第43話 侯爵令嬢、ウィンクをする
その時。
屋敷の、——南側の方から、——低い、——機械の音が、——聞こえてきた。
工具の、金属を打つ音。そして、——ぶるるる、と、——エンジンの、——温まる音。
カリストが、——顔を、上げた。
「——あれは?」
……あら。
「ロドリゴという御者頭が、——自動車の整備を、しております。週に一度の、——お務めで、ございますの」
「自動車!?」
カリストの、——青い瞳が、——一気に、——明るくなった。
「——拝見しても、——よろしいですか?」
「もちろんでございますわ」
……切り替えが早い。
……子供は、——興味の対象を見つけたら、もう夢中ね。
律子は、——軽く、微笑んだ。令嬢の微笑み。
二人は、——屋敷の南側の、——ガレージへ、向かった。
律子の足元の影は、——光が遮られてできる、——ただの、影として付いてきた。
◇
屋敷の南側。
ガレージの、大きな扉が、開いていた。午後の光が、傾いて差し込んでいる。
油の匂い。金属の音。
ロドリゴが、——黒い執事服の上に、作業用のエプロンを掛けて、——袖を、まくって、——自動車の前で、工具を、手にしていた。
律子の、——足が止まった。
……お母さまが、——あの子と呼ぶ車。
……ロドリゴから、——話を聞いた、——あのガレージ。
……油の匂い、——金属の音、——同じ空間。
……お母さま。
……私の婚約者を、——お連れしましたよ。
律子は、——心の中で、軽く、母に挨拶した。
◇
「殿下、——お嬢様。——失礼いたしました」
ロドリゴが、——気配に気づいて、——顔を上げた。エプロンで手を拭いて、——深く、一礼した。
「ああ、——気にしないでくれ」
カリストは、——既に、自動車に飛びついていた。
「——これは!? ——リミニの最新型?」
「最新ではございません。——リミニの工場の、——数年前の型を、——改造したものでございます」
「凄い! ——僕、自動車には、——興味があるんだ!」
カリストの、青い瞳が、——きらきらしていた。十五歳の少年が、——新しい玩具の前に立った時の、目。
……玩具に、——夢中と。
律子は、——少し離れて、立っていた。
「——乗ってみたい!」
カリストは、——勢いよく、振り返った。
「ロドリゴ、——だったかな。少し、運転しても、よろしいか?」
「あ、——いえ、殿下、それは、——」
ロドリゴの声が、——わずかに、——上ずった。
「お車は、——機嫌が、不安定で、ございまして」
「大丈夫、大丈夫。——僕も、アルカディアで、——少し、乗ったことがあるんだ」
……「少し」。
……言葉の使い方が、——子供らしい。
「殿下が、——お運転を、——遊ばされる、ということでございますか」
「ああ。——いいだろう?」
ロドリゴの視線が、一瞬、律子に向いた。
……助けを、求めてられても。
律子は、——令嬢の所作で、——軽く、頷いた。
……仕方ない。
……止められる立場でもない。
……でも、——危なくなれば、——お助けしましょう。
「ロドリゴ、——殿下に、——運転を、——」
「畏まりました、——お嬢様」
ロドリゴは、——内心の動揺を、——老執事の所作の奥に、——押し込めて、——応じた。
◇
ロドリゴが、——クランク棒を、——回した。
ぶるるる、と、——エンジンが、——唸った。
律子は、——その音を、——聞いていた。
……お母さまの、——「あの子」が。
……婚約者を乗せる。
……どうか、——ご機嫌よく、——お願いね。
律子は、——母の扇子を、軽く、握り直した。
◇
カリストが、運転席に、——乗り込んだ。
ロドリゴが、助手席に、付き添う。
「では、——参ります!」
カリストが、意気揚々と、アクセルを踏んだ。
自動車が、——がくん、と、揺れて、前進を、始めた。
律子は、少し離れた場所で見ていた。
……あら。
最初は、——直線。前庭の、敷石の上を、ガタガタと進んでいく。十数メートル。
ところが、——前方に、大きな植木鉢。
カリストが、——ハンドルを切った。
……いや、少し、遅い。
