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第33話 侯爵令嬢、え、もう婚約?

 

 ある祭日の午後。


 ロドリゴが、——「閣下が、お呼びです」と、伝えに来た。


 ……呼び出し。

 ……食事の時に話題にするのではなく、改めてということは…。


 律子は、——母の扇子を、手に、取った。


 絹の布に包まれた、——お母さまの形見。


 ……前回、お父様の部屋で話したのは、——お母さまのこと。

 ……あの時は、——私から、準備の上で、——臨んだ。

 ……今日は、——何の話か、——分からない。

 ……ならば、——備えていく。


 律子は、——扇子を、軽く、握った。絹越しに、——骨の形が、指に、伝わった。


 ……前世なら、——書類鞄。

 ……今の私の、——得物は、——お母さまの、これ。


 ……お父さまは、——お話を、——設計なさる方。

 ……前回も、——あの対話を、——想定して、お待ちだった。

 ……今日も、——きっと、——何か、お考えがある。

 ……こちらも、——構えていきましょう。


 律子は、——軽く、息を、整えた。


 弁護士の、——法廷に入る前の、一呼吸。


 ◇


 書斎。革の肘掛け椅子。壁の書架。古い本の匂い。

 

 父は、——新聞を、畳んで、机に置いた。眼鏡の奥の目が、律子を、見た。


「座りなさい」


「はい、お父さま」


 律子は、座った。膝の上に、——絹に包んだ扇子を、置いた。閉じたまま。——いつでも、開ける位置に。

 革の椅子が、軽く、軋んだ。


「うむ」


 ……ご機嫌は、——悪くない様子。

 ……でも、——油断は、——しない。


「魔法の勉強は、どうだね」


 ……来た。

 ……いえ、——まだ、本題では、ない、——かも。

 ……勉強の確認から、入る。


「ええ、——順調で、ございます」


「うむ」


「あのサントーニ先生だが、——」


「はい」


 律子は、——膝の上の、扇子を、——軽く、握った。


「若すぎは、しないか」


 ……あら。


「と、おっしゃいますと」


「侯爵家の家庭教師として、——いささか、経験が足りないかも知れない」


「……」


「もっと年配の、——名のある先生を、——アルカディアから、招くことも、できる」


 律子の、——背筋が、——伸びた。


 ……お父さまは、——サントーニ先生を、変えるおつもり?

 ……これは、——私が、何とかしなくては。


 律子は、——扇子を、握り直した。


 法廷の、——構え。


「お父さま」


「うむ」


「——サントーニ先生を、お変えになる、必要は、ございません。理由を、四つ、——申し上げます」


 ……あら。

 ……つい、——「四つ」と、——言ってしまった。

 ……いえ、——構わない。論点は、整理して、——お伝えするもの。


「うむ。——言ってみなさい」



「第一に、誠実さで、ございます」


「うむ」


「サントーニ先生は、分からないことを、『分からない』と、——おっしゃる方です」


「ほう」


「ご自分の魔法の、限界を、心得ていらっしゃる。魔法の正式な鑑定は、自分の手に余る、と、はっきり、おっしゃいました」


「うむ」


「己の限界を、偽らない。これは、専門家として、最も、信頼できる、資質で、ございます」


 ……前世でも、——同じだった。

 ……「分かりません」と言える専門家ほど、——信頼できる。


「第二に、技量で、ございます」


「うむ」


「写しの魔法の腕は、確かで、ございます。白い薔薇を、葉脈の一本まで、正確に、お写しになりました」


「うむ」


「そして、プリュの影の癖を、丁寧に、観察してくださいます。影が、いつ動いたか、どう動いたか、一つ一つ、確かめながら、——お教えくださる」


「第三に、——」


 律子は、——扇子を、軽く、前に、——傾けた。


「——教え方で、ございます。難しいことを、易しい、例えでお説きになる。銅と金の、錬金術の例えなど、大変、分かりやすく、——」


「プリュ」


「第四に、魔法というものは、本来——」


「プリュ」


「——はい」


「分かった」


 ……え?


「それでよい。サントーニ先生のもとで、勉強を続けなさい」


 ……。


 律子は、扇子を、握ったまま、——止まった。


 ……あら。

 ……お認めに、なった。

 ……あっさり。

 ……第四まで、——急いで考えたのに。


 ……私は、今、何のために、あんなに、気負って、——?


