第39話 侯爵令嬢、影を分離する
律子の自室。
夏の、午後。窓辺の薔薇は、もう、咲き切っていた。夏の暑さを乗り切るため、庭師のジョルジョたちが残った花を摘み取ったのだ。
律子は、机に、目録を、広げていた。手は、幾つかの項目を叩いている。
……今日も、暑い。
足元の、影を、見た。
影は、夏の陽射しの中でも、いつも通り、——そこに、立っていた。
……あなた。
……今日は、少し、——遠くへ、——行ってみる?
律子は、——心の中で、頼んだ。
影を、少しだけ、身体から、——離した。
……どこまで、——行ける?
影は、——絨毯の上を、——するりと、伸びた。
扉の下を、——抜けた。
律子の視界からは、——消えた。
……あら。
……どこへ、——行くのかしら。
律子は、——息を、整えた。
影を、——もう少し、——離した。
その時。
……。
律子の、頭の中に、——別の景色が、——流れ込んできた。
目を閉じて、その景色に集中する。
……あら。
見たことの、——ない、部屋。
長椅子に、——一人、——女性が、横に、なっていた。エプロンを、膝にかけて。額に汗。
別の椅子に、——もう一人、うつむいて、——うたた寝。
窓辺に、——三人。
夏の陽射しが、彼女たちに降り注いでいる。
一人は、扇子をあおいで、風を送っている。
一人は、首筋を、——濡らした布で、押さえていた。
一人は、井戸水の桶に、——手を、浸していた。
皆、——口は、動いていたが、——何も、聞こえなかった。
……これは。
律子は、理解した。
……影が、——見ている景色。
……影の、——目で。
……私の、——頭に、——届いている。
……あら。
……あら、あら。
律子の、——鼓動が少しだけ、速くなった。
……ここは、——どこ?
エプロン。制服。広くはない、質素な室内。
……使用人の、——控室。
……お屋敷の、——西の、——奥。
……私が、——入ったことのない場所。
……皆、——暑そう。
窓辺で、扇子をあおいでいる若いメイド。額の汗。首筋の布。井戸水に手を浸す動作。長椅子で寝ている人の、——疲れた顔。
……夏の盛り。
……お屋敷の、西側は、——午後、——日が、当たる。
……あの控室は、——一番、——暑い。
……後で。
……ジョルジョに、——お願いしよう。
……あの窓の外に、——木を、——植えていただこう。
……夏に、葉が茂る、——大きくなる木を。
律子は、——心の中で、——決めた。
◇
律子は、影を、——少しずつ、——戻した。
控室の景色から、廊下を流れる光景に変わる。そして、
影が、——律子の、足元に、——戻ってきた。
……ありがとう。
……見せてくれて。
影は、応えなかった。少しだけ、——丸く、整った。
律子は、——椅子の、——背に、もたれた。
……すごい、——能力。
律子の、——前世の弁護士の頭が、回り始めた。
……影を、分離させれば、——遠くが、——見える。
……声は、——聞こえないけれど。
……視界は、——届く。
……お屋敷の、——どこでも。
……いえ。
……お屋敷の、——外でも。
……これは。
……私の、——外を見る目。
……でも。
律子は、——すぐに、はやる心を抑えて、冷静になった。
……影を、——遠くへ行かせようとしても、
……道が、——分からない。
……影は、迷う。
……そして、——目立つ。
……影だけが、——単独で、——動いていたら、——
……誰かに、——気づかれる。
……ううん。
……どうすれば。
律子は、——窓の外を、見た。
白い薔薇の、——花を摘み取られた枝葉が、——揺れていた。
……影を、——別の人の影に、潜ませたら。
……その人が、歩く道を、辿れば、——道は分かる。
……人の影に、紛れていれば、——目立たない。
……試してみたい。
……誰の影に。
律子は、——少しだけ、——考えた。
……ジーナ。
律子は、——立ち上がった。
……ちょうど、——サントーニ先生が、——いらっしゃる日。
……一緒に、——協力してもらいましょう。
◇
「——なるほど、影の視界が、届くんですね」
サントーニは、——何度も頷いた。
「お嬢様、——それ、面白い能力ですよ」
「面白い、——だけで、——ございますか」
「いや、——強力です。——どこでも入り込める探偵ですから」
サントーニは、頭を、軽く、掻いた。
「でも、自分で操作すると、道が分からない、目立つ、——というのは、——その通りでしょうね」
「ええ」
「人の影に、潜ませる、——というのは、——良い発想です」
「お試し、——いただけますか」
