第51話 侯爵令嬢、舞台女優に会う
広間が、凍りついていた。
誰も動かなかった。誰も声を出さなかった。
床に、まだ、へたり込んでいる貴族が、「禍々しい……禍々しい……」と、小声で、繰り返していた。
セヴェリーニ侯爵が、広間の向こうで、固まっていた。
コルソ侯爵が、何か言おうとした。口を開いたが、言葉が詰まった。
律子は、令嬢の笑みを、保ってはいたが、良い考えは浮かばなかった。
……どうしましょう。
……この場を、どう、収める?
……魔法の暴走はカリスト殿下が、無効化してくださった。
……でも、この凍り付いた場は、——魔法では、解けない。
カリストも、広間を見渡していた。公太子の顔で。しかし、——次の手が、出ない。
燭台の炎が、揺れた。
その時。
広間の、反対側から。
歌声が、した。
◇
一声。
ただの一声が、凍りついた広間の空気を、——一瞬で、溶かした。
透き通った、しかし芯のある声。——鍛えられた、本物の歌声。
全員の視線が、そちらに向いた。
広間の中央に、一人の女性が、立っていた。
深い赤のドレス。金の刺繍。豊かな黒髪。盛りを知っている女の、自信に満ちた立ち姿。
彼女は、歌いながら、歩いていた。
床を滑るように。炎の光の中を。まるで、この広間が、初めから自分の舞台だったように。
歌詞は、即興だった。
しかし、完璧だった。
◇
「——さあ閣下、手をお取りになって」
女性は、へたり込んだ貴族の前で、膝を折った。優雅に。笑みを浮かべて。
「——今夜は踊る夜、立ち上がる夜」
男は、呆気に取られて、女性を見ていた。
「——転んだなら、また立てばよろしい」
女性は、片手を、男に差し伸べた。
「——それが、貴族というものでしょう」
広間の、どこかで、くすり、と笑いが漏れた。
男は、——女性の手を、取った。
立ち上がった。
女性は、立ち上がった男を、くるり、と一回転させた。踊りの動作で。自然に。
男は、——なぜか、踊っていた。
広間の笑いが、大きくなった。
◇
女性は、男を解放すると、広間の中央へ、向き直った。
視線が、カリストとプルデンティアへ、向いた。
歌声が、高くなった。
「——見よ、この夜の、最強の二人を」
カリストが、少し、背筋を伸ばした。
「——影の魔法と、無効化の御力」
女性は、両手を広げた。
「——盾と矛が、並び立つとは」
「——これぞ、天が結んだ、縁というもの」
広間に、拍手が、起きた。
カリストは、称えられていた。しかし、主役を持っていかれて、——どこか、微妙な顔つきだった。
律子は、令嬢の所作のまま、内心で、そっと、笑った。
◇
女性は、くるり、と広間全体に、向き直った。
「——さあ皆様、今夜こそ好機」
歌いながら、招待客の間を、縫うように、歩いた。
「——アルカディアの御方と、お近づきになるなら、今ですよ」
招待客の一人が、笑った。隣の人も、笑った。
「——ご挨拶は、お早めに」
ある夫人の前で、ひらりと一礼した。夫人が、笑った。
「——今夜だけの、特別席」
ある老紳士の前で、目配せした。老紳士が、破顔した。
広間全体が、——笑っていた。
拍手が、広がった。
◇
律子は、扇子を持ったまま。令嬢の所作のままで立っていた。
……。
……すごい。
律子は心の中でつぶやいた。
……場の全員を、——一瞬で、掴んだ。
……凍りついた空気を、——歌一つで、溶かした。
……腰を抜かした男を、笑いものにせず、——踊らせた。
……これは、度胸だけではない。
……技術だ。
……本物の、舞台の人。
隣で、キアラが、口を開けていた。
ぽかん、と。完全に。
律子が「キアラ」と呼んでも、気づいていないようだった。
◇
広間の奥で、セヴェリーニ侯爵が、胸に手を当てていた。
ほう、と息をついた。
コルソ侯爵が、侯爵の隣に寄った。
「——助かりました。まさか、あのような方が」
セヴェリーニ侯爵は、女性を見ながら、言った。
「……あの方は」
「ヴィオラ・ダルコ、と申します」
コルソ侯爵は、少し声を低くした。
「——かつての、舞台女優で。今は、男爵夫人でいらっしゃいます。ただ、先年、ご夫君を亡くされて」
