第37話 侯爵令嬢、魔法を披露する
律子は、——鏡の中の、——三つ編みを、——見た。
その後ろで、——ジーナが、まだ、目を、うるうるさせていた。
マルチェッラが、——「落ち着きなさい」と、小声で、たしなめている。
……賑やかに、なったわね。
……お母さまの、いない、お屋敷に、
……少しずつ、明るさが戻っていく。
律子は、足元を、見た。
影が、——いつも通り、そこに、立っていた。
……一人じゃ、ない。
……さて。
……今日は、——学校。
◇
昼。
予備学院の、——中庭の、片隅。
いつもの、——二人の場所。
律子は、——お弁当を、広げながら、切り出す、——機会を、うかがっていた。
……噂が、広まる前に。
……キアラには、私の口から。
……今日。
キアラが、——隣に、座った。栗色の巻き毛が、揺れた。
「プルー、見て、——今日ね、お母さまが、杏のタルト、持たせてくれたの」
「まあ、——美味しそう」
「半分こ、しましょ」
……いつも通りの、キアラ。
律子は、少しだけ、——声を、潜めた。
「キアラ。——あのね」
「なあに?」
「——誰にも、——言わないで、ほしいのだけれど」
キアラの、緑の目が、丸くなった。
「何? 何? ——内緒の話?」
「……婚約が、——決まったの」
……。
キアラの、——口が、——開いたまま、止まった。
そして。
「——えええっ!?」
「しっ、——声」
「ご、ごめん、——でも、——婚約!? ——プルーが!?」
キアラは、——声を、必死に、潜めながら、身を乗り出した。
「誰? 誰なの? ——どこの、——」
「アルカディアの、——公太子殿下」
今度は口だけでなく、キアラの、全身の動きが、——止まった。
それから、——両手で、——口を、押さえた。
「……魔法の国の」
「ええ」
「——魔法の国の、——公妃よ、プルー!」
……あら。
……「公妃」と、——来たか。
「あなた、——魔法の国の、——公妃に、なるのよ!? ——社交界の、——華よ!」
「キアラ、——声」
「だって! ——だって、プルー!」
キアラは、——目を、——きらきらさせていた。
「公太子家との、ご縁なんて、——うちのお父さまなら、——卒倒するわ。——どれだけの、——格のお家か」
……商家の、お嬢さん。
……縁談の、格を、——値踏みする。
……正確。
「あなた、——ずっと、注目の的、だったけど」
キアラは、——にっこり、笑った。
「これで、——本物の、——世間の注目の的ね!」
……変わらない、キアラ。
◇
「で、で、——どんな方なの!? ——お会いしたの!?」
「いえ、——まだ」
「えっ」
「お会いしたことは、——ないの。——絵姿を、見ただけ」
「どんな!? ——素敵だった!?」
……素敵、——ねえ。
「凛々しい、——絵姿だったわ」
……絵姿は、——ね。
……実物は、——悪ガキかも。
「きゃー! ——いいなあ、プルー!」
キアラは、——タルトを、——握ったまま、——身を、よじった。
……すごい、——盛り上がり。
律子は、——その様子を、——眺めた。
……元気。
……眩しい。
……十三歳の、——女の子は、——こうでなくては。
……私は。
「——でも、私、——あまり、実感が、なくて」
律子は、——ぽろりと、——漏らした。
「急な話だし、お会いしたことも、ないし。——『婚約』と、言われても、ぴんと、こなくて」
キアラの、テンションが、ふと、収まった。
……あら。
……気づかれた?
キアラは、——少し、——律子を、見た。
それから。
「——プルーらしい」
「え?」
「だって、プルー」
キアラは、——くすっと、笑った。
「魔法の国の、公妃に、なるって言われて、『実感がない』って。——普通、飛び上がって喜ぶか、泣いて嫌がるか、どっちかよ?」
「……」
「あなた、——いつも、——そう。みんなが、わあって、なる時に、一人だけ、観察してるみたいな顔、してる」
……あら。
……見られている。
「変なの、プルー」
キアラは、——楽しそうに、タルトを、半分に、割った。
「でも、そういうとこ、好きよ」
……。
律子は、——少しだけ、——笑った。
令嬢の笑みでは、——なく。
「ありがとう、キアラ」
「はい、半分こ」
キアラが、——杏のタルトを、——差し出した。
……前世で。
……四十三年。
……「変わっている」と、——言われたことは、あった。
……でも、「そういうとこ、好き」と、言われたことは。
……なかった、——だろうなぁ。
律子は、——タルトを、——受け取った。
「美味しいわね」
「でしょ!」
……今日も。
……一つ、——ミッションをクリアした。
……キアラには、——伝えた。
……私の口から。
……あとは、——噂が、——広がろうと。
……構わない。
◇
婚約が決まってから、——数日が、過ぎた。
ジーナは、——すっかり、——屋敷に、馴染んでいた。
昼下がり。
律子は、——窓際の、椅子で、——本を、開いていた。
廊下の方から、——足音が、——聞こえた。
軽い、——速い、——足音。
