第29話 侯爵令嬢、異邦人を知る
翌日の日曜日は良い天気だった。
屋敷の南側のガレージから、作業をする音が漏れている。扉が開いており、そこに午後の光が傾いて差し込んでいた。
油の匂い。金属の音。お父さまの黒い自動車。ボンネットが開けたままだ。
ロドリゴが工具を手に、作業していた。執事の黒い装いの上に、作業用のエプロン。袖をまくっている。
今朝のロドリゴは……執事の顔ではなく、御者頭の顔だった。
律子はガレージの入り口で立ち止まった。ロドリゴが気配に気づいて、顔を上げた。
「お嬢様」
「ロドリゴ、——お邪魔して、よろしいかしら」
「もちろん、で、ございます」
ロドリゴは工具を置いた。エプロンで手を拭いた。
律子はガレージに入った。油の匂いが鼻に届いた。侯爵の自動車の傍に立った。
「綺麗にしてくれているのね、お父さまの、お車」
「週に一度、整備して、おります」
「ロドリゴが、お一人で?」
「御者頭として、長く、お仕えしましたので」
律子は少しだけ笑った。
……御者頭。
……あのピクニックの日も、ロドリゴがエンジンを温めていた。
「お母さまは、自動車を、あの子、と呼んでいました。きっと、時々、見に来ていらしたのよね」
ロドリゴがプルデンティアを見返した。
「……お嬢様、ご存じで」
「お母さまの、お部屋で、——運転教本を、見つけたの」
「左様で、ございましたか」
「コルネリア様は、ある日、ガレージにお一人でいらして、お車の前にお立ちになって、——」
「それから時折、お一人でガレージにお通いになりました。書物をお開きになって、——お車の機構を、お調べになっていました、——」
律子は気づいた。
……ロドリゴは、お母さまの独学を見守っていらした。
……でも、何もおっしゃらなかった。
……お母さまのご意志を尊重なさった。
律子の胸が少しだけ温かくなった。
……お母さまには、黙って見守ってくださる、お味方がいらしたのだ。
◇
律子は本題に入ることに決めた。
「ロドリゴ」
「はい、お嬢様」
「お母さまが、慈善活動で行かれた先を、覚えていらっしゃる?」
ロドリゴが考えるように、ゆっくりと、エプロンでもう一度、手を拭いた。記憶を辿る、老執事の所作。
「さて、奥様は、色々な施設にお通いでしたから」
ロドリゴは、思い出しながら口にし始めた。
「女性のための保護施設、——病院の慈善病棟、——教会の社会事業所、それに——孤児院でしょうか」
律子が頷いた。
「孤児院?のお名前が、分かりますか?」
「全部の名前は、もう、思い出せませんが…」
ロドリゴは少し躊躇った。それから続けた。
「しかし、——何度かお通いだった所は、——」
「……」
「聖ルチア孤児院、で、ございました」
律子はその名前を頭の中で繰り返した。
……頭に刻む。
……聖ルチア孤児院。
弁護士の聴取の作法。
律子は次の質問に移った。核心の質問。声を少しだけ柔らかくした。
「ロドリゴ、——もう一つ、伺っても、よろしいかしら」
「はい、お嬢様」
「お母さまが、お亡くなりになられる前、」
「——お母さまのご様子に、お変わりはなかった?」
ロドリゴの肩が一瞬、動いた。老執事の目が深くなった。
律子の鼓動が一拍、速くなった。しかし、表情は変えない。
「……ございました」
ロドリゴの声は低かった。しかし、揺るぎなかった。
……長く抱えていた何かを、ようやく口に出す声。
◇
ロドリゴは語り始めた。
「最後の半年ほどで、ございましょうか」
「奥様のお出かけが、以前よりお急ぎになるように、なりました」
「ペッピーノが、奥様の夕食のお量が減ったと、心配しておりました」
「ご家族とのお時間は変わらず、お楽しみになっていらっしゃいましたが、お一人のお時間に、お顔がお険しくなることが、ございました」
ロドリゴの声が少しだけ揺らいだ。
「ロドリゴは、奥様のお変わりに気づいて、おりました」
