第24話 侯爵令嬢、復学する
中庭の方から、——蹄の音が、——聞こえていた。
律子は、目を、開けた。
古い木の天井。——初夏の光が、——白く、窓辺に、伸びていた。三週間前と、——同じ天井。しかし、——窓の外の光は、——あの朝より、もう少し、——強くなっている。
寝台の縁に、座った。素足が、床に、触れた。
寝台の脇に、影が、——立っていた。
……今日も、——よろしく。
声には、——出さなかった。
◇
机の上に、——置いてあるものが三つ。
お母さまの、運転教本、文箱、そして扇子。
文箱の蓋は、——閉じていた。
……手紙は、全部、目を通し終わっていた。
……今夜。
律子は、——引き出しから、——目録を、——取り出した。
「お父様からの、事情聴取」 ——印。
「お母さまの、お部屋の、調査」 ——印。
「サントーニ先生の、授業」 ——二回分、印。
その下に、——印の付いていない、——三項目。
「学院、復学」
「ロドリゴからの、事情聴取」
「文箱の差出人へ、お手紙」
……今日の、一つ目。
紙を、——引き出しに、戻した。
◇
廊下の方から、声が、聞こえた。
「——シーツは、お午前のうちに。お庭の薔薇は、しおれた花を、切って頂戴」
「畏まりました」
「お夕食の、お粥のお下ごしらえ、——ペッピーノに、お伝えしておいて」
「はい」
マルチェッラが、メイドたちに指示する声。
その後、——扉が、軽く、叩かれた。
「お嬢様、——失礼、いたします」
「ええ、——どうぞ」
マルチェッラが、——制服を、抱えて、入ってきた。左袖に、黒い、小さな喪章。
「お久ぶりの、制服で、ございますね」
「ええ」
マルチェッラは、——制服を、寝台に広げた。
手早く、——着替えを、手伝った。布の感触が、——首筋に、戻ってきた。
「お嬢様、——お時間を、——少々、——いただけましたら」
「ええ?」
「三つ編みを、——お結いいたしましょうか」
「あら、——よろしいの? お忙しいでしょう」
「次の仕事には、——間に、合いますので」
マルチェッラは、——鏡台の前の椅子を、軽く、引いた。
律子は、座った。
マルチェッラの手が、——プラチナブロンドを、——三つに、分けた。手の動きは、——手際が良かった。お屋敷を差配しながらの、——気遣い。
「マルチェッラ」
「はい」
「ありがとう」
「——なんでもございません、お嬢様」
三つ編みが、——胸の前に、垂れた。
「お嬢様、——私は、お台所の方へ参ります、——失礼いたします」
「ええ、——どうぞ」
マルチェッラは、——一礼して、——足早に、退出した。
扉の外で、また、声が、聞こえた。
「——お庭の方は、誰?」
「私です」
「お枝の選別、——気をつけて」
声が、遠ざかって、いった。
◇
律子は、——鏡台の前に、まだ、座っていた。
鏡の中に、——十三歳の、プルデンティアが、——映っていた。
……あら。
しばらく、——黙っていた。
……まるで、乙女ゲームの、——美少女ね。
プラチナブロンドの、三つ編み。アイスブルーの、目。白い、肌。整った、鼻筋。
……主人公の友達の、——美貌の令嬢。
律子は、——軽く、息を、吐いた。
……でも。
鏡の中の、——十三歳を、——もう一度、——見た。
……三週間で、——少し、痩せた。
……頬の、丸みが、——少し、消えた。
……目が、もっと、——鋭い。
律子は、——もう一度、——鏡の中の、——十三歳を、観察した。
……ゲームなら、——「冷たい笑み」、と、——書かれる、——顔。
律子は、——鏡の中の、——十三歳に、——試しに、——笑いかけた。
ぎこちなく、——口角を、上げた。
……あら。
……これは、——
……笑っていない。
……怖さが、——増している。
もう一度、——少しだけ、——力を、抜いた。
……これは、——マシ。
……でも、——
……自然に、——笑うのは、——練習が、——いるのね。
また、キアラに、もっと笑えと言われちゃう。
首を振った。
……いざ、セルヴィア法曹予備学院へ。
学院に通うのは三週間ぶり。事件の日から休学していた。復学の初日。
律子は一度、深く息を吸った。弁護士の息の整え方。法廷に臨む最初の一呼吸。
……参ります。
律子は馬車に乗り込んだ。
◇
馬車。ロドリゴが、御者台に、いた。
「お嬢様」
「お願い、——ロドリゴ」
馬車が、動き出した。
律子は、窓の外を、見ていた。中庭の、白い薔薇が、——朝の光の中で、——咲いていた。
……お母さま、——行って、参ります。
律子の足元、——影が、——馬車の床の上で、一緒に、座っていた。律子は、——気づかなかった。
……キアラに、会う。
……三週間ぶり。
律子の口元が、——わずかに、緩んだ。鏡の前で、練習した、——あの笑顔。
今度は、少しだけ、——自然に、出た。
学院の、白い建物が、——前方に、——見え始めた。
◇
学院の、白い門が、——馬車の窓の外に、見えた。
律子は、——背筋を、伸ばした。
……行くわよ、——プリュ。
◇
馬車が、止まった。ロドリゴが、扉を、開けた。
「お嬢様」
「ありがとう、——ロドリゴ」
律子は、——馬車を、降りた。石畳の上に、——制服の靴が、音を、立てた。