「はーい、お通りしまーす!」
ジーナが、——洗濯物の籠を、抱えて、——廊下を、——小走りに、過ぎていった。
……元気。
しばらくして、——また、足音。
「ジーナ、——廊下を、走らない」
マルチェッラの、——たしなめる声。
「はーい!」
……返事だけは、——いい。
律子は、——本から、目を、上げた。
窓の外、——中庭で、——ジーナが、——洗濯物を、干していた。
若いメイドに、——何か、話しかけ、——笑わせていた。
年かさの庭師ジョルジョにも、——明るく、声をかけ、——何か、手伝っていた。
……よく、動く子。
……お屋敷の、どこにいても、——すぐ、分かる。
……声と、足音で。
……お母さまが、——亡くなってから。
……お屋敷は、——ずっと、——静かだった。
……皆、——声を、潜めて、歩いていた。
……それが。
中庭で、——ジーナの笑い声が、響いていた。
つられて、——若いメイドも、笑っている。
……風が、通った、みたい。
律子は、少しだけ笑って、本に、目を、戻した。
……眩しい子。
……前世なら、——職場に、一人いると、——皆が、助かる、——あの種類の。
◇
別の朝。
ジーナが、——律子の髪を、——結っていた。
マルチェッラから、——朝の支度は、——ジーナに、引き継がれていた。
櫛が、——プラチナブロンドを、——梳いていく。
「お嬢様の髪は、——綺麗ですねぇ」
「そう?」
「櫛が、——全然、——ひっかかりません。——すーっ、と、——通ります」
ジーナは、——うっとりした声で、言った。
「絹みたいで、——ございます。——わたし、——こんな髪、——触ったこと、——ございません」
「大袈裟ね」
「本当ですよぉ! ——流石、お嬢様の、——お髪で、ございます!」
……髪まで、——褒められた。
……「流石」の、——守備範囲が、——広い。
律子は、——鏡の中の、——ジーナを、見た。
一生懸命、——三つ編みを、——編んでいる。
舌を、——少し、——出している。真剣な顔。
……この子は。
……裏が、——ない。
……思ったことを、——そのまま、——口に出す。
……一緒にいると、——肩の力が、——抜ける。
……前世の、——緊張した法廷の、——帰り道。
……おしゃべりな事務員さんが、——いてくれて、——助かった。
……あの感じ。
……すっかり、——馴染んだ。
……お屋敷にも。——私にも。
ジーナが、——三つ編みを、——結い上げた。胸の前に、垂らした。
「はい、お嬢様! ——できました!」
「ありがとう、ジーナ」
律子は、——鏡の中の、自分を、見た。
その後ろで、——ジーナが、——満足そうに、——頷いていた。
……そろそろ、——いいかもしれない。
……あの日のことを。
……この子になら、——聞ける。
……怖がらせないように。——少しずつ。
……次の、——お休みの日に。
……影さんも、——お見せしよう。
……魔法は、——実在する。
……そう、——分かってもらってから。
◇
休日。
律子は手で椅子を勧めた。
「ジーナ、お座りになって」
「えっ、お嬢様のお部屋で座ってよろしいので、ございますか?」
「専属メイドは、時々、一緒にお話をいたしますのよ」
「は、はい! 失礼、いたします!」
ジーナは慌てて椅子に座った。律子はその向かいに座った。
「ジーナ」
「はい、お嬢様!」
「少し、お見せしたいものが、ございます」
「お見せしたい?」
「ええ」
律子は、——心の中で、影を、呼んだ。
……ご紹介、——するわよ。
影が、足元で、——形を、整えた。ふっくらと、丸く、——猫のような形に、なった。
ジーナの目が、——止まった。
「あ、あの、お嬢様」
「うん?」
「お嬢様のお足元の影——」
「ええ」
「形が、ねこちゃんで、ございますね?」
「そうよ」
「……」
「ジーナ。——プリュの、魔法ですの」
律子は、——もう一度、頼んだ。
……走って、——見せてあげて。
影は、猫の形のまま、——絨毯の上を、軽やかに、走った。壁際まで行き、戻ってきた。律子の足元で、——お座りした。
ジーナの目が、——大きくなった。
「た、——」
「うん?」
「た、た、大変でございますお嬢様!」
「あら」
「お嬢様の影が、——お走りになりました!」
「ええ」
「ねこちゃんで、——ございました!」
「ええ」
律子は、少しだけ、笑った。令嬢の笑みで。
ジーナは、胸に手を当て、息を整えた。それから、ぱっと、顔を上げた。
「お嬢様!」
「うん?」
「お嬢様、——凄いですお嬢様!」
ジーナの顔は、もう、たじたじを、抜けていた。
「以前から、お嬢様は賢いお方だと、皆、申しておりましたが、お魔法まで、お使いになるとは!」
「ええ」
「流石、お嬢様で、ございます!」
……からっとしている。
……たじたじから「凄いですお嬢様」まで、三秒。
……前世の依頼者にも、こういう人がいた。
……話しやすい人。
……影さん、ありがとう。
影は、応えなかった。足元で、少しだけ、丸く、整った。