「しかし、何がお辛いのか、伺うことは出来ませんでした」
「奥様は、お一人で抱えていらっしゃるご様子で、——」
「お一人でお運びになっていらっしゃる、その何かを、ロドリゴがお助け申し上げる術は、ございませんでした」
ロドリゴの目が少し濡れた。涙は流さない。執事の所作。
律子は静かに答えた。
「ロドリゴ」
「はい、お嬢様」
「それは、あなたのご責任では、ございません」
「……お嬢様」
律子は令嬢の所作で軽く頷いた。
◇
律子は時期を確認した。
「ご様子の変化は、いつ頃から?」
「……七、八ヶ月前から、少しずつ、で、ございました」
律子は記憶に刻んだ。
……七、八ヶ月前から。
……お母さまは、その頃に何かをお知りになった。
……文箱のお便りの日付と、後で照合する必要がある。
しかし、もう一つ、大事な質問。律子は少し声を抑えて尋ねた。
「ロドリゴ」
「はい、お嬢様」
「何か、——きっかけのようなことは、なかった?」
「お母さまのご様子がお変わりになる、その引き金のようなこと」
ロドリゴは少し考えた。しばらく動かなかった。記憶を辿る、老執事の目。それから少しだけ目を開いた。気づいた、ように。
「……お嬢様」
「ロドリゴ?」
「思い起こせば、——」
ロドリゴはゆっくりと続けた。声にわずかに震えが混じっていた。
「あの日、——以降で、ございました」
「あの日?」
「ある日、奥様が応接間で、お一人の男性とお話なさっていらっしゃいました」
律子の鼓動がもう一拍、速くなった。しかし、表情は変えない。
「どなた、で、いらっしゃいましたの?」
「……それが、お嬢様」
ロドリゴは少し躊躇った。言葉を選ぶように。
「ロドリゴは、——」
「ロドリゴは、そのお方が屋敷にお入りになるお姿を、——」
「拝見していないので、ございます」
律子の眉がわずかに動いた。
「屋敷に入るところを?」
「はい、お嬢様」
「気づきました時には、奥様が応接間で、そのお方とお話しになっていらっしゃいました」
「ご紹介状もお名刺も、ロドリゴはお預かりしておりません」
「お通しした覚えも、ございません」
「他の使用人にも、後で確認しました」
律子の背筋が少しだけ冷たくなった。
……誰もお通しになっていない、お客様。
……それでも、お母さまは応接間でその方とお話なさっていた。
弁護士の頭が回り始めた。しかし、律子は表情を変えなかった。
「お続け、ください、ロドリゴ」
「はい、お嬢様」
ロドリゴは目を伏せた。それから続けた。
「お言葉に少しだけ、お国訛りが、ございました」
「どこのお国のお訛りか、ロドリゴには分かりませんでした」
「お洋服は、上等なお仕立てで、——しかし、どこの国のお仕立てか、これも分かりませんでした」
「奥様と応接間で、長い時間お話なさいました。何をお話になっていたかは存じ上げません」
律子は黙って聞いていた。ロドリゴは続けた。
「そのお方は、日が暮れる前にお帰りになりました」
「奥様が玄関までお見送りになりました」
「そのお方は、表門からお出になりました」
ロドリゴの声が少しだけ固くなった。
「ロドリゴは表門から出ていくお姿を、見ました」
「しかし、——」
「——入っていらっしゃるお姿は、見ていない」
「……」
「お客様がどこからお入りになったか、私が把握していない、——これは、あってはならないことです」
律子は息を整えた。
「続けて、ロドリゴ」
ロドリゴは頷いた。
「そのお方がお帰りになって、しばらくして」
「……表門を叩く者がいまして」
「ロドリゴが出ました」
「立っていたのは、屋敷のメイドの一人で、ございました」
律子は少し首を傾けた。
「……メイド?」
「はい、お嬢様」
「中庭でお洗濯物をお取り込みになっていた、下働きのメイド、で、ございます」
「そのメイドは、錯乱した様子でした」
「要領を得ない話ばかりを繰り返していました」
「『中庭にいたはずなのに……』、と」