正門の前には、——他家の馬車が、何台か、止まっていた。令嬢たちが、降りてくる。
……あ。
令嬢たちの、視線が、——律子に、集まった。
誰も、——最初の一声を、かけられなかった。
……お母さまを、亡くし、喪が明けて、戻ってきたプルデンティア。
……皆さま、——どう、声を、かけたら、いいか、——迷っている。
律子は、——背筋を、——もう少し、伸ばした。
左袖の喪章を、——指先で、軽く、撫でた。
……お母さま、——プリュは、——歩き始めます。
律子は、——廊下に、足を、踏み入れた。
◇
白い廊下を、——歩いた。
すれ違う令嬢たちが、——会釈を、する。律子も、——会釈を、返す。
言葉は、——交わされなかった。
……皆の顔に、迷いが出ている。
……お悔やみを、言うべきか、普通に、するべきか迷っているわね。
律子は、——気づいた。
……私の方も、——同じ顔をしている、——たぶん。
……鏡で、——見たばかり。
……三週間、——固まったままの、——「冷たい白磁の令嬢」の顔。
……これじゃ、——皆さまも、——声を、——かけにくいわよね。
律子は、——口元を、——緩めようとした。
しかし、——廊下では、——上手く、——行かなかった。
……ぎこちない。
階段を、——上がった。
二階の、——廊下の奥に、——自分の教室の扉が、——あった。
律子は、——扉の前で、——一度、息を、吐いた。
扉に、——手を、かけた。
◇
「——プルー!」
律子が、——教室の扉を、開けた、瞬間。
誰かが、——飛びついてきた。
ぎゅっ、と、抱きついてきた。
律子は、——よろめいた。
しかし、——身体が、——勝手に、抱きしめ返した。
「——キアラ」
「プルー、おかえりなさい」
「——ただいま」
「——会いたかった」
「私も」
キアラは、——律子を、抱きしめたまま、——しばらく、動かなかった。
律子は、——キアラの肩越しに、——教室の皆を、見た。
他の令嬢たちは、——少しだけ、目を、伏せていた。キアラのように、——飛びつくことは、——出来ない。
でも、——飛びついているキアラを、——見て、——皆、——安堵していた。
……ああ、——プルデンティア様は、——大丈夫だ。
教室の空気が、——変わった。
皆さまの中にあった、——遠慮の空気が、——溶けた。
……キアラ。
……入学式の日と、——同じ。
……三年前も、——あなたが、——壁を、溶かしてくださった。
……今日も、——同じ。
◇
「——プルー」
キアラが、——律子の肩から、顔を、離した。
目が、——濡れていた。しかし、——笑っていた。
「——痩せた?」
「——少し、ね」
「召し上がって」
「ええ?」
「——私のお弁当、——半分、——あげるわ」
「キアラ」
「——だって、心配なんだもの」
律子は、——笑った。
久しぶりの、——本気の笑い。
四十三歳の城山律子と、——十三歳のプルデンティアが、——同時に、——笑った。
……お母さまの、——お葬儀から、——初めての、——本気の、——笑顔。
「——ありがとう、——キアラ」
「うん」
「——お弁当、——半分、——貰うね」
「——ええ」
「——でも、——その代わり、——」
「——うん?」
「——私のお弁当の、——人参、——貴方に、差し上げるわ」
「——プルー、——それ、——ずるい!」
キアラが、——膨れた。栗色の巻き毛が、——少しだけ、——揺れた。
律子は、——もう一度、——笑った。
教室の、——他の令嬢たちが、——つられて、——笑った。
◇
ローザ・コロンボが、——また少し背の伸びた身体を、——少しかがめて、近づいてきた。
マチルダ・グラッツィオが、——以前より自然な桃色の頬で、——その隣に、——立った。
「——プルデンテイア様」
「——ローザ様、マチルダ様」
「——お久しぶり」
「ええ、——お久しぶりですね」
ベアトリーチェ・コロンナも、——三週間、——気を、揉んだ顔で、——会釈を、した。
「——プルデンティア様、——お元気で、お戻りになって、——嬉しゅう、ございます」
「——ありがとう、ございます、——ベアトリーチェ様」
律子の、——左袖の喪章を、——令嬢たちは、——見て見ないふりをして、話そうと務めてくれた。
……皆さま、——
……私の復帰を、応援してくれて——
……ありがとう。
◇
予鈴が、鳴った。
令嬢たちが、——それぞれの席に、——戻った。
キアラが、——律子の手を、——一度、握って、——離した。
「休みの間の話、——お昼に、——詳しく、——聞かせて頂戴」
「ええ、——お昼に」
律子は、——自分の席に、——座った。
三週間、——空いていた、——窓際の席。
律子の足元で、——影が、一緒に、——座った。律子の姿勢と、——一致して、いた。律子は、——気づかなかった。
……キアラ。
律子は、——心の中で、——軽く、頷いた。
……葬儀の日、——お約束した。
……いつか、——律子の話を、——します、——と。
……それは、——今日ではない。
……だから、——魔法のお話を、——いたしましょう。
律子の口元が、——もう一度、——わずかに、——緩んだ。
教師が、——教室に、——入ってきた。
地理の、——授業の、——時間だった。




