第40話 侯爵令嬢、お召し変えをする
その時、——扉が、——叩かれた。
「お嬢様、——失礼いたします!」
マルチェッラの、——声。
「ええ、どうぞ」
マルチェッラが、慌てて、入ってきた。
「お嬢様、——大変です」
「何かしら」
「カリスト殿下が、——公務の途中で、お立ち寄りに、なるとのご連絡で」
「——え」
「今日、本日中に」
律子の思考が、空白になった。
……今日。
「準備をいたします。——お嬢様、お召替えを」
「ええ」
……あら。
……あら、——あら。
……今、——置換魔法の、お話の、——続きがあったのに。
……ジーナの、髪の話を、——もう少し、考えたかったのに。
……仕方ない。
律子は、——立ち上がった。
「サントーニ先生、——申し訳ございません」
「いえ、——公太子殿下がいらっしゃるのですね。それは大変」
サントーニは、——書類をまとめ始めた。
「今日の授業は、ここまでにしましょう」
「ええ、——ありがとう、ございました」
◇
サントーニは、書類鞄を、抱えて、扉の前に、立った。
それから、一度、——振り返った。
「あ、お嬢様」
「はい」
「影の視界、——面白い魔法ですけど」
「ええ」
「それだって代償があります」
「……」
「使い過ぎは、だめですよ」
「畏まりました」
「離した分だけ、人に、忘れられてしまいます」
「ええ」
「人の影に潜むのは、お嬢様の影が、ずっと、離れているのと、同じです」
「畏まりました、——サントーニ先生」
サントーニは、——軽く、頭を、下げて、出ていった。
……先生は、いつも、去り際に、——大事なことをおっしゃる。
◇
屋敷は、準備で慌ただしくなった。
マルチェッラが、指示を飛ばしていた。お台所、お庭、お玄関。
ジーナは、走り回っていたところを、マルチェッラに、捕まって、お召替えの準備に合流した。
律子も、——廊下を、——急ぐ。
その時、——庭の方から、——ジョルジョが、荷車を、押してきた。
……あ、——そうだ。
……忘れないうちに。
「ジョルジョ」
「お嬢様」
「使用人の控室、——西側の、奥の」
「はい」
「あの窓の外に、夏に葉が茂る木を、——植えていただきたいの」
「畏まりました」
「お任せします」
「はい」
律子は、——軽く、頷いて、——足早に、廊下を、進んだ。
◇
自室に、戻った。
マルチェッラと、ジーナが、お召替えの、用意を進めていた。
「お嬢様、——お早く!」
「お嬢様、——お時間が」
律子は、少しだけ立ち止まった。
……あ。
……あれが、——今日の、衣裳?
壁際に、絹のカバーに、包まれた、衣裳が、——立て掛けられていた。
マルチェッラが、——慎重に、カバーを、外した。
……。
……あら。
現れたのは、——淡い、——青みがかった、——銀色のドレスだった。
絹と、——薄絹を、重ねて。
胸元から、裾にかけて、白い真珠の細かな刺繍が、星のように、——散らされていた。
袖は、肘までの膨らみがあり、——その先は、透けるような、薄絹のレース。
腰には、——同色の絹のリボン。
裾は、——ふんわりと広がる、夜会向きの仕立て。
……これ。
……お父さまが、お仕立て、なさっていたのね。
……いつの間に。
「お嬢様、——きゃーっ!」
ジーナの、——声が、——裏返った。
「な、なに、これ、——お嬢様、——お嬢様!」
「ジーナ、——落ち着きなさい」
「だって、マルチェッラさん、——だって!」
ジーナは、——両手で、——口を、押さえていた。
目が、——ぱちぱちしている。
◇
「お嬢様、——お召替えを」
マルチェッラが、——ドレスを、両手で支えた。
律子は、——いつもの、——制服のような、——令嬢のドレスを脱いだ。
マルチェッラと、——ジーナの手で、銀色のドレスが、肩から通された。
絹が、——肌を滑った。
軽い。重さを、感じない。
薄絹のレースが、——腕に、——触れて、くすぐったかった。
「お嬢様、——少し、腕を、上げてくださいませ」
「ええ」
ドレスが、——身体に馴染んだ。
