第25話 侯爵令嬢、国際情勢を学ぶ
地理の教師が、教室に入ってきた。
白髪混じりの、——五十代の、男性。黒の法衣に、——銀の縁取り。丁寧な、お辞儀。
「皆さま、——お久ぶり。プルデンティア・セヴェリーニ嬢の復学に、お喜び、申し上げます」
教室の令嬢たちが、——少しだけ、頷いた。
律子も、軽く会釈した。
「——本日の地理は、——各国情勢の、お授業で、ございます」
教師は、——黒板の前に、——大きな世界地図を、——広げた。
紙の地図。色分けされた、——五つの国。
「皆さま、この地図を、よく、ご覧くださいませ」
律子は、地図を見上げた。
……ああ。
律子の前世の記憶が蘇った。乙女ゲームでは、何度もその世界の地図を見た。オープニングでゆっくりと画面を横切る、世界の絵。
……あれに似ている。
律子はノートに視線を落とした。前世の声色で内心、呟いた。
……あれ、やっぱりこれ、ゲームの世界?
……いや、待って。
……本当に、ゲームの世界?
◇
教師の、——細い指が、地図の中央の南側を、指した。
「我が国、セルヴィア法王国、でございます」
律子の祖国。緑色の、一区画。
「セルヴィアは、——法と、教会の伝統を、持っています。しかし、——ここ百年の間に、大きな変化が、ございました」
教師は、——眼鏡の位置を、——指で、軽く、直した。
「教会法廷と、並立する形で、——世俗法学部が、——設けられました。本学院の、——皆さまの進路の、一つでもございます」
……世俗法学部。
……これは、聞いたことがある。
……お父さまの書斎の本、半分はそっち系統だった。
……お屋敷に、聖職者は、出入りしない。
……お母さまの机にも、聖書はなかった。
……うちは新世俗派、ね。確定。
……前世なら——プロテスタントの国の貴族みたいなものかしら。
……いえ、もう少し複雑。
……「教会法廷と並立」って、教会法廷を消したわけではない、ってこと。
……つまり、両方の管轄が、まだ、生きている。
……対立じゃなくて、競合。
……これは、案件の管轄問題と、構造が似ている。
……家事事件の、教会調停と世俗調停みたいに。
「ご存じの通り、——セルヴィア国内にも、——様々な、——お立場が、ございます。——いずれ、——上級学年で、——詳しく、お習いに、なります」
……「お立場」、——
……つまり、——派閥がある。
……新世俗派と、旧教会派ということね。
◇
教師の指が、——地図の、西側に、——移動した。
「自由都市、リミニ」
黄緑の、大きな区画。
「リミニは、——産業の都市でございます。蒸気機関の、工場、鉄道、——そして、最近では、自動車も作られています」
「自動車!」
令嬢の一人が、——小さく、声を、上げた。マチルダの、声。
「ええ。——お持ちに、なるのが、——夢の方も、増えている、と、伺っております」
律子の中で、——ドライブの記憶が蘇った。
……自動車。
……お母さまの机の、運転教本。
……我が家の自動車もリミニ製。
……商人の国、ね。
……お父さまの新聞でも、リミニ商会連合の名前は、よく出ていた。
……経済の中心でもあり、産業の発信地、ね。
……これは、調べる価値がある。
……お母さまの遺品のリストに、「リミニ関連」、項目立てなくちゃ。
◇
教師の指が、——地図の、東側に、——移動した。
「アルカディア公国」
水色の一区画。
「魔法の国、——でございます。アルカディア魔法評議会が、——全ての魔法使いを、管理しています。以前は教会と対立していましたが、現在は、魔法は神を守る力と解釈されています」
……これは、サントーニ先生のお話と、ドンピシャ。
……アルカディアは、魔法の登録国家。
……前世なら——特許庁と医師免許庁と公安が一体化した感じかしら。
……「全ての魔法使いを管理」、——これ、聞こえは良いけれど、相当の権力。
……登録されない魔法使いは、たぶん、違法。
……影さん、あなたも、いずれ登録されるのね。
◇
教師の指が、——地図の、北側に、——移動した。
「聖シュタイン帝国」
茶色の、大きな区画。
