第22話 侯爵令嬢、魔法の授業を受ける
翌日の、午前十時。
春の終わりの光が、玄関ホールの石床に、長く伸びていた。
マルチェッラが、扉の前で来客を迎えていた。
「——サントーニ先生がお見えに、なりました」
ホールに声が響いた。
律子は、廊下の角から、こっそりと、覗いていた。プルデンティアの身体は、廊下の影に、隠れていた。しかし、首だけは、——前に、出ていた。
扉が、開いた。
外の光と、入ってきた人物の輪郭が、——一瞬、重なった。
「……」
律子は、固まった。
……あら。
……あら、あら。
……若い。
……若いし、——。
……お美しい——。
……背の高いマルチェッラより頭一つ、背が高い。
……栗色の、髪。
……銀縁の、眼鏡。
……白いシャツに、紺のローブ。
……ローブが、——少し、よれている。
……いえ、よれている、というのは、失礼。
……お急ぎで、お見えに、なった、——お感じ。
……えっ。
……えっ、——この方が家庭教?
……てっきり、ペトルス先生みたいな方かと。
律子の意識が、廊下の影で、激しく、混乱した。
……落ち着きなさい、私。
……私は四十三歳。
……家庭教師は、お仕事上の、お相手。
……お仕事上の、——お相手。
……はい。
……はい、はい。
……でも、——若い。
……二十代の、半ば、か、後半。
……お父さま、これ、わざと?
……いえ、まさか。お父さまは、そんなお方ではない。
……人材難で、——ベテランの方はいらっしゃらなかった、——のだろう、たぶん。
……うん。たぶん、そう。
……そういうことに、しておきましょう。
律子は、額に手を当てた。
◇
玄関ホールで、マルチェッラが、男を、迎えていた。
「サントーニ先生で、いらっしゃいますね。——お待ち、申し上げて、おりました」
「——あ、はい。マルティーノ・サントーニといいます」
声が、若かった。少し、——息が、上がっていた。
……あら。
……お息が、——上がってる。
……走って、お見えに、なったのかしら。
「——昨日、お話をいただいて、——すいません、馬を、急がせて来たもので」
サントーニは、軽く、頭を、掻いた。
「閣下に、ご挨拶を、——」
「閣下は、執務中で、ございます。お嬢様の、お勉強の時間に、お通し、申し上げます」
「あ、はい。——よろしくお願いします」
マルチェッラが、頷いた。
そして、——廊下の方を、ちらりと、見た。
マルチェッラの目が、律子と、合った。
……ばっ。
律子は、廊下の影に、頭を、引っ込めた。
マルチェッラは、——気付かない振り、を、——してくださった。
マルチェッラの目元が、——ほんの少し、ゆるんだ気がした。
◇
お勉強の間。
南向きの窓から、午後寄りの光が、差し込んでいた。書架の背表紙が、橙色に、染まっていた。
律子は、椅子に座って、待っていた。プルデンティアの背筋は、伸びていた。十三歳の侯爵令嬢の所作。完璧だった。
ただ、——指先だけが、少しだけ、震えていた。
……お母さま。
……プリュに、お力を、お貸しください。
……四十代独身が、——お若い、家庭教師の方と、二人きりに、なります。
……お母さま、——どうか、お見守りください。
扉が、開いた。
サントーニが、——入ってきた。
近くで見ると、先生は、——スラリとしていた。栗色の髪が、少し、汗ばんでいた。緑の瞳。銀縁の眼鏡。シャツの袖を、軽く、押し上げていた。
律子は、——椅子の上で、軽く、頭を、下げた。
「お初に、お目に、かかります」
「あ、——はい、サントーニです。——あの、お嬢様の、家庭教師を、お引き受けすることに、なりまして」
サントーニは、——軽く、お辞儀を、した。
……あら。
……お辞儀は、ちゃんと、——なさるのね。
……でも、——少し、慌てて、いらっしゃる。
「セヴェリーニ家の、プルデンティアで、ございます」
「あの、お嬢様」
「はい」
「お嬢様の、——論文を読みました」
……あら?