マルチェッラが、——背中の、絹のリボンを、丁寧に結んだ。
ジーナが、裾を整えた。
「お嬢様、——お髪を」
ジーナが、——プラチナブロンドを、——結い上げ始めた。
ドレスの色と、髪の色が、重なって、銀色が、一段と深くなった。
マルチェッラが、——母コルネリアの、真珠の髪飾りを、取り出した。
「奥様のお形見、使わせていただきます」
「ええ」
白い真珠が、——プラチナブロンドの中に、——光った。
◇
「お嬢様!」
ジーナが、——前に回り込んだ。
「——お嬢様、——」
ジーナは、——言葉に、詰まっていた。
「——お、——お、——お美しいです、お嬢様!」
「ジーナ、——」
「お美しいです! ——本当に、本当に、お美しいです! ——うちのお嬢様、世界一です! ——いえ、——お国一! ——いえ、——大陸一です!」
「ジーナ、——少し、声を」
「マルチェッラさん、——ご覧ください、お嬢様、お嬢様!」
マルチェッラが、——律子の前に、——立った。
……。
マルチェッラの、——目が、一瞬で、——潤んだ。
……あら。
「マルチェッラ?」
マルチェッラは、——胸の前で、両手を、組んだ。
声は出さずに、——律子を、——見ていた。
涙が、——一筋、こぼれた。
「マルチェッラ、——」
「——奥様が、——」
マルチェッラの、——声は、——震えていた。
「——奥様が、ご覧に、なられたら」
「……」
「——どれほど、——お喜びになられたか」
……。
律子は、——一瞬、——何も、——言えなかった。
……お母さま。
……マルチェッラは、——ずっと、——お母さまの、お側にいた人。
……マルチェッラが、——お母さまの代わりに、——見てくれている。
……今日、お母さまの真珠を、——着けて、——お母さまの扇子を持って。
……お母さまも、——たぶん、一緒に。
「ありがとう、——マルチェッラ」
律子は、——令嬢の声で、——でも、少しだけ、——柔らかく、言った。
「お母さまの真珠を、——着けさせていただけて、——嬉しいわ」
マルチェッラは、——エプロンで、——目を、押さえた。
ジーナが、——その隣で、——目を、——うるうるさせていた。
◇
律子は、——鏡の前に、——立った。
……。
鏡の中に、——別人が、——立っていた。
淡い銀色の、——絹のドレス。
プラチナブロンドに、——白い真珠。
淡い青色の瞳。
十三歳の、——少女。
……これが、——私?
律子は、——鏡の中の、——自分を、——見つめた。
……前世では、
……四十三年間、——独身。
……仕事着の、——スーツと、——黒のパンプス。
……法廷の、——白いシャツと、——きっちりした髪。
……細いフレームの銀縁の眼鏡。
……華やかな衣裳とは、——縁が、——なかった。
……それが、——今。
……この姿。
……信じられない。
……でも、——鏡の中に、——確かに、いる。
……これが、——プルデンティアで、——私。
……お母さま。
……プリュは、——綺麗に、——なれたかしら。
鏡の中の、——プルデンティアが、——少しだけ、微笑んだ。
その微笑みは、——令嬢のものでも、——城山律子のものでも、——なかった。
ただ、——美しい少女の、——素直な微笑み。
◇
「お嬢様、——お時間で、ございます」
マルチェッラが、——告げた。
「玄関で、——お出迎えを」
「ええ」
律子は、——鏡から、——目を、離した。
机の上の、——絵姿を、——見た。
額の中の、——カリスト。
明るい金髪、——澄んだ青い瞳、——意志の強そうな眉。
……来るなら、——来い。
律子は、——少しだけ、——絵姿を、——睨んだ。
……私は、——もう、——逃げない。
……令嬢の所作で、——お迎えする。
……あとは、——会ってから、——考える。
律子は、——母の扇子を、——手に、——取った。
……お母さま、——一緒に、——参りますわよ。
律子は、——背筋を、——伸ばして、——扉に、——向かった。
絹のドレスの、——裾が、——軽く、——揺れた。
足元の影が、——少し遅れて、——付いてきた。