自動車が、植木鉢の直前で止まった。エンストか、——ブレーキか。
ロドリゴが、何かを、カリストに、告げていた。
二人が降りた。
そして、自動車を、——前から押し戻し始めた。
ロドリゴが、——前の隅を、——カリストが、もう片方の隅を、——両手で。
ごろごろ、と、——自動車は、軽く、後ろに戻った。
……あら。
……この車、後退、——できない、——のね。
……自分で押し戻す、——のか。
……自分の知っている自動車とは、——違う。
律子は、——観察を、続けていた。
◇
カリストが、——再度、運転席に、乗り込んだ。
「もう一度!」
カリストは、少しだけ、息を、整えていた。
ロドリゴが、助手席で、何かアドバイスをしている。
二度目の、——走行。
今度は、——大きく、ハンドルを、切って、——植木鉢を、避けた。
ところが、——避けた先に、——白い大理石の彫刻が、立っていた。
カリストが、——ハンドルを、逆に切ろうとした、——その瞬間。
自動車の、——前輪が、——彫刻の、台座の方向に向いた。
……。
律子の、手が、宙を掴んだ。届くはずもないが、思わず手を伸ばしていた。
……お庭の、——彫刻。
……ぶつかったら、——大惨事だ。
ロドリゴの声が、——上ずっていた。「殿下、——ブレーキ、——!」
ぐらり、と、——自動車が、彫刻の、一歩手前で、止まった。
カリストが、——息を、一つ、ついた。
「——危ない、——ところだった」
……いえ、——危ない、どころでは。
……あと一寸で、彫刻が大破。
……お父さまへの、そんな、説明をするのは、嫌ですよ。
律子の、頭の中で、——前世の家事弁護士が、——責任問題を、——一瞬で計算した。
……公太子殿下の、——事故、——国際問題。
……お母さまの、——彫刻、——遺品の、損壊。
……お父さまの、——立場、——その影響。
……婚約への、——影響。
……潮時。
律子は、——前へ、進み出た。
◇
「カリスト殿下」
「あ、——プルデンティア嬢」
「お見事な、——運転でございました」
「いや、——少し、ぎこちなかったかな」
「——よろしければ、——私が、——お代わりいたしましょうか」
カリストの、——青い瞳が、——一瞬、丸くなった。
「君が!?」
「ええ」
「君、運転、できるのか?」
「お母さまの、運転教本で、——少し、勉強いたしました」
「——少し!?」
カリストは、——半信半疑で、面白がるような、顔をした。
律子は、——軽く、微笑んで、助手席の方へ、手を差し向けた。
「殿下は、——こちらへ」
「僕も、乗っていいのか?」
「もちろんでございますわ」
カリストの、——青い瞳が、明るくなった。
「面白い! ——やってみてくれ!」
カリストは、——気を取り直したように、——運転席から、——降りて、——助手席へ、——回った。
◇
ロドリゴが、——律子の方を、——見た。
……。
ロドリゴの目が、——うろたえているのが分かった。
「お、——お嬢様」
ロドリゴの声は、震えていた。
「お、——お嬢様、お車は、——大変、——お難しゅう、——」
ロドリゴは、——エプロンを、——握る手に、——力を、込めていた。
お嬢様まで、——運転をされる。お車の事故で、——お嬢様がお怪我を、——もし何かあれば。殿下も、——お乗せに、なる。亡き奥様がお好きだった——お車。亡き奥様の、——お忘れ形見の、——お嬢様。
老執事の、頭の中がグルグル回っているのが、律子にも分かった。
律子は、——ロドリゴに、——歩み寄った。
そして、——カリストからは、——見えない角度で、——軽く、ロドリゴに、——合図した。
バチンと、ウインク。
「——ご心配なく、ロドリゴ」
律子は、——令嬢の声で、——でも、少しだけ、——いたずらっぽく、——言った。
ロドリゴの、——口が、——わずかに、開いた。
……。
ロドリゴは、——何か、——言いかけて、言葉を失った。
「——畏まりました、——お嬢様」
ロドリゴは、——深く、一礼した。
しかし、——エプロンを、握る手は、——まだ、——少し、——震えていた。




