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第21話 侯爵令嬢、遺産を引き継ぐ

 

 自分の部屋に戻った律子は、——目録の紙を、手に、取った。


 「お父様からの、事情聴取」 ——終わった。横に、小さく、印を、付けた。


 次は、——


 「お母さまの、お部屋の、——調査」。


 律子は、——軽く、息を、整えた。


 ◇


 お母さまの部屋の扉の前に、ロドリゴが立っていた。


 老執事の姿勢はいつも通りまっすぐだった。葬儀の夜より、少しだけ痩せて見えた。


「お嬢様」


「ロドリゴ」


「お部屋の鍵で、ございます」


 ロドリゴが両手で銀の鍵を差し出した。古い、飾りのついた鍵。お母さまがいつもお持ちになっていた、鍵。


 律子は両手で受け取った。冷たい金属の感触。


「侯爵様より、お許しを、いただいて、おります」


「……お父さま、から」


「はい。お嬢様がお部屋をご自由にお使いくださって構わない、と」


「……」


「奥様も、生前におっしゃっておられました」


 律子は顔を上げた。


「お母さまが」


「はい」


「何て、」


 ロドリゴは少しだけ目を伏せた。それから静かに答えた。


「『私がいなくなったら、——プリュに、好きに、使わせてあげて』、と」


 律子の胸が詰まった。


 ……お母さまは、ご自身がいなくなる日のことを想定していらっしゃった。


「それを聞いたのは何時?」


「数ヶ月前で、ございましょうか」


 ロドリゴはまた目を伏せた。


「お母さまのお言葉を、伝えてくれてありがとう」


「……」


 ロドリゴは一礼した。深い、執事の礼。それから一歩下がった。


「お嬢様」


「はい」


「何か、ご入用のことが、ございましたら、——お申し付けください」


「わかりました」


「ロドリゴは、奥様にお仕えして、長うございます」


「……」


「存じ上げていることは、何でも、お話いたします」


 律子はロドリゴの目を見た。老執事の目は、何かを伝えていた。


 ……私は、奥様の活動を、薄々、知っておりました。

 ……その続きを、お嬢様がなさるのなら、お手伝いをさせていただきます。


 言葉に出来ない。しかし、伝わった。


 律子は頷いた。


「ありがとう」


「はい、お嬢様」


 ロドリゴはもう一度礼をした。それから静かに廊下を去った。老執事の足音が遠ざかっていった。


 ◇


 律子は扉に向き直った。


 銀の鍵を鍵穴に差し込んだ。回した。かちん、と軽い音がした。扉を開ける。


 お母さまの部屋の空気が廊下に流れ出た。ほんのわずかに、お母さまの香水の残り香がした。


 律子は一度目を閉じた。それから開けた。


 ……お母さま、プリュです。

 ……お邪魔、いたします。


 律子は部屋に入ると、扉を静かに閉めた。


 ◇


 お母さまの部屋。


 窓辺に大きな椅子。椅子の傍に小さなテーブル。部屋の奥に書き物机。壁に書架。反対側の壁に鏡台。お母さまの好きな白い薔薇の絵が、壁に飾られていた。


 全てが、お母さまがいらっしゃった最後の日のままだった。


 律子は窓辺に歩いた。カーテンを少しだけ開けた。午前の光が部屋に差した。空気の中の埃が光って見えた。


 書架には、革表紙の立派な本が並んでいた。学術書、判例集。その中に、一つだけ混ざっている、小ぶりな本が目に入った。


 律子はその本を取り出した。表紙の文字を見る。


『自動車運転教本』


 律子は本を両手で持ち、ページを開いた。ページの端が少しだけ折れていた。書き込みがあった。お母さまの字だ。流れるような、美しい字。


 律子は書き込みを読んだ。


 『左の、ペダルが、ブレーキ』

 『右の、ペダルが、加速』

 

 あの日、ピクニックの日、お母さまがおっしゃっていた本だ。


 ……お母さまは、この本を読んで、運転を独学されていた。


 律子は本を机の上に置いた。ページをもう一度めくった。書き込みは本の最後まで続いていた。


 最終ページに、一行だけ別のことが書かれていた。


 『プリュにも、——いつか』


 律子の胸が痛んだ。


 ……お母さまは、いつか、私にも運転を教えてくださるおつもりだった。

 

