それを、感じていた。
……ヴィオラがいる間、空気が、変わっていた。
……彼女が帰ると、——元に戻る。
……それが分かるということは。
……私も、彼女の作った舞台の上に、いた。
足元の影が、形を変えた。
律子は、影に、軽く、声をかけた。
……ええ。
……分かっているわ。
◇
中庭に、出た。
アウレリオが、いた。
いつもの黒いコートで。中庭の隅の、日陰に、立っていた。銃の手入れをしていた。
律子は、近づいた。
「アウレリオ」
「……」
「ヴィオラ・ダルコ様を、——ご覧になっていた?」
アウレリオは、銃身を拭く手を、止めなかった。
「——害は、ない」
短く、言った。
「——ただ」
少し、間があった。
「——肌の張りが、あり過ぎる」
本物の十三歳なら分からないだろうが、律子には、その言葉が引っかかった。
……肌の張り。
……盛りを過ぎた女性の、肌。
……でも、あり過ぎる。
……若い男が、——いる?
律子の家事事件弁護士の経験が、一瞬で、そこまでたどり着いた。
「——アウレリオ」
律子は、令嬢の声で、言った。
「——何を、見ているのよ」
アウレリオは、答えなかった。
銃身を、静かに、拭き続けていた。
その時。
背後から、ジーナの声が、した。
「お嬢様! ——アウレリオさん!」
二人が、振り返った。
ジーナが、中庭に、飛び込んできた。
「——お二人とも、こんなところに! ——あの、さっきの、ヴィオラ様ですけど」
「ええ」
「——素敵な方でしたよね! ——凄いお綺麗で、お話も上手で!」
「……そうね」
「——アウレリオさんも、そう思いませんか!」
アウレリオは、答えなかった。
ジーナが、アウレリオを、見た。
「……アウレリオさん?」
「——肌の張りが、あり過ぎる」
アウレリオは、また、同じことを、言った。
ジーナの顔が、みるみる、変わった。
「——ちょっと! ——何を見てるんですか! ——素敵な方に向かって、不潔!」
アウレリオは、答えなかった。
銃身を、拭き続けていた。
「——ちょっと! ——聞いてますか!」
律子は、令嬢の笑みを、保っていた。
……ジーナ。
……あなたは、気づかなくて、いい。
……まだ今は。
中庭の日差しが、傾いていた。
足元の影が、静かに、揺れていた。