「北の、——軍事大国、——でございます。広大な領土と、当時は強大な騎士団、現在は近代化された機甲部隊を持って、おります。我が国とは、遠く、——皆さまの日常との、お繋がりは、——あまりありますまい」
……軍事大国。
……地理的に遠い。
……新聞でも、たまにしか名前が出ない。
◇
教師の指が、——地図の中央に、戻った。
「——エアル王国」
黄色の、細長い、一区画。
大国に、囲まれた、中央。
「皆さまの、お地図を、よく、ご覧くださいませ。——エアル王国は、どの国にも挟まれた場所にございます」
律子は、地図を、見上げた。
……ええ、見えるわよ。
……四方を、大国に囲まれた、細長い国。
……前世なら、緩衝国の典型。
……地政学的に、揉まれる場所。
「——百年前まで、エアルは、小さな王国で、ございました」
教師の声が、少しだけ、温度を、変えた。
「——ある事件を契機に、エアルは、永世中立国に、そして世界的な金融国家に変わりました」
律子の、背筋が、わずかに伸びた。
……あら。
……「永世中立国」で、「金融センター」に。
……前世のスイス、オーストリア、コスタリカ。
……どれも、——大戦争の疲弊の後で、——「もう戦争はしません」と宣言した国。
……つまり——エアルにも、それに相当する出来事があった。
マチルダが、——手を、挙げた。
「先生、————リーナ・ヴァイス・フローラ事件、——でしょうか」
教師の眼鏡が、——一瞬、——光を、反射した。
「左様で、——ございます」
……あら、これも繋がる。
……サントーニ先生から聞いた、リーナ・ヴァイス・フローラ。
……「世界中の不平等な契約書が消えた」、——百年前のお仕事。
……それと、エアルの永世中立化が、繋がる。
「——百年前、——リーナ・ヴァイス・フローラ、という魔法使いが、大きな仕事成しとげました」
教師の声は、丁寧だった。
「——教科書で、お読みになった方も、いらっしゃるかもしれません。その仕事の後、世界は大きな変革を、経験しました。——政治体制の整理、産業振興」
教師は、——一呼吸、——置いた。
律子は、——息を、——軽く、吐いた。
……不平等な契約書を、世界規模で、無効化する。
……前世でこれをやろうとしたら——
……不可能、ね。
……国際条約と、各国国内法と、商慣習を、——全部、書き換える。
……どこの国の弁護士も、何百年かけても、——出来なかった。
……それを、一人で、——
……何の権限で?
……教科書、読んでみよう。お父さまの書斎に、あるはず。
……たぶん、——事件の余波で、各国の政治体制が変わった、ということ。
……地政学的には不安定な、長い国境線の国が、——「中立」という法的概念で、——守られている。
……法律で、国境を守る、というやり方。
……これは、——
……これは、面白い。
……法律家の発想で、国を、守れる、ということ。
教師は、——眼鏡を、もう一度、指で軽く、直した。
「——詳細は、上級学年でお習いに、なります。——本日の、お授業の、眼目は、——」
教師は、——令嬢たちを、——ゆっくりと、見渡した。
「一人一人の、仕事が、——世界の構造を、変えることが、史実として、あるのだ、ということでございます」
律子の、——目が、——少しだけ、——見開かれた。
……あら。
……これは、地理の授業のまとめ、にしては、——少し、踏み込んでいる。
……「一人の働きが、世界の構造を変える」、——
……これは、思想の問題。
律子は、気が付いた。
……これは、本物の世界だ。
……それぞれの国に産業と思想、そして長い歴史がある。
律子の心臓が少し速くなった。
……これが、ゲームの世界であるわけがない。
……これは、ヒロインが攻略対象と恋愛して、「めでたしめでたし」で終わる世界、ではない。
律子はペンを握り直した。手がわずかに震えていた。しかし、目は燃えていた。
……よし。
……もっと知る。
……この世界の構造を、もっと知る。
「——本日は、以上でございます」
教師は、——一礼した。
令嬢たちが、——立ち上がって、——会釈、した。律子も、——立ち上がった。
地図の中央に、——黄色いエアル王国が、——四方を大国に囲まれて、——黙って、——存在していた。




