第19話 侯爵令嬢、透明人間になる
窓の外で、雀が鳴いていた。
律子は、——目を、開けた。
寝台の上、見慣れた、古い木の天井。蝋燭は、もう、消えていた。窓の外から、薄い、青白い、朝の光が、差し込んでいた。
……朝。
……朝が、来た。
律子は、しばらく、天井を、見ていた。
……お母さま。
声に出さずに、呼んだ。
返事は、もちろん、——なかった。
胸の奥が、——少し、痛んだ。
しかし、——昨日までの、引き裂かれるような、痛みでは、なかった。深いところに、静かに、沈んでいる、痛み。
……ああ。
律子は、軽く、息を、吐いた。
……痛みは、消えない。
……でも、——少し、形が、変わった。
◇
律子は、寝台の上で、——身体を、起こした。
寝衣のまま、寝台の縁に、座った。素足が、床に、触れた。冷たかった。
ふと、——視線が、落ちた。
寝台の脇に、影が、——あった。
昨日までの、——うずくまっている、影では、なかった。
立っていた。
律子の足元から、まっすぐに、立ち上がって、——窓の方を、向いていた。
律子は、——少し、首を、傾けた。
……あら、あなた、——立っているのね。
……いえ、——立たせたのは、私かしら。
……自分でも、——よく、分からない。
律子は、——影を、しばらく、見ていた。
影は、——動かなかった。律子の身体の動きと、——一致して、いた。
……機嫌が良いの?
……いえ、——影に、声を掛けるのは、——変ね、私。
……でも、一緒に、いるんだもの、たぶん、声をかけても、いいのよね。
◇
律子は、立ち上がった。
窓辺に、歩いた。素足の裏に、床の冷たさが、伝わった。生きている、——身体の、感覚。
窓を、開けた。
春の終わりの、朝の、——少し冷たい風が、入ってきた。
白い薔薇が、咲き始めていた。中庭の、——お母さまが、お好きだった、白い薔薇。
風が、レースのカーテンを、揺らした。
律子は、——薔薇を、見ていた。
……さて。
……お母さまは、——いない。
……最期の言葉。
……「仕返しを、しては、駄目」。
……あれは、調停の言葉。
……お母さまは、何かと——闘っていた。
……何と、闘って、いたかは、——まだ、分からない。
……ここで、——一緒に、泣き続けるのは、プルデンティアの、お仕事。
……でも、私は、——四十三歳の、弁護士の記憶をもっている。
……一緒に、——泣いている、わけにはいかない。
……お母さまが、完成できなかったお仕事を、——引き継ぐ。
……それが、たぶん、——私が、ここに、いる、——意味。
律子は、——軽く、頷いた。
……お母さまは、
……溢れるような愛情を、私一人に注いでくださった。
……それは、私が前世で望んで得られなかった、夢のような時間。
……私に、——そのお礼をさせて下さい。
◇
律子は、——机に、近づいた。
新しい紙を、一枚、机の上に、広げた。羽根ペンを、取った。
……まず、目録から。
……前世の、私の癖。
……どんな案件も、目録作りから、始まる。
律子は、紙の上に、書き始めた。
「お父様からの、事情聴取」
「お母さまの、お部屋の、——調査」
その下に、——
「文机、書架、衣装部屋、引き出し、——」
律子の手は、——少し、震えていた。しかし、止まらなかった。
弁護士として働いた十五年、——同じ、手の動き。
案件を、受任した、その朝の、——目録の、書き出し。
……私の、——この世界の最初の、依頼人は、——お母さま。
……お引き受け、申し上げます、お母さま。
影が、机の脚の下で、——静かに、立っていた。
◇
その時、
くうー。
と小さな音がした。自分のお腹から。十三歳の体からでる可愛い音。
律子は笑った。
……それはそうだ。昨日は泣きとおしで、何も食べていない。体は正直ね。
律子は、机から、立ち上がろうとして、——軽く、首を、傾けた。
……あら。
……朝の、お仕度に、メイドが、——来ない。
……いつもなら、——「お嬢様、お目覚めですか」と、——声を掛けてくださる、——時刻。
律子は、窓の外を、見た。
日は、——既に、——高かった。
……朝食の時間は、——とうに、過ぎている。
……でも、——誰も、——見に来ない。
……変ね。
律子は、——立ち上がった。
寝衣の上から、——薄い、黒の、部屋着を、羽織った。
影が、——足元から、立ち上がった。
律子は、——気づかなかった。
◇
扉を、開けた。
廊下に、出た。
午前の光が、廊下の石床に、——長く、伸びていた。
誰も、——いなかった。
律子は、——廊下を、歩き始めた。
黒い、——部屋着の裾が、——静かに、揺れた。
……お屋敷の、朝の時間。
……ふつうなら、——メイドたちが、廊下を、忙しく、通って、いく時間。
……お洗濯物、お掃除、朝食の片付け、——いろいろ。
……でも、——誰も、いない。
律子は、——階段に、着いた。
階下を、——覗き込んだ。
