第50話 侯爵令嬢、親友を助ける
広間の向こうに、栗色の巻き毛が、見えた。
律子は、令嬢の所作を保ったまま、そちらに向かった。
キアラが、両親の隣で、緑のドレスを着て、——少し固くなって、立っている。
律子が近づくと、キアラの目が、一気に、明るくなった。
「プルー!」
令嬢の所作を、超えた声量だった。
「キアラ」
律子も、少しだけ、令嬢の笑みを緩めた。
「来てたの! ——良かった!」
「ええ。——ドレス、素敵よ」
「本当に!? ——緊張して、それどころじゃなくて」
「大丈夫。——よくお似合いよ」
キアラは、律子の腕を、少しだけ、掴んだ。
「プルー、ねえ、——殿下は、どちら?」
「あちらに、——」
「どこ!? ——どこ!?」
キアラは、律子の腕を掴んだまま、背伸びをした。
……キアラ。
……良かった。緊張が、飛んでいる。
「あそこよ。お父さまの隣の——」
「——!」
キアラが、息を呑んだ。
「……プルー」
「ええ」
「……絵姿より、—美しいじゃない」
「ええ」
「……絵の先生が美しく描いた絵姿より、——本人の方が、美しいこともあるのね」
「私も、——同じことを、思ったわ」
キアラは、しばらく、カリストの方を見ていた。
それから、律子を見た。
「……あんな方が、自動車遊びに夢中に」
「ええ」
二人は、顔を見合わせた。
それから、——同時に、笑った。令嬢の所作の、ぎりぎりの範囲で。声を殺して。肩を揺らして。
キアラの母親が、隣で、困った顔をした。
律子の影は、夜の大広間の床の上で、燭台の炎に揺れていた。
静かに、二人に寄り添うように。
◇
再び、招待客を回る途中で、律子は、広間の奥に、見知った顔を、見つけた。
黒いドレスに、大ぶりの翡翠の首飾り。扇子を、忙しなく動かしている。
ルクレツィア・フォンターナ伯爵夫人。
隣に、恰幅の良い、五十代の男性。落ち着いた目をしている。フォンターナ伯爵だろう。
律子は、カリストに、令嬢の声で言った。
「殿下、——少し、ご挨拶に参ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「お父さまと、——ごゆっくり」
律子は父に軽く目で合図した。侯爵が短く頷いた。
律子は、カリストから離れた。
足元の影が、——すっと、形を変えた。
……ああ。
……影さんが戻ってきた。
◇
フォンターナ夫妻に、近づくと、ルクレツィアが、先に律子に気づいた。
「あら、——セヴェリーニ嬢」
ルクレツィアは、扇子を止めた。相変わらず眼力の強い目で、律子を眺めた
「ルクレツィア様、——本日はお目にかかれて、光栄でございます」
律子は、令嬢の礼をした。
「フォンターナ伯爵、——初めてお目にかかります」
「うむ。——セヴェリーニ侯爵の令嬢か」
伯爵は、穏やかな目で、律子を見た。治安長官の目。——しかし、温かい。
「アウレリオが、——よくやっているようだな」
「はい。——大変、心強うございます。来られて半日で——」
「聞いている」
伯爵は、短く言った。
「犯人から雇い主を探っている。セヴェリーニ侯爵とは、長い付き合いだ。出来ることはするさ」
伯爵は、それだけ言って、広間の向こうに目をやった。
律子は、令嬢の所作で、一礼した。
ルクレツィアが、扇子を再び動かしながら、律子に言った。
「あの子が—役に立ったのは、結構なのだけど」
「ええ」
「ツンツンしているでしょう。愛想がないのよね、昔から」
「……少し」
律子は、少しだけ、笑った。令嬢の、ではなく、本音の笑み。
「でも、——頼もしい方です」
「あら、——そう言ってもらえると、助かるわ」
ルクレツィアは、扇子で口元を隠しながら、律子をもう一度、見た。
「流石にコルネリア様のお嬢様ね。——目が、似ているわ」
