第20話 侯爵令嬢、論陣を張る
朝食の後、プルデンティアは父の書斎を訪れた。
書斎の扉の前で、律子が、——軽く、息を、整える。
ノックを、した。
「プリュです」
「入りなさい」
扉の向こうから、低い声が、聞こえた。
父の声に導かれて、律子が扉を開ける。革の肘掛け椅子。壁の書架。古い本の匂い。プリュにとっては、子供の頃から何度も訪れた部屋。でも、律子の意識は、十五間、年家事事件の法廷で戦ってきた人間。二つの記憶が重なって一人になっていた。
……今日は、娘として話そう。
……でも、父の話は、私が聞く。
父が机の前に立っていた。娘に椅子を勧めた。
「座りなさい」
「はい」
律子は座った。革の椅子がわずかに軋んだ。父も向かいの椅子に座った。
「……それで」
「はい、お父さま」
「何の話だい」
律子は少しだけ息を整えた。弁護士の息の整え方。法廷の最初の一呼吸。
「お母さまの、ことで、ございます」
父の表情は変わらなかった。ただ、眼鏡の奥の目が、少しだけ深くなった。
「うむ」
「いくつか、——分からないことが、ございます」
「言ってみなさい」
……お父さまは、聞いてくださる。
律子は理解した。
……お父さまは、この対話を想定して準備している。
……ならば、こちらも準備した通りに進めるだけだ。
律子は膝の上で両手を組んだ。十三歳の少女の所作。しかし、指の組み方は、十五年間、弁護士として法廷に臨んだ時の形だった。
「第一に、——場所のことです」
「うむ」
「あの王立劇場の大階段。観劇の終わりで、たくさんの人がおりました。あのような場所でお母さまを襲うのは、困難で、ございましょう」
「……うむ」
「通り魔というものは、人気の少ない、暗い場所で近くにいた人を襲うものと聞いております。あの場所、あの時刻は、通り魔の選ぶ場所では、ございません」
父は黙って聞いていた。眼鏡の奥の目は、娘の口元を見ていた。
「第二に、——人数のことで、ございます」
「うむ」
「お母さまを刺した者は、一人では、ございませんでした。少なくとも四人の男たちが連携して動いておりました。通り魔の構成要件には、合致しません」
「……」
「第三に、——対象のことで、ございます」
「言いなさい」
「あの男たちは、お母さまだけを狙いました。私には手を出さず、ロドリゴに対しても殺意はなかった。お母さまを刺すと、引き上げました。これは通り魔の行動では、ございません」
父は一度、目を閉じた。それから開けた。
「第四に、——お母さまの、最後の、お言葉で、ございます」
「……」
「『蛙のお話を、思い出して。仕返しを、しては、駄目よ』。——お母さまは、ご自身が誰かに襲われる理由をご存じで、いらっしゃいました」
「……」
「ご存じで、私に仕返しをするな、と、おっしゃいました」
「……」
「これは通り魔に襲われた者の、最後の言葉では、ございません」
父の指が、机の上で一度動いた。律子の弁護士の目が、それを見逃さなかった。
「第五に、——警備局の、処理で、ございます」
「……」
「犯人は未だに捕まっておりませんが、通り魔として捜索が続いている。それなのに、お父さまは——屋敷の警備を固めていらっしゃる」
「……」
「お父さまは、さらなる攻撃に備えておられる。それは誰から、なのでしょう」
書斎は静かで、壁の時計の刻む音だけが聞こえた。
父は長い息を吐いた。眼鏡を一度外し、机の上に置いた。眼鏡のない父の顔は、少しだけ年を取って見えた。
「プリュ」
「はい、お父さま」
「お前の論理は、よく、分かる」
「……」
「筋が通っている」
「はい」
「しかし、——」
父は机の上の眼鏡を見ていた。
「証拠が、ないのだ」
律子の身体が止まった。律子の意識も止まった。
……その台詞を、私は何度も聞いていた。
……依頼者を目の前にして、自分で口にしたことも、ある台詞。
……証拠がない。
……法は、証拠の上にしか立てない。
……どれほど論理が正しくても、証拠がなければ、戦えない。
……お父さまは、それを言っていらっしゃる。
「賢く、お育ちなさい、プリュ」
「……」
「お母様が、——そう、望んでいた」
父は眼鏡を取り上げ、もう一度掛け直した。
律子の弁護士の目が、静かに父を観察した。
……お父さまは、何かを隠している。
……完全な沈黙で、何かを隠そうとする戦略。
……前世の依頼者の中にも、こういう人がいた。
……全てを知りながら、一切を語らなかった、人。
……それは、守るべき何かがある、人。
律子は理解した。
……お父さまは、私を守ろうとしている。
……娘を危険から遠ざけるために、敵について語らない。
律子は、それだけは確信した。
◇
「お父さま」
「うむ」
「ありがとうございました」
「……」
「お話を、お聞かせいただきまして」
「お前は、納得できたのだろうか」
律子は少しだけ考えた。それから答えた。
「いいえ、お父さま」
「……」
「しかし、これ以上は、お聞きしません」
「……」
「証拠がない、と、おっしゃるなら、——証拠を探すのは、私の、仕事です」
父の目が、少しだけ見開かれた。
「プリュ」
「はい」
「それは、——子供のすることではない。今のお前がするべきは、」
「お父さま」
律子は遮った。遮ることを許される、声色で。
「プリュは、仕返しをいたしません」
「……」
「ただ、知りたいのです」
「……」
「見ないふりをして生きていけるほど、プリュは大人ではありません」
父は長い沈黙を置いた。時計の音がいくつか鳴った。それから静かに言った。
「それならば……まずは、世の中の仕組みを学びなさい。そうすれば自ずと見えてくる」
