第44話 侯爵令嬢、運転をする
律子は、運転席に乗り込んだ。
絹のドレスの裾を、軽く、たくし上げて。母の扇子を、——カリストの座る助手席の脇に置いた。
ハンドルに、両手を、添えた。
……あら。
……シンプル。
……前世の自動車より、ずっと、機構が少ない。
……でも、——基本は、同じ。
……ハンドル、アクセル、ブレーキ。
律子は、足元を、確認した。
……あ、——シフトレバーがない。
……だから、「行き詰まったら、——押し戻す」のね。
……得意技の、縦列駐車は使えないか。
内心で、——城山律子が、——考えていた。
……基本の運転は同じ。
……前進だけで、完結する経路を、組み立てれば。
律子は、——庭を、見渡した。
植木鉢、——彫刻、噴水、花壇、敷石の縁、ベンチ。
配置を、一目で、把握する。
……前世なら、——日本の、——狭い駐車場と、同じ。
……車幅感覚で、通る。
律子の身体が、運転経験を思い出した。視線の置き方、ハンドルの握り方、——加速の感覚。
……参ります。
◇
律子は、——アクセルを、——軽く、踏んだ。
自動車が、——動き出した。
……。
動き出した瞬間、——隣のカリストの、——青い瞳が、動いた。
ガレージの前のロドリゴの、口が、もう一度、わずかに、開いた。
律子の、自動車は、——揺れなかった。
ガタガタとした、カリストの走行とは、違って、——滑らかに、前進を、始めた。
律子は、視線を、遠くに、置いた。前世で、染みついた、運転の基本。近くを見ない。先を、見る。
「——!」
助手席で、カリストが、声を、上げた。
「凄い、——流れるようだ!」
カリストの、声が、明るかった。少年らしい、——興奮。
「君、本当に、上手いな!」
律子は、——軽く、微笑んだ。視線は、前方に、置いたまま。
……素直に、喜んでる。
……魔法でマウントを取ったかと思えば、——今は、ただ、——喜んでいる。
……お子様、——ね。
◇
最初の障害物、——植木鉢。
律子は、余裕を持って、ハンドルを切った。自動車は、なだらかな弧を描いて、植木鉢の脇を通り抜けた。
「おお!」
カリストが、身を前に、乗り出した。
次、——彫刻の前。
律子は、速度を少しだけ緩めた。彫刻に、近づきすぎず、遠すぎず、適切な距離で回り込んだ。
……視線を、——置く位置で、——車の動きが、決まる。
……ベテランドライバーの仕草。
律子は、噴水の周りを、大きな弧を描いて回った。
水しぶきが、——夏の光に、きらめいた。
「綺麗だ!」
カリストが、——噴水から噴き出る水を指さした。
花壇の縁を、——撫でるように、通過。
ベンチの、脇を、抜けて。
律子の、自動車の軌跡は、庭の障害物の間を縫って、——一本の、滑らかな線を、描いていた。
◇
律子は、庭を一周して、元の位置に戻った。
最後に、アクセルを離して、自然に減速。
ふっ、と、自動車が、静かに、止まった。
律子は、軽く、息を、整えた。
……。
……前世の、運転経験が残っている。
……お母さま、——プリュも、——この子を運転できました。
隣で、カリストが、背もたれに身を、預けていた。
「——ふぅ」
カリストは、満ち足りた、息をついた。
……ご満足、いただけたみたい。
◇
律子は、母の扇子を手に、運転席から降りた。
絹のドレスの裾が、軽く、揺れた。
カリストも、助手席から、降りてきた。
「——プルデンティア嬢」
「はい」
「君、——お見事だ!」
カリストの声は、明るく、素直だった。
……。
心の中で、城山律子が、——ほくそ笑んだ。
……ニヤリ。
……魔法では、——負けましたが、
……自動車では、——いただきました。
表は、——令嬢の、——微笑み。
「お恥ずかしゅう、——ございます」
「いや、——本当に、——お見事だった」
カリストは、——心からの、——感嘆を、口にしていた。
……素直ねぇ。