「論文?」
「家父長権の、——あれを、十歳でお書きになるとは、すごいですね」
「——お、お恥ずかしゅう、ございます」
「いえ、本当に。——あの年で、古代法の、家父権の、限界の、議論まで、踏み込んで、——」
サントーニが、続けようとして、——途中で、止まった。
「あ、——すいません、初対面なのに、いきなり、研究の話を」
彼は、頭を、軽く、掻いた。
……あら。
……お頭を、お掻きに、なった。
……先生も、——緊張、なさっている。
……いえ、——緊張、というか、——お話に、夢中。
……学者の方。
……可愛らしい。
……いえ、可愛らしい、では、——いけないわ、私。
……四十三歳が、二十代を、——お可愛らしい、と思うのは、——ええと、——犯罪では、ないけれど、——心の中で、止めましょう。
「——いえ、お話、お聞かせください」
律子は、軽く、笑った。
「論文の話をお好きな方は、——少ないですから」
「ですよね」
サントーニも、笑った。
「——僕の周りでも、法律の話は、——あまり、喜ばれなくて」
「左様で、ございますか」
……「僕」と、——おっしゃった。
……素が、出た。
……いい兆候。
……お打ち解け、いただきやすい、お方。
◇
お茶が、運ばれてきた。
マルチェッラが下がり、扉が、閉まった。
二人だけが、お勉強の間に、残った。
サントーニは、——お茶器を、見ていた。
……あら。
……サントーニ先生も、——お茶器を、ご覧になっている。
……どこを見て、いいか、お困りに、なって。
律子は、軽く、息を、整えた。
「サントーニ先生」
「——はい」
「お茶を、お召し上がりに、なってから、——授業をお始めに、なりませんか」
「あ、——」
「ご遠慮、——なさらず」
「すいません、——いただきます」
二人で、お茶を、飲んだ。
しばらく、——沈黙だった。
しかし、——その沈黙は、嫌な沈黙では、なかった。
◇
お茶を、飲み終わった。
サントーニが、——茶器を、置いた。
彼は、軽く、頭を、掻いた。
「えーと、お嬢様」
「はい」
「まず、——今日は、お嬢様のお魔法を、見せていただきたくて」
「見るの、——ですか」
「はい。——魔法って、その人の中身と、繋がっているので。先に観察してから、教える順番の方が、いいんですよ」
「左様で、ございますか」
「——お嬢様の、影を、見せていただけますか」
律子は、床に伸びている、自分の影を、見た。
……ふつうの、影。
……いえ、——プルデンティアの影。
……髪が、長いから、——前世の私の影とは、形が違う。
「しばらく、——お黙りに、なって、ご覧ください」
「畏まりました」
二人で、しばらく、影を、見ていた。
南からの光が、律子の影を、床の上に、長く、伸ばしていた。
すると、——
影が、少しだけ、揺れた。
律子の身体は、動いていなかった。しかし、影は、——確かに、動いた。
「あ、——」
サントーニが、軽く、声を、出した。
「いま、動きましたね」
「ええ、——」
サントーニは、椅子から、少し、身を、乗り出した。
「——なるほど」
彼は、何か、考えている顔だった。
……あら。
……お考えに、なっている、お顔。
……眼鏡の、奥の、——緑の目が、——少し、輝いている。
……学者の、お顔。
……素敵。
……いえ、観察、止めて、私。
◇
「お嬢様」
「はい」
「その影に、——声を、かけてみてください」
「声、ですか」
「はい、——心の中でも、言葉でも、どちらでも」
……影に、声を、掛ける。
……シュールな、状況だな。
……いえ、お授業。
律子は、——心の中で、影に、呼びかけた。
……あの、——ウサギの形に、なって、いただけるかしら。
影は、——しばらく、動かなかった。
律子は、声に出した。
「ウサギ、——お願い」
影が、——もぞもぞ、動いた。
影が、——変な形に、なった。
何かの、塊。動物の、ような。植物の、ような。よく、分からない、——もの。
律子の内心:
……これは、ウサギ、——では、ない。
……何だろう。
……強いて言えば、——バゲット?