「お父さま」


「うむ」


「——ありがとう、——ございます」


 ……拍子抜け。

 ……扇子まで、——持ってきたのに。



「ところで、——プリュ」


「はい」


 ……あ。

 ……今の、——声色。

 ……これは、——

 ……これが、——本題。


 ……お父さま、——もしや、サントーニ先生のお話は、前振り?

 ……私の、構えを、空振りさせて?


「お前の、——婚約が、決まった」


 ……。


 律子の、——指先が、——扇子を、——握りしめた。


 ……今、——何と。


「アルカディア公国の、——公太子、カリスト殿下の、婚約者として」


 ……婚約。

 ……私が。


 ……四十三年、——独身だった、——この私が?

 ……前世で、——他人の、——離婚ばかり、扱ってきた、——私が?

 ……記憶を取り戻して、数ヶ月で、

 ……自分の、婚約?


 律子の中の、——城山律子が、——静かに、のけぞった。


 ……いえ。

 ……ここは、——そういう世界。

 ……侯爵令嬢の、——婚約は、——おかしくない。

 ……おかしくは、——ない、——けれど。

 ……気持ちが、——追いつかない。


 ……そして、——お父さま。

 ……まんまと、前振りに、乗せられた、気がする。

 ……サントーニ先生を、全力で、お守りした、直後に、——これ。

 ……お見事、というか、——人が悪い、というか。


 律子は、——令嬢の所作で、背筋を、保った。

 

 扇子を、——膝の上に、そっと、戻した。



「あの、お父さま」


「うむ」


「——カリスト、殿下、と、おっしゃいましたか」


「うむ」


「——どのような、お方で、いらっしゃいますの」


 ……婚約の破棄条項は——

 ……いえ、——それは、後。

 ……まず、人物。


「アルカディアの、公太子だ」


「はい」


「お年は、十四」


 ……十四歳。

 ……少年、というか、お子さん、——では?

 ……いえ、——プリュが、十三。

 ……一つ、上。

 ……年回りとしては、——おかしくない。

 ……おかしくない、のだけれど。

 ……中身が四十三歳の、私から見ると、


 ……完全に、——お子さん。


「お父さま」


「うむ」


「——お若い、方で、ございますね」


「うむ。お前から見れば、——少し、子供っぽく、思えるやも、しれん」


 ……あら。

 ……お父さま、正直で、いらっしゃる。


「アルカディアの公家は、——代々、無効化の魔法を、持っておられる」


「無効化」


「他者の魔法を、打ち消す、血筋だそうだ」


 ……無効化の魔法。

 ……他者の魔法を、——打ち消す。


「だからこそ、魔法評議会を監督する立場にある」


 律子は、——軽く、頷いた。

 

 まだ、——その意味の重さには、気づいていなかった。


 ◇


「お式は、いつ頃に、なりますの」


「お前が、学府を、出てからだ」


「学府」


「お前は、——アルカディアの、賢者学府に、進む」


 ……あら。

 ……婚約と、留学が、一緒に。

 ……アルカディア。

 ……東の、——魔法の国。


 ……これは、——お父さまの、ご計画の一部。

 ……お母さまの、お亡くなりに、なった、あの夜から、お父さまが、お一人で、練っていらした、戦略。

 ……まだ、——全体は、見えない。

 ……でも、これも、私を守るための、計画であることに、間違いはない。


「数年は、——先だ」


「左様で、ございますか」


 ……数年。

 ……ならば、——調査の時間は、——ある。

 ……いえ、——アルカディアに、移れば、——勝手が、変わる。

 ……社交の、——義務も、——増える。

 ……計算しなくては。


 ◇


 律子は、——一つ、どうしても、聞きたいことが、あった。


 ……婚約の破棄条項。

 ……一方的解除権。

 ……違約金。

 ……準拠法は、セルヴィアか、アルカディアか。


 ……いえ。

 ……十三歳の令嬢が、婚約を告げられた、その場で、「で、解除条件は」と、聞くのは、おかしい。

 ……令嬢の、——言葉に、直さなくては。


「お父さま」


「うむ」


「——もし、——その、——」


 律子は、少し、言葉を、選んだ。


「——将来、お互いに、——お気持ちが、添わない場合は、——どうなりますの」


 父は、一瞬、律子を、見た。


 眼鏡の奥の目に、何か、よぎった。


「……うむ」


 父は、少し、間を、置いた。


「縁というものは、——」


「はい」


「——結ばれることも、あれば、解かれることも、——ある」


 ……あら。


 律子の、——弁護士の耳が、——その言葉を、——捉えた。


 ……お父さま、——今、「解かれることもある」と、——おっしゃいましたね。

 ……政略の婚約を、——告げる父が、わざわざ、「解ける」と、——口にする。

 ……偶然?