「舞台女優……そうですか」
侯爵は、もう一度、女性を見た。
ヴィオラは、まだ、広間を歩いていた。招待客の間を縫いながら。笑みを振りまきながら。
その背中を、侯爵は、静かに、見つめていた。
◇
晩餐会は、再び、動き出していた。
ヴィオラの歌が終わると、招待客たちは思い思いに話し始めた。笑い声が、広間に戻った。
腰を抜かした貴族の男は、いつの間にか、姿を消していた。
コルソ侯爵が、セヴェリーニ侯爵の隣に、戻ってきた。
「——セヴェリーニ侯爵、——よろしければ、ヴィオラ夫人をご紹介いたしましょう」
セヴェリーニ侯爵は、短く、頷いた。
◇
コルソ侯爵が、ヴィオラに、歩み寄った。
ヴィオラは、招待客の夫人と、話していた。笑いながら。自然に。まるで、——先ほどの即興の歌など、なかったかのように。
「ヴィオラ夫人」
「コルソ閣下」
ヴィオラは、コルソ侯爵に向き直った。
「——先ほどは、助かりました。おかげさまで、場が、救われました」
「まあ」
ヴィオラは、扇子で、口元を隠した。
「——お役に立てたなら、幸いでございますわ」
「ぜひ、——セヴェリーニ侯爵に、ご紹介を」
コルソ侯爵が、セヴェリーニ侯爵に手を向けた。
「クラウディウス・セヴェリーニ侯爵。法王国元老院の、法務担当でいらっしゃいます」
「ヴィオラ・ダルコでございます」
ヴィオラは、礼をした。舞台女優の礼儀は、完璧だった。
「先ほどは娘を助けていただきましてありがとうございました」
「お嬢様は魔法の才能がおありですわね」
侯爵は
「——いや。ご迷惑を、おかけしました」
「まあ、とんでもない」
ヴィオラは、扇子を、軽く動かした。
「——あの壁一面の影、——見事でございましたわ。あれほどの魔法は、なかなか見られません」
「……友達のことで——少し、むきになったようで」
「それが、また、よろしかった」
ヴィオラは、笑った。舞台で磨かれた、人を引き込む笑みだった。
「——完璧な魔法より、少し手に余る魔法の方が、——見ていて、面白うございます」
侯爵は、その言葉を、少し、意外そうに聞いていた。
……律子は、キアラに声をかけながら、少し離れた場所から、その二人を、見ていた。
……お父さまが、——珍しいお顔をしていらっしゃる。
◇
「お嬢様の晴れの舞台に——奥様は同席されておりませんの?」
「ええ、先立たれまして」
「まぁ」
ヴィオラは、少し、声のトーンを変えた。
「——お嬢様が公太子とご婚約。——奥様が見たらどんなに晴れがましかったか」
侯爵は、短く、頷いた。
「……ええ」
「——私も、夫を亡くしました。昨年のことでございます」
「……そうでしたか」
「いいえ」
ヴィオラは、扇子を閉じた。
「——暗い話は、今夜は、なしにいたしましょう。今夜は、踊る夜、でございますから」
侯爵は、——驚いたように顔を上げた。
そして、笑った。
律子は、それを、見ていた。
……お父さまが、——笑っている。
◇
「——いつか、お礼をさせていただければ、と思うのですが」
侯爵が、珍しく、自分から、言った。
ヴィオラは、扇子を開いた。その目が、侯爵を、一瞬、見た。
「——まあ」
それから、扇子の陰で、微笑んだ。
「——それは、楽しみでございますわ」
まんざらでもない、温度だった。
コルソ侯爵が、二人の横で、満足そうに、頷いていた。
◇
律子は、その場面を、令嬢の笑みで、見ていた。
……お父さまと、ヴィオラが笑っている。
隣で、キアラが、律子の袖を、そっと、引いた。
「——プルー」
「ええ」
「あの方、——すごくない?」
律子は、令嬢の笑みで、答えた。
「——ええ。世界が違う感じね」
キアラは、もう一度、ヴィオラを見た。
「——どんな方なの」
「——かつての、舞台女優だそうよ」
「……舞台女優」
キアラは、しばらく、ヴィオラを見ていた。
それから、小声で、言った。
「——なんか、分かる気がする」
律子は、その言葉を、静かに、受け取った。
……キアラには、見える。
……舞台に立つ人間の、本物の力が。
足元の影は、ただの影として、燭台の炎に、静かに、揺れていた。




