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第48話 侯爵令嬢、影魔法を使う


 パチン、とプルデンティアが扇子を開いた。大広間の空気は、その瞬間に凍りついた。


「貴方、こちらの令嬢に向かって、——『商家の娘が、場違いな』、と、おっしゃいましたか」


 中年の貴族は、突然の参入者に驚いて、酒で紅くなった顔を上げた。その顔が青くなるまで、そう時間はかからなかった。


 大広間の西側の壁に影が広がり始めていた。目の前に鮮やかな青いドレスを纏ったプラチナブロンドの少女が佇んでいる。彼女の足元から、静かに、そして確実に「異変」は始まりつつあった。


 部屋の明かりが微かに揺れたその時、彼女の影が床の上でいびつに伸長した。それは持ち主の形を模ることをやめ、まるで生き物のように意思を持って、漆黒の「茨」へと姿を変えていく。鋭い棘を持った無数の触手のような影が、大理石の床を這い、壁へとせり上がっていった。


「……な、なんだ、これは」


 男の声が、——震えていた。後退りながら、プルデンティアと背後の壁を見つめる。


 壁に到達した影は、恐ろしいほどの速度でその形を複雑に変貌させていく。


 鋭利な棘が壁を引っ掻くようにして、左右へと太い枝を伸ばしていく。それはまるで、人を閉じ込めようとする檻のようだった。


 律子は、——扇子の陰から、——静かに、続けた。


「貴族であることを、——お誇りに、なるのでしたら」


 茨の交わる結節点から、どろりとした闇が膨らみ、大輪の薔薇の形を結ぶ。生気のない、しかし圧倒的な存在感を放つ黒い薔薇が、壁一面に次々と開花していく。


「その品格を、——まず、自らお示しになるのが、——筋、ではございませんか」


 やがて影は中央で水平に広がり、部屋を支配するほどに巨大な「天秤」の形を象り始めた。その紋様は、人に善悪の審判と魂の計量を迫る。


「家格とは、——振りかざすものではございません」


 影の侵食はそれだけに留まらない。壁に広がった天秤の影の端から、今度は幾重にも重なるチェーンの影がジャラリと音を立てるようにして垂れ下がる。


 「代々、——積み上げてこられた、——振る舞いの、総体。——それが、家格、でございます」


 そして、その闇の深淵から誘い出されるように、無数の蛙が壁のあちこちから湧き出してきた。壁に張り付いたまま不気味に飛び跳ねる。


 「その家格を、貴方は、——今夜、この場で、——ご自身で、お傷つけになった」


 彼女の美しい青いドレスと、壁を埋め尽くす禍々しい黒い十字架のコントラストは、美しい絵画そのものだった。


 律子は内心、——少しだけ、首を傾けた。

 

……影さん。

……少し、やり過ぎ、ではないかしら。



 一週間前のある日。


 夕食の席で、セヴェリーニ侯爵がスープを一口飲んでから、何気ない声で、大変なことを言った。


「プリュ」


「はい、お父さま」


「来週の木曜日、——コルソ侯爵家の晩餐会が開かれる。お前も、同席しなさい」


 律子は、スプーンを、止めた。


「コルソ侯爵家…。あのコルソ通りの?——外交担当のお方ですね」


「ああ。カリスト殿下が、——セルヴィアへの外交使節の途上で、ご参加になる」


 律子の頭が、静かに回り始めた。


 ……カリスト殿下が。——メインはそっちか。

 ……ということは、婚約者として、同席。

 ……社交界デビュー。

 ……一週間後に。


「急なお話で——準備が間に合うでしょうか」


「マルチェッラに頼みなさい」


「畏まりました」


 律子は、スープを一口、いただいた。


 ……飛び込み参加、ね。

 ……衣装、出席者のチェック。

 ……ダンスの練習もしておかないと。

 ……聖ルチア孤児院の訪問はお預けか。


 ……前世でも、こういうことはあった。

 ……依頼が来るのは、いつも突然。


 律子の口元が、少しだけ上がった。


 ……まあ、社交界も法廷も、人が集まる場、という意味では同じかもしれない。

 