それだけ言って、扇子を閉じた。
律子は、その一言を、静かに受け取った。
……お母さまのを知っている方が、ここにも、いる。
◇
その時。
広間の少し離れた場所で、——声がした。
低い、中年の男の声。
「——お嬢さん、その真珠にエメラルド、随分と、立派なものだ」
律子の耳が、捉えた。
「王族でもあるまいに、——成金まるだし、とはこのことですね」
律子は、声の方に、目を向けた。
広間の柱の近く。
三十代の男が、キアラの前に立っていた。黒の礼装。胸の紋章。貴族の装い。——しかし、どこか、くたびれた感じがする。——顔が紅く、酒に酔っているのが一目でわかった。
キアラは、固まっていた。緑のドレスの胸元に、大粒の真珠の首飾り。エメラルドのブローチ。——ロッセリーニ商会の確かな財力を示す、品のある宝石。
しかし男は、——それが気に障ったようだった。
キアラの父親が、隣で口を引き結んでいた。——商家の人間として、この場で貴族に言い返すことの代償を計算している。
律子の頭が、一瞬で回った。
……あの紋章。
……おそらく、ロッセリーニ商会に屋敷を売った、落ち目の一族の、一人だ。
……キアラの両親には直接言えないから、
……娘に絡んでいる。
律子は、ルクレツィアに、一礼した。
「——失礼いたします」
「行きなさい」
ルクレツィアは、短く言った。
律子の背を、見送った。
◇
律子は、広間を進んだ。
足元の影が、——静かに、伸び始めた。
……影さん。
……キアラへの道を開けて。
影が、形を変えた。
……ありがとう。
男は、まだ続けていた。
「——コルソ侯爵も、随分とお広いお付き合いで。——商家の方がどのようなご縁で、こちらに」
キアラの顔が、白くなっていた。
律子は、その前に、すっと、割り込んだ。
パチン。
扇子が、開いた。
◇
律子の展開した影に怯えて、貴族の男は叫んだ。
「く、黒魔法だ……!」
男の声が、震えた。
「なんて、禍々しい……!」
男は、大理石の床に、へたり込んだ。両手で頭を抱えた。——壁を見上げながら、ぶるぶると、震えていた。
壁一面の影が、茨と天秤と蛙が、燭台の炎に、ゆらゆらと、揺れていた。
律子は、扇子を持ったまま、立っていた。
……あら。
……影さん、まだ、やるの?
影は、——止まらなかった。
……。
律子は、心の中で、もう一度、影に、声をかけた。
……影さん。
……もう、大丈夫。
影は、——揺れた。しかし、収まらなかった。
……。
……キアラへを守りたい気持ちが、まだ、残っている。
その時。
広間の向こうから、足音が、響いた。
速い、足音。
◇
「プルデンティア嬢!」
カリストが、駆け寄ってきた。
白い正装のまま。青い瞳が、壁と、律子を、素早く見た。
それから、律子の隣に、立った。
「——魔法を、暴走させては、いけません」
カリストの声は、たしなめる声だった。しかし、その奥に、——少し、プルデンティアを気遣う温度があった。
律子は、令嬢の所作で、答えた。
「……申し訳、ございません。停まらなくて…」
カリストは、一度、頷いた。
それが、——無効化の魔法を発動する合図だった。
音は、しなかった。
しかし、律子には、分かった。
……あ。
足元の影が、——すっと、ただの影に、戻った。
壁の茨が、——静かに、溶けた。天秤が、——消えた。蛙が、——散った。
大広間の西の壁が、——何事もなかったように、元の姿に戻った。
律子は、その感覚を、静かに、受け取った。
……また、封じられた。
……カリスト殿下の、側では、——いつも、こう。
……お庭の時と、同じ。
……影さん。
……ごめんなさいね。
影は、——答えなかった。
ただの影として、律子の足元に、戻っていた。




