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第18話 侯爵令嬢、二つの人生が一つになる


 涙の向こうで、律子の意識がふと過去を辿っていた。


 ……私の、十三年間。

 ……別の名前で、別の親に愛されて、生きた——もう一つの人生。

 ……他人の人生では、ない。

 ……これは、私の人生だった。


 ◇


 最初の記憶は、母の腕の中で目覚めた朝。


 二歳。三歳。


 寝台の上で眠っている私の頬を、母が撫でていた。


「プルー、おはよう」


 母の声。優しい声。


「私のプルー」


 ……前世では、思い出せない、声。

 ……私を、私のまま呼んでくれる、声。


 四歳。五歳。


 父の書斎で、膝の上に乗せてもらった。厚い、法律の本。


「お父さま、これ、読めません」


「いつか、読めるように、なりますよ」


 父の低い声。優しい声。


 ……私を馬鹿にしない、声。


 ◇


 六歳。


 池の傍で。おたまじゃくしをバルナバス様に仕掛けた、日。あの誕生会。百匹の蛙が跳ねた、日。


 夜、母の書斎で。母が私に聞いた。


「驚かせようとする人に、驚かせ返すと、どうなるのかしら」


「……」


「蛙の次は、蛇、その次は、怖い犬」


「それを、続けていくと、いつか、誰かが、死ぬわ」


「家と家の、争いって、——そういうものなの」


 六歳の私は、黙って聞いていた。母の言葉が、身体の深いところに染み込んだ。


 あの時は、良く分からなかった。


 今は、分かる。


 ……あれは、私が家事事件の現場で、何度も見たことだった。

 ……家と、家。親と、子。夫と、妻。

 ……報復の連鎖。

 ……誰かが止めなければ、誰かが死ぬ。

 ……六歳の私に、お母さまはそれを教えてくれていた。


 ◇


 七歳。


 父親に尋ねた。


「どうして、女の子は、お家を、継げないのですか」


 父が答えに詰まった。ペトルス先生も答えに詰まった。


「制定時の根拠が、消滅した後も——法は、なお、効力を、持つべきか」


 古典的な法哲学の問題。


 七歳の私は無邪気に聞いていた。


「法の安定性というのは、——今、持っている人の安定性では、ないでしょうか」


 先生が固まった。


 九歳。ペトルス先生と論文を書き始めた。


 十歳。論文が完成した。


『古代法における嫡男相続原則の起源についての一考察——家長権の歴史的構成と、子女の相続的地位の法的性格について』


 ペトルス先生は目を潤ませた。


「私が、お嬢様にお教えすべきことは、もう、ございません」


 律子の意識は、その記憶の中でふと立ち止まった。


 ……あれ?

 ……あの論文。


 大学四年の卒論。


『明治民法における家督相続制度の歴史的考察——家父長権と女子の相続的地位』


 ……これって、——私の卒論じゃない。


 律子は濡れた目元のまま、天井を見ていた。


 ……あの十歳の論文。学界が驚愕した論文。

 ……あれは、私が天才だったから書けたのでは、ない。

 ……私はただ、別の時代の問題意識を持ち込んだだけ。

 ……二十一世紀の女性が書いた卒論を。

 ……十歳の身体で書いただけ。

 ……ペトルス先生が「十世代の議論の最も鋭い一角」と評したもの。

 ……あれは、百年後には当たり前になる、問題意識。

 ……私は、天才では、ない。

 ……私は、越境者だった。


 ◇


 律子の意識が、静かに辿り着いた。


 ……お母さまは、いつも、私の側にいた。

 ……私が何かを感じる前に。

 ……その先にいた。

 ……私の魂を、最初から見ていた人。


「素直で、結構ですわ」


 あの母の口癖。


 ……前世の母は、「お利口」と評価した。

 ……今世の母は、「素直」と肯定した。

 ……評価ではなく——肯定。

 ……私の魂のありようを、丸ごと認めてくれる人。


 ◇


 律子は目を閉じた。


 ……私はずっと、私だった。

 ……別の名前で。

 ……別の親に、愛されて。

 ……別の身体で。

 ……同じことを考えていた。


 ……そして、その私を丸ごと肯定してくれた人が、——お母さまだった。


 ……私の魂を、初めて見つけてくれた人。


 ……四十年生きて、前世の誰にも見つけてもらえなかった、私。

 ……その私を、見つけてくれた人。


 ◇


 ああ。


 律子は気づいた。


 ……母を失ったのは、プルデンティアだけ、ではなかった。

 ……律子も、失った。


 ……四十三年、前世で待ち続けて。

 ……今世で、十三年、ようやく出会えて。

 ……そして、奪われた。


 ……自分の魂を、初めて見つけてくれた人を。


 涙が深くなった。胸の痛みが、別の深さに達した。


 寝台の上で、少女はずっと動かなかった。


 ◇


 数日後の朝。


 プルデンティアは黒いドレスを着ていた。侍女がプラチナブロンドの髪を丁寧にまとめている。黒いヴェール。黒い靴。


 鏡の中に、十三歳の侯爵令嬢がいた。大人びた顔だった。数日で子供の顔が抜け落ちていた。


 涙の跡は、なかった。昨夜のうちに流れ尽くしていた。

 

 ◇

 

 馬車の中。


 父と並んで座った。父も黒い礼装。長い外套。顔は青白かった。しかし、目元は乾いていた。


 律子の弁護士の目が、見ていた。


 ……お父さまは、泣いていない。


 ……泣けないんじゃない。最初から、泣くことを自分に許していないんだ。


 ……なぜ?