「『気づいたら、知らない部屋にいて……』、と」
「『また気づいたら、門の外で……』、と」
律子の身体が一瞬、止まった。
……知らない部屋。
……気づいたら、門の外。
律子の頭の中で何かが引っかかった。
ロドリゴは目を伏せた。
「メイドのことは、侯爵様にも、奥様にも、ご報告は申し上げませんでした」
「メイド本人が混乱していて、ご報告できる内容が、ございませんでしたゆえ」
「そのメイドは、その後、ほどなくして屋敷勤めを辞めました」
「『精神的に屋敷でお働きを続けることが、難しい』、と」
「故郷にお戻りになったと聞いております——」
律子は黙って聞いていた。弁護士の頭が既に回っていた。
……これは通常の訪問ではない。
……家令がお通ししていない、客。
……同じ時刻、中庭でメイドが消えた。
……その客が表門から出た時刻と、メイドが門外で錯乱して戻った時刻。
……二つは同じ事象の二つの面、かもしれない。
しかし、律子の知識では、どんな仕組みでそれが起きたのか、——まだ分からない。
……手がかりだけが増えた。
……答えは、後。
律子はロドリゴに向き合った。
「ロドリゴ」
「はい、お嬢様」
「あなたは、家令として、何も間違っていません」
「説明できない出来事が起きた、——それは、あなたのご責任ではない」
「お母さまもロドリゴを責めていらっしゃるはずがない」
ロドリゴはもう一度、頭を下げた。
「そのお方は、その後もお訪ねになった?」
ロドリゴは首を振った。
「いいえ、お嬢様」
「一度だけ、で、ございました」
律子は記憶に刻んだ。
……一度だけ。
……普通の知人なら、複数回訪れる。
……ビジネスなら、定期的に来る。
……一度だけは、特別な目的を持った接触の証拠。
律子はもう一つ確認した。
「メイドのお名前は、覚えていらっしゃる?」
「……お嬢様」
「いつか、お会いする必要が出るかもしれない、——念のため」
ロドリゴは頷いた。
「ジーナ、で、ございます」
「ジーナ」
律子はその名前を頭に刻んだ。
……ジーナ。
……いつか、訪ねなければ。
律子は立ち上がった。
「ロドリゴ」
「はい、お嬢様」
「ありがとう、——今日は、お邪魔いたしました」
「いえ、お嬢様。——いつでも、お声がけくださいませ」
「またお伺いするわ」
「お待ち、しております」
律子はガレージを出た。秋の午後の光が傾いて、屋敷の影を地面に落としていた。
律子の足元の影が少しだけ動いた。律子は気づいた。
「あなたも、——色々、聞けたわね」
影は応えなかった。しかし、少しだけ形を変えた。律子の足元で、いつもより近かった。
◇
律子は自室に戻った。机の前に座った。目録を開いた。
しかし、ペンを握る前に、少し考えた。
……目録に書くか、書かないか。
……書けば、証拠として残る。
……しかし、お父さまの目に触れる危険がある。
律子は目録を閉じた。
……今日の聞き取りは、頭の中だけに保管する。
……弁護士の、記憶への刻印。
……聖ルチア孤児院。
……お母さまのご様子の変化は、七、八ヶ月前から。
……変化の引き金は、ある異邦人の一度の訪問。
……家令がお通ししていない、客。
……同じ時刻、中庭でメイドが消えた。
……メイドの名前は、ジーナ。
……そのお方は、表門から出ていった。
……メイドは、門外で錯乱して戻った。
律子は目を閉じた。
……これは、大きな手がかり。
……しかし、今は、まだ解けない。
律子は気づいた。
……これは、おそらく魔法。
……前世にはなかった、この世界の論理。
……私は、まだその全てを知らない。
……世界の構造を、もっと深く学ばなければならない。
律子は目を開けた。窓の外に初夏の午後の光。
律子は少しだけ口元を上げた。弁護士の長期戦の笑み。
……日常は続いていた。
……調査も続いていた。
……二つは並行して進む。
……律子の長期戦。