「やってみましょう」
◇
ジーナが、——呼ばれてきた。
「お呼びで、ございますか、お嬢様!」
「ジーナ。——少し、——魔法の練習に付き合ってくださる?」
「もちろんで、ございます! お嬢様の、お魔法の練習! ——光栄で、ございます!」
「私、お屋敷から、出る機会が、少ないでしょう」
「ええ」
「外の世界を、見てみたくて。——あなたの影に、私の影を潜ませて、一緒に歩かせていただけたら、と」
「私の、——影に?」
「ええ」
「お嬢様の影が、——私の影と、——一緒に?」
「そう」
「凄いです、お嬢様! ——わたしの影も、お役に、立てるんですね!」
……そう来たか。
「ええ、——お願い」
◇
律子は、影を、——足元から、伸ばした。
ジーナの足元の、——影に重ねた。
……潜って。
……ジーナの、——影の中に。
影は、——するりと、——ジーナの影に、——重なった。
二つの影が、——一つに、——溶けたように見えた。
「あ、——」
ジーナが、——足元を、見た。
「お嬢様、——わたしの影、——少し、大きくなりました?」
「分かる?」
「なんだか、——足が、——むずむず、いたします」
「歩いてみて」
「はい!」
ジーナは、——廊下を、——歩いた。
ジーナの影が、——廊下の壁に、——伸びた。
目を閉じると、律子の頭の中に、——景色が、流れ込んできた。
ジーナの、——足元から、——見上げた、——廊下の天井。
ジーナが、——歩くたびに、揺れる、——視界。
……見える。
……ジーナの影と、一緒に、——歩いている。
「サントーニ先生」
「はい」
「見えます。——ジーナの、——足元から」
「うまく、いきましたね」
サントーニは、——軽く、笑った。
「お嬢様の影、——優秀ですよ」
「ええ」
◇
ジーナは、——気を良くして、廊下を走り始めた。
「お嬢様ーっ! ——わたし、もっと、走りますね!」
「あ、ジーナ、——」
律子の頭の中の景色が、——めまぐるしく、——揺れた。
廊下、——階段、——中庭、——
「待って、ジーナ、速い」
「はーい!」
ジーナは、——笑いながら、屋敷の中を、駆け回っていた。
……ふう。
律子は、——軽く、息を、ついた。
……視界が、——揺れて、——目が、——回りそう。
……でも。
……離れていても、——影は、——付いていく。
……振り落とされない限り。
律子は、——窓辺の、椅子に、——座って、——目を、閉じた。
ジーナの足元から見える景色が、——頭の中で、流れていた。
◇
サントーニも、窓辺に立って、外を、見ていた。
「お嬢様」
「はい」
「面白い魔法、——ですね」
「ええ」
「写しの魔法では、——できないことです」
「先生の、——お写しも、——素晴らしいですわ」
「いえ、——お嬢様の影は、——別格ですよ。色々な発展が期待できそうです」
サントーニは、——少しだけ、——感心したように、——言った。
……。
律子は、——目を、開けた。ジーナはまだ、屋敷のどこかを、走っていた。
……サントーニ先生。
……そうだ、——伺っておきたいこと。
「サントーニ先生」
「はい」
「お伺いしたいこと、——ございますの」
「なんですか」
「置換魔法、——のことです」
「ええ」
「あの魔法は、どうやって、対象の人を、——見分けるのですか」
サントーニは、——軽く、頭を、傾けた。
「対象の、——特定、ということですか」
「ええ」
「本名と、身体の一部です」
「身体の」
「普通は、——血印。——ある程度の量の、——」
「ある程度の」
「一滴では、——足りません。——契約書の、署名のところに、指から血を、絞って。普通の血印よりたくさん」
「ちょっと怖いですね」
「血が嫌なら、——髪の毛でも、——構いません」
「お髪」
「ただし、——これも一本では、足りません」
「一本では」
「一束は必要です」
律子の、頭に、——何かが引っかかった。
……一束。
「そんなに必要なんですか」
「ええ。——対象を、間違えない、——魔法的な、特定要件です」
「左様で、——ございますか」
……一束。
……まとまった量の、——髪。
……それで、——対象を、——特定する。
……ジーナは。
律子の、——頭が、——回り始めた。
……ジーナの、——血や髪は、どうやって、奪われたのか。
……一滴や、一本ではない。
……まとまった量を、誰かが、——手に入れた。
……どこで。
……いつ。
……どうやって。
……あら。
律子は、——窓の外を、見た。
薔薇の枝葉が、——揺れていた。
……これは、——