 ……いえ。

 ……お父さまは、——言葉を、——選ぶ方。

 ……これは、——含み。


 ◇


 父は、——机の上の、小さな包みに、手を、伸ばした。


「これを」


「——?」


「カリスト殿下の、——お絵姿だ」


 父は、——包みを、開いた。

 

 小さな、額に入った、細密画。


 律子は、——扇子を、少し、開いて、口元を、隠しながら、——それを、覗き込んだ。


 ……あら。


 端正な、——少年の顔。

 

 明るい、金の髪。澄んだ、——青い瞳。少し、——意志の強そうな、——眉。


 ……凛々しい、——お顔。

 ……若いのに、品が、ある。


 ……いえ。


 律子の、——弁護士の頭が、——働いた。


 ……これは、——絵姿。

 ……サントーニ先生が、——おっしゃっていた。

 ……貴族の肖像は、——絵の先生が、——整える。

 ……皺も、染みも、——消す。

 ……写しの魔法と、違って、——本当のことは、——映さない。

 ……ということは、——

 ……この凛々しさも、——どこまで、本物?

 ……実物は、——悪ガキかも。


 律子は、——扇子の陰で、細密画を、少し、疑わしげに、見た。


「気に入ったか」


「——ええ、——」


 律子は、——扇子を、閉じた。


「——ご立派な、お方の、ように、お見受けいたします」


 ……絵姿では、——ね。



「——畏まりました、お父さま」


 律子は、——令嬢の声で、言った。


「公太子家との、ご婚約、——お受け、いたします」


 父は、——少しだけ、間を、置いた。


「プリュ」


「はい」


「……ありがとう」


 父の声が、——少しだけ、低くなった。


 ……。


 律子の、——心臓を、何かが、掴んだ。


 ……お父さまが、——「ありがとう」と、おっしゃった。


 ……あら。

 ……人が悪い、——お父さま、だと思ったのに。

 ……今の声は、違う。


 ……お父さまは、——重いものを、抱えていらっしゃる。

 ……外国の公家との婚約を、進めることは、——お父さまにとっても、簡単では、ない。

 ……でも、進めなければ、ならない。

 ……なぜ?

 ……計画の全容は、まだ分からない。


 律子は、——令嬢の礼を、した。

 しかし、——内心では、令嬢と別のことを考えていた。


 ……お父さま。

 ……プリュは、——婚約に従います。

 ……でも、——お父さまの、お考えの、本当のところは、——プリュが、自分で、見つけます。

 ……お父さまが、お話しになれる時を、待ちません。

 ……それが、——たぶん、お父さまへの、一番の、恩返し。


「では、——下がらせて、いただきます」


「うむ」



 書斎を、出た。

 扉が、——閉まった。


 廊下で、律子は、足を、止めた。


 午後の光が、——廊下の石床に、——長く、伸びていた。


 ……整理しましょう。

 ……一つ、——婚約。相手は、カリスト殿下、一つ年上。

 ……二つ、——アルカディアの、賢者学府への、留学。

 ……三つ、——公家は、無効化の魔法を、持つ。

 ……四つ、——お父さまの、「解かれることもある」、——という、含み。

 

 ……一日で、——変数が、——増えた。

 ……調査の、計画を、——組み直さなくては。


 ……それにしても。


 律子は、——手の中の、母の扇子を、見た。


 ……扇子まで、——構えて、——気負って、——サントーニ先生を、お守りしたのに。

 ……お父さま、——お人が、悪い。

 ……でも。

 ……最後の、「ありがとう」だけは、——お芝居では、——なかった。


 律子は、——軽く、——息を、吐いた。


 母の扇子を、——両手で、——握り直した。

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