「はい、お父さま」
「プリュ、私からも一つ、話がある」
父の雰囲気が変わった。
「何でございましょう」
父は、——律子を、見つめた。
父の目は、——静かだった。
しかし、その静けさの奥に、——何か、——いつもとは、違う、温度が、あった。
「プリュ」
「はい」
「——あの日のことを、ロドリゴから、聞いた」
「……」
「白い、——大階段の上で、——刺客たちが、——お前を、見ただけで、刃を、仕舞った、と」
律子の心臓が、——一瞬、跳ねた。
……あら。
……お父さまは、——あの時の話を、なさる、おつもり。
……お母さまが、——亡くなった、——あの瞬間の話。
「ロドリゴが、——もう一つ、——言っていた」
「……」
「お前の、——影が、——刺客たちの、足元の影に、絡みついた、と」
律子の指先が、——軽く、握られた。
……ばれて、——いる。
……いえ、——隠していた、わけでは、ない。
……でも、——お父さまが、お話に、なるのは、——初めて。
「ええ」
律子は、——軽く、頷いた。
「私の、影が、——動いたようで、ございます」
「うむ」
父は、しばらく、——律子を、見ていた。
それから、——机の上の、革表紙の冊子に、手を置いた。
「プリュ。これは、何だと、思う」
「家系図、——でしょうか」
「そうだ」
父は、冊子を、——律子の方に、向けた。
古い、——羊皮紙の、ページ。何代もの、——セヴェリーニ家の、人々の、——名前が、書かれていた。
◇
「セヴェリーニ家は、——法王国の、侯爵だ」
「はい」
「法の家柄でな。——魔法の家系では、ない」
「左様で、ございますね」
「だが、——」
父は、冊子の、——四ページほど前を、開いた。
律子は、——身を、乗り出した。
……あら。
……これは。
古い、——四代前の、ご先祖の、ページ。名前の脇に、——小さく、印が、付いていた。
「四代、遡ると、——いる」
「ご先祖様、ですか」
「うむ。——アルカディアに、留学して、——魔法を、学んだ、——御先祖が、お二人」
……アルカディア。
……東にある国。
……魔法の国。
……ご先祖の中に、——留学なさった方が、いらした。
「魔法の血はあるが、強くはない。だから、毎代、——出る、わけでは、ない」
「……」
「しかし、——稀に、魔法使いが出る」
父は、律子を、——見た。
眼鏡を、外した、——素の目が、——律子を、見ていた。
「——セヴェリーニの、血だ」
……お父さまは、——驚いて、いらっしゃらない。
……私が、影の魔法を、——持ったことに。
……受け入れに、なった、——顔。
……家の、——血、として。
◇
父は、——冊子を、軽く、閉じた。
それから、机の上の、——眼鏡に、手を伸ばした。掛け直した。少し、——いつもの、お父さまに、戻った。
「プリュ」
「はい、お父さま」
「魔法を、——理解せずに使うのは、——危うい」
「……」
「お前は、——あの日、——お母さまを、守ろうとした」
「……」
「影の魔法が、——お前の心に、応えた」
お父様は、私の心を、——知っていらっしゃる。
「しかし、——魔法の制御を知らなければ、——人を、——そしてお前自身を、——傷つける」
「そうかも知れません」
「家庭教師をつける」
「お父さま」
「サントーニという、——魔法の、先生だ」
「サントーニ先生」
「先代がお世話になった家の、お弟子筋に、当たる」
「左様で、ございますか」
「セルヴィアでは、——魔法を教える教師は、——多くはない。急で、申し訳ないが、——明日にも、お運びくださる、はずだ」
「明日、——でございますか」
「うむ」
……早い。
……お父さまは、——昨日のうちに、もう、お手配なさっていた。
……お母さまが、お亡くなりに、なって、——まだ、何日も経っていないのに。
……それくらい、——お急ぎに、なるべき、——事情が、あった、——ということ。
「お父さま」
「うむ」
「——ありがとう、ございます」
父は、——少しだけ、目を、見開いた。
……あら。
……「ありがとう」と、申し上げた、私。
……ご家庭教師を、お頼みいただいて、ありがとう、——という、お礼。
……でも、——いつもより、大きな「ありがとう」に、——なって、しまった。
……お母さまを襲った敵の正体を隠すことも、魔法の家庭教師をつけるのも。
……全ては、——私を守るため。
父は、——しばらく、律子を、見ていた。
それから、——軽く、頷いた。
「うむ」
その「うむ」は、——いつもの「うむ」とは、——少し、違う「うむ」だった。
◇
律子は、書斎を退出する、——その前に、——一つだけ、申し上げた。
「お父さま」
「うむ」
「——お父さまも、——どうか、——お身体を大切に」
父は、——眼鏡の奥で、——少しだけ、目を、伏せた。
それから、——軽く、頷いた。
「うむ」
律子は、——一礼して、書斎を、出た。
◇
扉が、——閉まった。
廊下で、律子は、——軽く、息を、吐いた。
「……ふぅ」
……お父さまは、——一人で、作戦を練って、——いらっしゃる。
……お母さまの、——お亡くなりに、なった、——夜から、——お父さまは、一人で。
……顔には、——お出しにならず。
……でも、——一人の、部屋で、——たぶん、——いえ、——分からない。
……お父さまの、悲しみは、——お父さまの、もの。
……私は、——お父さまの娘として、——お側で支える。
……それで、——良いですよね。
律子は、——廊下を、歩き始めた。
春の終わりの、午前の光が、廊下の石床に、——長く、伸びていた。
影が、律子の足元から、——一緒に、歩いていた。