……負けても、——素直に、——認められる。
……子供だけれど、——根は、——悪くない。
……今日、——少しだけ、——見えた。
……マウントの奥に、——ただ、自動車が好きな、——少年。
◇
律子は、ロドリゴに、目を、向けた。
ロドリゴは、まだ、立ち尽くしていた。
エプロンを、握ったまま。口が、わずかに、開いたまま。普段の、冷静な老執事の表情は、崩れていた。
律子は、令嬢の所作で、軽く、頭を、下げた。
「ロドリゴ、——ありがとう」
「お、——お嬢様」
ロドリゴは、慌てて、エプロンで、口を拭うような、仕草をした。
「——お見事、——でいらっしゃいました」
律子は、——軽く、——微笑んだ。
……ロドリゴ。
……驚かせて、——ごめんなさい。
……でも、——お母さまの、お車を、——お守り、——できました。
◇
カリストが帰ると、屋敷に張り詰めていた緊張が解けた。
日が、——傾いていた。
律子は、自室に、戻った。
お召替えを、ジーナに、手伝ってもらった。
淡い銀色のドレスから、——いつもの令嬢のドレスへ。母の真珠の髪飾りを、外して、——マルチェッラに、預けた。母の扇子を、——机の上に、置いた。
……長い、——一日。
律子は、——窓辺の、——椅子に、——座った。
◇
「ジーナ」
「はい、お嬢様!」
「お疲れさま」
「いえ、——わたしは、何も。——お嬢様こそ、お疲れさまで、ございました!」
ジーナは、——お召替えの後の、——制服を、——整え終わって、——いつもの、底抜けに明るい顔で、——立っていた。
「カリスト殿下、——お素敵な方で、——ございましたねぇ!」
「ええ」
「自動車にお乗りになったのですね」
「ロドリゴが、お話しになって?」
「あ、——いえ、お話、というか、——あの方、——ぼうっとした顔で、——『お嬢様が、——運転を、——』と、——繰り返しておいでで」
「あら」
……ロドリゴ、まだ、衝撃が、抜けてないんだ。
「凄いです、お嬢様! ——自動車まで、ご運転! ——お絵姿の坊ちゃんを、圧倒だなんて!」
「あら、——お絵姿の坊ちゃんは、お言葉が、過ぎてよ」
「失礼いたしました! ——でも、本当に、ご立派でいらっしゃいました!」
律子は、——軽く、微笑んだ。
……ジーナの、明るさは、今日も変わらず。
◇
律子は、——窓の外を、見た。
夏の夕方の光が、——薔薇の緑の葉の上に、——傾いていた。
……今朝。
……サントーニ先生から、——伺った、——置換魔法のお話。
……「血か髪が、必要」。
……ジーナの、——血や髪は、——どこで、奪われたのか。
律子は、——令嬢の所作で、——軽く、——ジーナに、声を、かけた。
「ジーナ」
「はい、お嬢様!」
「一つ、——お伺いしても、よろしいかしら」
「もちろんでございます!」
「——魔法をかけられた、——あの日の、——前に」
「はい」
「——何か、変わったことは、ありませんでした?」
ジーナは、——少しだけ、——首を、傾げた。
「変わったこと、——でございますか?」
「ええ。——どんな、小さなことでも」
ジーナは、——指を、——顎に、添えて、——考える顔をした。
……。
それから、——ぽん、と、手を、打った。
「あ、——そういえば、お嬢様」
「ええ」
「あの少し前、——バザールに、お買い物に、出かけた時」
「ええ」
「——いたずらで、髪を、切られたんですよ」
……。
◇
律子の、——表情が、固まった。
「——髪を、——切られた?」
「はい! ——お買い物の人混みで、——後ろから、ちょきん、と」
ジーナは、何でもないことのように、笑って、指先で髪を軽く、撫でた。
「右の、耳の上のあたり、一束、ばっさりと」
「一束」
「ええ。——お屋敷に帰って、マルチェッラさんに、『ジーナ、髪が!』と、驚かれて。いたずらにしても、たちが悪いって、皆で、お話、いたしました」