 その時、ふと、何かが引っかかった。

 

 ……あら。

 

 律子は、スプーンを置いた。

 

 ……コルソ侯爵家の晩餐会。

 ……来週の木曜日。

 ……どこかで、——聞いたような。


 律子の記憶が、少しだけ遡った。


 ……キアラが、言っていた。

 ……「社交界デビューの晩餐会が、来週あるの。——緊張するわ」と。


 律子は目を上げた。


 ……同じ晩餐会だ。


 ◇


 翌日。


 昼休みのベルが鳴った。


 律子とキアラは、いつもの校庭の隅の古い木のベンチに、座っていた。


 キアラは、お弁当を開く手が、いつもより遅かった。


「キアラ」


「……うん」


 律子は、キアラの横顔を見た。


 ……いつもの軽やかさが、ない。


「社交界デビューの晩餐会、——来週の木曜日でしょう」


 キアラが、少しだけ、顔を上げた。


「……そうなの」


「もうドレスは着てみた?」


 キアラは頷くと、お弁当の蓋を膝の上に置いた。それから少しだけ、——声を低くした。


「ドレスは素敵。お父様が宝石を奮発して」


「あら、良かった」


「プルー、——正直に言うわね」


「ええ」


「少し怖いの」


 律子は、キアラを見た。


「貴族の方ばかりの場で、——私、場違いじゃないかしら、とか。頭の中が——そういうので一杯」


 キアラの声は軽やかさを装っていた。しかし、その下に本音があった。


 ……キアラ。

 ……いつも誰かの緊張を解いてくれる、あなたが。

 ……今日は、誰よりも緊張している。


「キアラ」


 律子はキアラの目を覗き込んだ。


「うん?」


「私も、出ることになったの」


 キアラの目が、丸くなった。


「……本当に?」


「ええ。カリスト殿下が、外交使節の途中で、ご参加になるのですって」


 キアラの目が、もう一度、丸くなった。今度は別の意味で。


「——殿下が?」


「ええ」


「あなたの婚約者が——」


「ええ」


 キアラは、少しの間、宙を見た。


「そういえば……先日、お会いになったでしょう、プルー。どうだったの、実物は?」


 律子は、少しだけ考えた。


「魔法の話と、自動車の運転に、夢中でいらっしゃったわ」


「……自動車?」


「ええ。運転は私の勝ち」


「貴女たち、自動車で出かけたの!」


 キアラが、口に手を当てた。


「お庭で遊んだだけよ」


 キアラが首を傾げた。絵姿のカリストとプルデンティアが、庭で自動車遊び——という場面が想像できないようだった。


「……絵姿の方が、自動車に」


「子供のように夢中でいらっしゃったわ。ロドリゴを困らせるほど」


 キアラは、しばらく黙っていた。


 それから、——噴き出した。


「プルー!」


「何?」


「貴女、相変わらず容赦ないわね!」


「……事実を申し上げただけよ」


「事実だから、笑えるのよ!」


 キアラは、お腹を押さえて笑った。律子の胸が、少しだけ温かくなった。

 

 ……この笑い方。

 ……これが戻ってくれば、——もう大丈夫。


 キアラが笑いを収めて、律子を見た。


「でも、プルー」


「ええ」


「貴方がいるなら、少し、心強いわ」


 律子は、令嬢の笑みで応じた。


「こちらこそ」


「プルー」


「ええ」


「貴女、社交界デビューなのに、全然、緊張してないの?」


 律子は、少しだけ、首を傾けた。


 ……緊張。

 ……十五年、法廷に立ち続けた人間が、晩餐会で緊張するか——。


「……少し、は」


 キアラが、噴き出した。


「その『少しは』の言い方!」


「……おかしいかしら」


「おかしいわよ!」


 二人で、少しだけ、笑った。

 

 校庭の木が風に揺れた。昼休みの光が、ベンチの上に斜めに差していた。

 

 律子は内心、キアラの横顔を見た。

 

 ……笑顔が、戻っている。


 影は、律子の足元で、静かに立っていた。

 

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