 律子は本を閉じ、両手で表紙を撫でた。


 ……お母さま、実はプリュは、運転が出来るんです。縦列駐車なんかも得意なのです。

 ……それでも、お母さまに教えていただきたかった。

 ……そして、驚くお顔を見たかった。


 ……『プルー、私より上手だわ』


 ……そんな言葉が聞こえてくるようだった。


 律子は本を取り出した。


 ……自分の部屋に持ち帰ろう。

 ……あの日の記念として。

 ……持ち帰るもの。最初の一冊。



 そして、律子は書き物机の前に立った。


 書き物机。お母さまの机。


 律子は何度もお母さまの隣に立って、お母さまが何かをお書きになるのを見ていた。しかし、一人でこの机の前に立つのは初めてだった。


 律子は少しだけ息を吸った。弁護士の息の整え方。


 ……お母さま、引き出しを開けます。


 律子は一番上の引き出しに手をかけた。ゆっくりと引いた。


 一番上の引き出し。几帳面に整理されていた。封筒、便箋、筆記具。お母さまの好きだった、青いインク。


 律子は封筒を一通手に取った。白い封筒。宛名は書かれていない。予備の封筒。


 律子は他のものを見た。ペン立て。お母さまの書きやすいペン。インクの瓶。半分まで使われていた。


 ……劇場へ向かう前日まで、お母さまは何かを書いていらっしゃった。


 律子は指先でペンに触れた。まだ、お母さまの指の形が残っているような気がした。


 律子は一度目を閉じた。それから次の引き出しに手をかけた。


 文箱が入っていた。黒い漆の文箱。お母さまのお気に入りの文箱。


 律子は両手で文箱を取り出した。机の上に置いた。蓋を開けた。


 手紙の束。三十通——いや、もう少しある。


 全て、お母さまがお受け取りになった手紙。差出人の名前は様々だった。律子の知らない名前ばかりだった。


 律子は一通を手に取った。封は切ってある。


 ……お母さまの受け取った私信を、勝手に読んでよいのか。


 しかし、——


 ロドリゴの目が浮かんだ。「お嬢様がお続けになるなら、お手伝いさせていただきます」。


 お母さまもお許しになっている。「プリュに好きに使わせてあげて」。


 律子は便箋を引き出した。ゆっくりと広げた。


 ◇


 手紙は女性の字で書かれていた。日付は半年前。差出人は「マリア」と署名されていた。


 律子は便箋を読んだ。


『コルネリア様

 お久しゅう、ございます。


 ご報告したいのは、あの子——マッテオのことで、ございます。


 マッテオは元気で働いております。孤児院を出てから、王都の薬種店の住み込みとなり、もう二年になります。店主のお眼鏡に適って、簡単な調合も任されているとか。


 大きくなりました。茶色い目に眼鏡をかけた、優しい青年です。


 奥様がご心配くださった、あの子のこと——奥様のお力で、救われました。


 本当に、ありがとうございました。


 マリア』


 律子は便箋を二度読んだ。三度読んだ。


 ……お母さま。

 ……お母さまは、孤児院を出て働き始めた子の、その後まで追っていらっしゃった?

 ……慈善活動として、最後まで見届けるために?

 