下の階の、——玄関ホールの、奥から、——メイドたちの、声が、——聞こえてきた。
「——喪服を、——明日も、お出ししますか」
「——閣下から、——喪は、当面、続ける、——と言われていますよ」
「——わかりました」
ふつうの、——お屋敷の声。
……あら、——皆、——お仕事を、続けている。
……でも、——私の、お部屋には、——見えなかった。
……何かしら。
律子は、——階段を、降り始めた。
◇
階段の中ほどで、——一人の、メイドと、——すれ違った。
若い、メイドだった。両手に、洗濯物の籠を、抱えていた。律子の、——黒い喪服の、——洗濯物が、混じっていた。
メイドは、——階段を、上がってきた。
律子と、——目が、合った。
……合った、——はず。
しかし、メイドは、——律子を、見ずに、——通り過ぎた。
……あら。
……今、——目が、合った、——はず。
……いえ、——忙しいから、会釈、できないだけ、かも。
律子は、——階段を、もう少し、降りた。
◇
玄関ホールに、——着いた。
メイドたちが、——三人、——お屋敷の、話を、している。
律子は、——五歩、ほど、離れた、ところに、立っていた。
メイドたちは、——律子の方を、——見ない。
「——奥様があんなことになるなんて」
一人の、年配のメイドが、言った。
……あら、——マルチェッラ。
……お屋敷で、一番、——古い、メイド。
……お母さまの、お話をしている。
「ねぇ、本当に。——私は、よそのお屋敷勤めも長いけれど、あんなにお優しい貴族の方には、お会いしたことがございません」
「そうそう。ご聡明で、お美しいのに、少しも気取らず、気さくで」
……お母さまは、——みんなにも愛されていた。
……それは嬉しいけれど、——私が見えないのかしら。
……ここに、——立っているのに。
「——閣下も、——お可哀想です」
別の、メイドが、——目元を、押さえた。
律子は、——五歩、離れた、ところに、立っていた。
メイドたちは、——気づかない。
……あら。
……あら、あら。
……私、——本当に、お見えに、なっていない?
律子は、——少し、首を、傾けた。
……試してみましょうか。
律子は、——軽く、息を、整えた。
メイドたちの方に、——半歩、近づいた。
「——おはよう」
声に、出した。
「——ヒッ!」
一番、近くにいた、メイドが、——飛び上がった。お洗濯物の籠が、——少し、傾いた。
「お、——お嬢、——」
彼女は、——目を、見開いた。
「お嬢様!」
他の、メイドたちも、——一斉に、振り返った。
「お、——お嬢様!」
「お嬢様、——いつから、——そちらに?」
「お、お部屋から、——お出ましに、なって、——?」
「ご、ご無事で、——!」
……あら、あら、あら。
……皆、——お驚きに、なって。
……いえ、——お驚きどころか、——お顔が、青い。
……お幽霊でも、お見えに、なった、——お顔。
……あら、私、——お幽霊、——みたい?
「お、お嬢様、——失礼を、——お赦しください」
一人の、メイドが、——慌てて、頭を、下げた。
「——お部屋から、お出ましに、なるのが、——分からなくて、——」
「いえ、——」
律子は、——軽く、笑った。
「廊下を、——歩いて、参りましたのに、——気づいて、いただけませんでしたわ」
「——え?」
メイドたちが、——顔を、見合わせた。
「お廊下を、——お通りに、なりましたの?」
「ええ」
「——いつ、お通りに、なったので、ございましょう」
「——たった今、——少し前」
「……」
メイドたちは、——困惑した、顔を、していた。
……皆、——本当に、——お見えに、ならなかったみたい。
……何かしら、——これ。
……不思議。
◇
その時、
くうー。と小さな音がした。
マルチェッラが——はっとして顔を上げ、律子に、——近づいた。
「お嬢様、——お朝食がまだでございますね」
「マルチェッラ」
「——お痩せに、なって、——」
マルチェッラは、——目元を、押さえた。
「——お元気な、——お声を、——お聞きして、——安心いたしました」
「……」
「——お朝食、——お好きなものを、——ご用意、いたします」
「ありがとう、マルチェッラ」
律子は、——軽く、笑った。
マルチェッラの目元が、——濡れた。
……あら。
……お泣きに、なっている。
……喜んで、——お泣きに、なっている。
律子の目元も、——少し、潤んだ。
律子は、——庭の見える部屋に、——歩き始めた。
メイドたちが、——後ろから、——お見送りしている。
律子の足元、——影が、——一緒に、歩いていた。
……今のは、——たぶん、——
……いえ、——分からない、——けれど。
……あの日、——お母さまが、——倒れた時、——私の、影が、動いた。
……あの時、——たぶん、——魔法を使ったのだろう。
……魔法を、使うと、——何かが、——変わる。