「そうだったのね、——」
「でも、わたしの髪、伸びるのが、早いものですから、すぐに気にならない、ようになりまして」
ジーナは、あっけらかんと笑った。
「あれ、——お嬢様、なぜ、そのお話を?」
……。
◇
律子の、思考が、回り始めていた。
……一束。
……今朝。
……サントーニ先生から、——伺ったばかり。
……「髪なら、——一束、必要です」。
……「対象を、間違えない、——魔法的な、特定要件」。
……ジーナの髪は、バザールの人混みで、後ろから、一束、切られていた。
……サントーニ先生の言葉と、——ぴたりと、——符合する。
……ぴたりと。
……やはり、——置換魔法だった。
……仮説では、なかった。
……ジーナの事件は、置換魔法。
……髪を、一束、奪って、対象を特定した。
……そして、中庭で、別の人物と、位置を置換した。
……符合した。
……全部。
……あの三人の紳士。
……上等な部屋。
……お菓子と紅茶の、丁重な接待。
……「お静かにお待ちください」。
……位置の置換の身代わり。
……その間に、誰かが、屋敷に、入り込んだ。
……全ての、点と点が繋がる。
……そして。
律子の、頭の中で、——もう一つの認識が、——立ち上がった。
……置換魔法は、——本来。
……「契約書を、積み重ねて、——慎重に、実施する魔法」。
……あれは、——合法の世界の、——置換魔法。
……重い手続きの、——上に、ようやく成立する魔法。
……でも、——ジーナを、置換した者たちは。
……契約書も、同意も、なし。
……バザールで、髪を、切って。
……ジーナを、——丸ごと、別の人と、入れ替えた。
……合法の、——手続きを、——全部、ふき飛ばして。
……あの人たちは、——置換魔法を、意のままに、使いこなしている。
……本物。
律子の、——背筋が、もう一度、冷えた。
……この相手は、本物だ。
……これを、自在に、使える者が、——実在して、——既に、動いている。
……お母さまが、亡くなられる、——少し前から。
……この、お屋敷に、——手を、伸ばしていた。
◇
「お嬢様?」
ジーナの、——心配そうな声。
「あの、——お顔の色が、——少し」
……あ。
律子は、——一度、軽く、息を整えた。弁護士の、息の整え方。
「いえ、——大丈夫」
「お疲れで、いらっしゃいますね。本日は、大変なお日で、ございましたから」
「ええ、そうかもしれないわね」
「お茶を、お持ちいたしましょうか?」
「いえ、大丈夫。ありがとう、ジーナ」
ジーナは、——心配そうに、——律子を、——見ていた。
「ジーナ」
「はい」
「下がって、大丈夫よ。あとは一人で」
「畏まりました、お嬢様。——お休みなさいませ」
ジーナは、——お辞儀をして、下がった。
◇
部屋に、——一人。
律子は、——窓辺で、——夕方の光を、——見ていた。
……長い、——一日だった。
律子は、——机の上の、——母の扇子を、——手に、——取った。
絹に包まれた、——母の形見。
……お母さま。
……プリュは、——調査を続けます。
……でも。
……相手は、——想像していたより、遥かに手強い。
律子の、足元の影は、——ただの、影として、——窓辺の床に、——伸びていた。
……あなた。
律子は、——心の中で、——影に、——声を、かけた。
……今夜は、——お話、——できるかしら。
……。
影が、——わずかに、——形を、——変えた。
……ああ。
……戻ってきたのね。
……カリスト殿下が、お側に、——いなくなったから。
律子の、肩の力が、——少しだけ、——抜けた。
……今日も、——一日、——よく、頑張ったわね。
……あなたも、——お疲れさま。
影は、——応えなかった。
でも、——窓辺の床で、——少しだけ、——丸く、——整った。
夕方の光が、——窓から、——静かに、——傾いていった。