 律子の弁護士の頭が回る。


 律子はもう一通手に取った。別の差出人。別の子供の消息。もう一通——別の子供。


 律子は少しずつ束をめくった。全て、孤児院を出た子供たちの近況。


 ……ただの慈善活動ではない。

 ……何かが、ある。

 ……子供たちに、何かが起こっている。


 律子は分からなかった。まだ、今は分からない。


 ……それは、お母さまが亡くなったことと、——どこかで繋がっているのかもしれない。


 律子の直感がそう囁いていた。弁護士の十五年間の経験で磨いた直感。


 ……無関係に見える、二つの事件が、同じ深いところで繋がっている、——その匂いを嗅ぎ分ける、嗅覚。


  律子は文箱の蓋を閉めた。文箱を両手で持った。


 ……これも、持ち帰ろう。


 律子は文箱を机の上の、運転教本の隣に置いた。


 ……お母さま、お預かりします。

 ……プリュが必ず、解きます。


 ◇


 最後に、律子は書き物机の横の小さな抽斗を開けた。


 お母さまの身の回り品。化粧道具。手鏡。簪。


 律子は抽斗の奥に、何かがあるのを見た。絹の布で包まれた、細長いもの。


 律子は両手で取り出した。絹をゆっくりと開いた。


 中から扇子が現れた。


 ◇


 律子は息を止めた。


 扇子は美しかった。象牙の親骨。絹地は薄い生成り。絹地に刺繍が施されていた。


 オリーブの枝。オリーブの葉。薄い金で刺繍されていた。


 窓からの午前の光が、金線を撫でた。光の角度が変わると、金線が消える。角度を戻すと、金線が現れる。


 ……お母さまの好みだ。

 ……控えめで、気品がある。

 ……目立たないが、気づく人は気づく。


 律子は扇子を両手で持った。軽い。しかし、手に馴染む、しっとりした重さ。


 律子の身体は、お母さまの所作を覚えていた。お母さまが扇子を開く時の、指の運び方。お母さまが扇子を閉じる時の、手の返し方。


 律子の指が、勝手にその形をなぞった。


 ぱちん。


 扇子が開いた。


 窓の光が絹地に当たった。オリーブの枝が浮かび上がった。葉が浮かび上がった。薄金が光の中で揺らいだ。


 律子の胸の中に、何かが満ちた。


 ……お母さまが扇子を開かれた瞬間、お母さまの顔が変わるのを、律子は何度も見ていた。

 ……貴婦人の顔。社交の顔。

 ……扇子を開くと、お母さまは別のお母さまになった。


 ……道具だったんだ。


 律子は気づいた。


 ……扇子は、お母さまの二つの自分を行き来する、スイッチだった。

 ……ご家族の前のお母さま。社交の場のお母さま。

 ……お母さまの中にも、二つのお母さまがいた。


 ……二つの自分を扱うのは、お母さまも同じだ。

 ……律子の二つの自分の扱い方を、お母さまが教えてくれた。

 ……そのための道具まで、遺してくださった。


 ……お母さま。


 律子は扇子をゆっくりと閉じた。


 ぱちん。


 軽い音。お母さまがいつもお立てになっていた音。


 その瞬間、——


 律子の足元の影が一瞬、揺らいだ。別の方向を向いた。


 律子は気づかなかった。影はすぐに、律子の足元に元通り収まった。


 律子は扇子を両手で握った。絹に指を当てた。


 オリーブの枝。知恵と平和。お母さまがプリュに遺された、もの。


 ……道具と、教えと、——


 律子は扇子を持って立ち上がった。お母さまの鏡台に歩いた。


 ◇


 お母さまの鏡台。古い、銀の縁の鏡。


 律子は鏡の前に立った。


 鏡の中に、十三歳のプルデンティアが映っていた。黒いドレス。プラチナブロンドの髪。アイスブルーの瞳。手に扇子。


 律子は自分を見た。


 ……お母さまの扇子を持った、私。

 ……お母さまの娘。

 ……お母さまのやろうとしていたことを引き継ぐ者。


 律子は心の中で呟いた。


 ……侯爵令嬢、戦闘準備完了。


 プラチナブロンドの髪と、アイスブルーの瞳。


 鏡の中の十三歳が、少しだけ口角を上げた。令嬢の微笑みでもなく、少女の笑みでもなく——城山律子の、法廷入場前の笑み、だった。


 ……お母さま。

 ……プリュは、参ります。


 律子は一礼した。鏡の奥のお母さまに。深い、令嬢の礼。扇子を胸に当てて。


 顔を上げた。


 もう、ためらいはなかった。


 ◇


 律子は書き物机に戻った。運転教本。文箱。扇子。三つを両手で抱えた。


 部屋を一度見回した。お母さまの椅子。お母さまの薔薇の絵。お母さまの香水の残り香。


 ……お母さま、お預かりします。


 律子は扉に向かった。扉を開けた。部屋を出た。扉を静かに閉めた。


 鍵は掛けなかった。


 ……もう、開かずの部屋ではない。

 ……お母さまの部屋は、プリュの部屋でもある。


 律子は廊下を歩き始めた。影は、少しだけ遅れてついてきた。


 ◇

 

 自分の部屋に戻った律子は、——運転教本、文箱、扇子を、——机の上に、置いた。


 短い夕食。短い夜。


 律子は、——目録を、見返した。


 「お母さまの、お部屋の、調査」 ——終わった。横に、印を付けた。


 ……明日は、——サントーニ先生が、お見えに、なる。

 ……お魔法の、——お師匠様。

 ……お母さまが、——お遺しに、なった、仕事を、——引き継ぐために、——必要な、お方。


 律子は、——目録を、丁寧に、——机の引き出しに、しまった。

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