 まだ、その意味は完全には理解できなかった。


 馬車の車輪の音だけが、石畳の上を走っていた。父娘は一言も話さなかった。


 ◇

 

 王都の大聖堂。


 白い石の壁。高い尖塔。鐘が低く鳴っていた。大きな扉が開いている。中に、多くの人々が集まっていた。


 セルヴィア法王国の貴族たち。聖職者たち。商会の関係者。


 母の交友関係を、プルデンティアが初めて広く見る場だった。


 父に手を引かれて、白い大理石の通路を進んだ。最前列の座席。白い棺が祭壇の前に置かれていた。


 白い百合の花。たくさんの、白い百合。


 母が、その花の中にいる。


 ◇


 司祭が祭壇の前に立った。長い黒の典礼服。胸に金色の聖印。


 司祭の声が、大聖堂の高い天井に響いた。


「主は、与え、主は、奪う」


「主の、御名は、讃えられよ」


 セルヴィア式の、古い葬送の祈り。参列者が一斉に頭を垂れた。


 律子の意識は、祈りの言葉を聞きながら別のことを考えていた。


 ……弁護士の癖。悲しみの底でも、観察を止められない。


 参列者の顔。


 ……過剰に取り乱す夫人。

 ……不自然に静かな聖職者。

 ……視線を棺ではなく、父クラウディウスに向けている商人。

 ……汗を拭く頻度が、常識より多い貴族。


 律子の頭の中で、勝手にメモが取られていく。名前は分からない。顔だけ覚えた。


 ……いつか役に立つかもしれない。

 ……職業病、——どうにもならないわね。


 律子は自分の癖に少しだけ嫌気がさした。しかし、止められなかった。

 