律子は、声に出した。
「……バゲット、ですわね、これ」
サントーニが、影を、見つめた。
眼鏡の奥の、緑の目が、——少し、丸くなった。
「——バゲット、——ですか」
「お食事の時に出る、——バゲット、です」
「ウサギを、頼んだのですよね?」
「ええ。——でも、影は、バゲットに、なりました」
サントーニが、——口元を、押さえた。
笑いを、堪えていた。
「——お嬢様」
「はい」
「あの、——もう一度、お試しください」
「畏まりました」
……今度は、ちゃんとした、形に、なって。
……お師匠様の、前で、バゲットばかり、出していられないわ、私。
律子は、心の中で、影に、頼んだ。
……お花の、形に、なって。
影が、——もぞもぞ、動いた。
影が、——丸く、平らに、なった。
「……」
律子は、影を、見つめた。
……ミートパイ。
律子は、声に出した。
「ミ、——ミートパイ、ですわね」
「ミートパイ」
サントーニが、繰り返した。
「——お嬢様、お花を、頼んだのですよね」
「ええ」
「——ミートパイが、出ました」
「左様で、ございます」
二人で、——一拍、お互いの顔を、見た。
「——お嬢様」
「はい」
「お腹が、お空きですか?」
「あら、——」
「いや、——だって、バゲットと、ミートパイが、続けて、——」
「あら、——ばれましたか」
二人で、軽く、笑った。
……あら。
……笑った。
……先生の、——お笑いに、なった、お顔。
……綺麗。
……いえ、お授業。
……お授業に、集中、私。
◇
サントーニが、——お茶を、もう一口、飲んだ。
そして、——少し、声を、変えた。
「お嬢様」
「はい」
「——お嬢様の、魔法ですが、——」
彼は、少し、考えた。
「——属性で、言えば、——闇、——でしょうか」
「闇、——ですか」
「はい。影を、お使いに、なる、——一般的には、闇属性に、分類されます」
「左様で、ございますか」
「ただ、——一般的な、闇魔法とは、——少し、違うようですね」
「違いますか」
「一般的な、闇魔法は、——攻撃に使うものなんですけど、お嬢様の影は、——なんていうか、——お嬢様を、守ろうとする、——動き方を、しています」
……あら、——的確。
「正式な分類は、——アルカディアの、評議会で、見極めてもらうことに、なります。——僕の手には、余ります」
「サントーニ先生でも、——お分かりに、ならない?」
「——はい、お恥ずかしながら」
サントーニは、軽く、頭を、掻いた。
「僕は、写しの、専門なので。——属性の鑑定は、別の、専門領域なんです」
……ご謙虚。
……「分からない」と、——お認めに、なる方。
……前世の業界でも、同じだった。
……「分かりません」と言える、専門家は、——信頼できる、お方。
◇
「お嬢様」
「はい」
「ただ、——一つだけ、確かに、申し上げられることが」
「はい」
「お嬢様の魔法は、——」
サントーニは、軽く、椅子に、座り直した。
「——魔法には、代償が、あります」
「ご代償」
「力を、使うと、——その分、どこからか、お代わりを、差し出す。これは、お分かりですか」
「ええ、——お母さまから、お聞きしたことが、——少しだけ」
「お嬢様の魔法は、——その代償が、お嬢様、ご自身に、——返ってくる、魔法です」
「私に」
「はい」
……自分の代償を、自分で、引き受ける。
……前世で、——私が、引き受け続けたものと、——同じ性格。
……離婚調停の、依頼者の、苦しみを、——夜中に、思い出して、本棚の前で、缶ビールを、開けた、私。
……あれと、——同じ、種類のもの。
「だから、——軽い気持ちで使うのは、やめておいた方が、いいです」
サントーニは、——少し、真剣な顔に、なった。
「——自分の中の、何かを、削って使う、そういう魔法ですから」
律子は、背筋を、伸ばした。
「畏まりました、サントーニ先生」
「——よろしくお願いします」
サントーニは、軽く、頭を、下げた。
……頼りに、なる、——先生。
……お若いけれど、——言葉に、芯が、ある。