 ◇


 司祭の祈りが続いていた。


 律子の視線が、参列者の後方に流れた。


 ……あ。


 意識が止まった。


 後方の座席。黒いヴェールの奥に、栗色の巻き毛が僅かに覗いていた。大きな緑の瞳が、プルデンティアを見ていた。


 ……キアラ。


 ロッセリーニ家の両親と一緒に来ていた。キアラの目に、深い悲しみがあった。プルデンティアの悲しみを、自分のことのように感じている目。共感力の高い、あの子の目。


 二人の視線が一瞬、交わった。言葉はなかった。プルデンティアは思わず、少しだけ頷いた。キアラも少しだけ頷いた。それだけで、伝わった。


 律子の意識は息を整えた。


 ……あの子がいる。

 ……あの子は、プルデンティアの友達。

 ……前世の私に、いなかった誰か。

 ……私の魂を見つけてくれた、もう一人の人。

 ……お母さまが遺してくれたもの。


 律子は視線を棺に戻した。


 ◇


 葬儀が終わった。棺が運ばれていく。白い百合の花が揺れた。参列者が立ち上がった。


 父がプルデンティアの手を引いた。その手は温かかった。しかし、震えていなかった。


 ……お父さまは、震えていない。涙も流していらっしゃらない。


 ……最初から、それを自分に許していないのね。


 ◇


 屋敷に戻った。


 応接室で、お悔やみを受けた。貴族たち、聖職者たち、商会の人々が次々と訪れた。


 プルデンティアは父の隣で静かに立っていた。子供が立つ場所ではなかったかもしれない。しかし、母の一人娘として、立たねばならなかった。


 律子の意識が、プルデンティアの身体を支えていた。令嬢の所作。淑やかな会釈。律子が前世で知らなかった所作を、プルデンティアは知っていた。


 ……二人で一つの令嬢を演じている。


 ◇


 ロッセリーニ家の番になった。


 商家系の堅実な一族。キアラの父が、父クラウディウスと短く挨拶を交わした。キアラの母が、プルデンティアの前で軽く頭を下げた。


「——お悔やみを、申し上げます」


 定型の言葉だった。しかし、その声の奥に重みがあった。


 プルデンティアは会釈を返した。


 そして、キアラが目の前に立っていた。


 黒いドレス。黒いヴェール。その下から、栗色の巻き毛が覗いていた。大きな緑の瞳。涙で濡れていた。


 プルデンティアの前に立った。しばらく黙っていた。それから口を開いた。


「プルー」


 一言だった。


 その一言で、プルデンティアの身体が少しだけ震えた。律子の意識が一瞬、戸惑った。


 ……どう応えていいか。


 記憶として知っている。この子はプルデンティアの友達。頬を引っ張り合って、げらげら笑った仲。


 ……四十三歳の弁護士の意識が、十三歳の少女との友情に、——どう向き合えばいいか。


 戸惑いの一瞬。その間に、——


 キアラがプルデンティアを抱きしめた。ぎゅっ、と。子供のような強さで抱きしめた。


 プルデンティアの身体が抱きしめ返した。律子の意識が、抱きしめ返すまでにほんの少し遅れた。


 しかし、身体は知っていた。この抱きしめ方を。この子の髪の匂いを。この子の肩の温度を。


 律子の意識が、身体に追いついた。


 ……ああ。

 ……この子も、私を見ている。

 ……プルデンティアを、本当に、見てくれている。


 律子の魂の奥で、何かが温かくなった。


 ……四十三年、誰にも見られたことのなかった、私。

 ……その私の魂を、お母さまの次に見つけてくれた、もう一人の人。

 ……お母さまが遺してくれた人。


 プルデンティアはキアラの肩に顔を埋めた。涙が一筋、流れた。声は立てなかった。ただ、涙だけが流れた。


 キアラも何も言わずに抱きしめ続けた。二人の肩が少しずつ震えていた。


 ◇


 しばらくして。


 キアラが身を離した。涙を拭いた。そして、プルデンティアの手を取った。


「プルー」


「……」


「少し、歩こう」


 プルデンティアは頷いた。


 ◇


 屋敷の庭。


 春の終わりの午後の光。薔薇の蕾が膨らみ始めていた。


 二人で並んで歩いた。無言で歩いた。石畳の音だけが響いた。


 しばらく歩いて、キアラが口を開いた。


「言葉は、いらないでしょ」


「……」


「——いらないわよね」


「……ええ」


 プルデンティアは掠れた声で答えた。キアラはプルデンティアの手を握った。ぎゅっ、と。プルデンティアも握り返した。


 二人で薔薇の蕾の傍に立っていた。風が少しだけ、二人のヴェールを揺らした。


 ◇


 律子の意識が、静かに考えていた。


 ……この子は共感力が高い。

 ……もしかしたら、いつもと違う何かを感じ取っているかもしれない。

 ……でも、この子は何も聞かない。

 ……ただ、側にいてくれる。

 ……それだけで、救われる。


 そして、律子は気づいた。


 ……この子に、私は言えない。

 ……私が二人で一人だ、ということを。

 ……前世の四十三年の人生を持っていることを。

 ……卒論を書いたこと、を。

 ……コンビニで刺されたこと、を。

 ……乙女ゲームのコレクションが家にあったこと、を。


 ……今は、言えない。でも、何時か、言わなくちゃ。


 律子はキアラの手を握り続けた。キアラはただ、側にいた。春の終わりの風が吹いた。


 ◇


 ロッセリーニ家が帰る時間になった。


 馬車の前で、キアラがプルデンティアの肩を軽く叩いた。


「また、来るわね」


「……うん」


「——いつでも、来るから」


「……ありがとう」


 馬車が走り出した。プルデンティアは馬車が見えなくなるまで、門の前に立っていた。律子の意識も、一緒に立っていた。


 ◇


 夜。


 父が書斎にプルデンティアを呼んだ。


「プリュ」


「……はい、お父さま」


 父は机の前に立っていた。ランプの光が父の横顔を照らしていた。


 父はプルデンティアに近づいた。そして、何も言わずに抱きしめた。


 大きな腕が、十三歳の娘を包んだ。しばらくそのままだった。言葉はなかった。涙もなかった。ただ、父の抱擁の強さがすべてを語っていた。


 ……お父さまは、何かを知っている。

 ……でも、それを口にはされない。

 ……なぜ?

 ……まだ、分からない。

 ……ただ、この抱擁の強さが、その理由を隠している。


 しばらくして、父は身を離した。言葉なく、プルデンティアの髪を一度だけ撫でた。そして、書斎の机に戻った。


 プルデンティアは一礼して書斎を出た。


 ◇


 寝室に戻った。


 黒いドレスを脱いだ。寝衣に着替えた。寝台に身を横たえた。


 窓の外で、夜の風が吹いていた。


 律子の意識が、天井を見ていた。


 今日、一日。葬儀。キアラ。父の抱擁。


 ……たくさんのものを見た。たくさんの感情を知った。


 しかし、——


 ……お母さまは、いない。


 その事実だけは、変わらない。


 涙はもう流れなかった。ただ、胸の奥で、二つの悲しみが静かに眠っていた。


 寝台の脇で、影がうずくまっていた。昨夜と同じ形で。しかし、少しだけ濃くなっていた、気がした。


 律子は気づかなかった。ただ、目を閉じた。

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