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第17話 侯爵令嬢の、前世の記憶


 夜。セヴェリーニ侯爵邸の門で、かがり火が焚かれていた。


 赤い、揺れる炎が、石畳の上に長い影を伸ばしている。


 家来たちが屋敷の周囲に立っていた。銃を構えている。肩に重い、長い銃身を預けて。


 普段は見せない武装だった。


 侯爵邸は、昨日とは別の顔をしていた。


 ◇


 屋敷の中は静かだった。


 廊下にランプの光。執事の足音が時々聞こえる。


 二階の奥まったプルデンティアの寝室。寝台の上で、十三歳の少女が眠っていた。


 蝋燭の淡い光が、寝台の側で揺れていた。


 少女の顔は青白かった。額にわずかな汗。眉が時々寄った。


 ——夢を見ていた。


 ◇


 夢の中。


 それは、ある夏の日。


 居間ではカラカラと音を立てて扇風機が回っていた。夕方の光がガラス戸から差し込んでいた。


 ソファに、母が座っていた。膝の上に小さな妹。母は絵本を開いていた。優しい声で読み聞かせている。


 妹は母の腕の中で、愛想よく、にこにこ笑っていた。


 その少し離れたダイニングテーブルの椅子に、もう一人の子供がいた。


 幼い頃の律子だ。


 机の上にノート。漢字の練習をしていた。姿勢はまっすぐ。鉛筆の握り方も正しかった。


 しかし、誰も彼女を見ていなかった。


 母は絵本を読んでいた。妹は母の腕の中で笑っていた。


 ふと、母が顔を上げた。律子の方を見た。そして、首を傾げた。


「律子は」


「お勉強ばかり、ねえ」


 それだけだった。


 母はまた絵本に戻った。妹に優しい声で読み聞かせを再開した。


 律子は鉛筆を止めなかった。漢字を書き続けた。


 ただ、少し字が強くなった。紙がわずかに凹んだ。


 ◇


 ——可愛げが、ない。

 ——でも、お利口。

 ——女の子は、もっと愛嬌がないとね。

 ——お勉強ばかりしていても、ねえ。


 母の声。何度も、何度も聞いた。


 悪意はなかった。ただ、母には律子が見えていなかった。膝の上の妹だけが見えていた。


 律子は黙って勉強した。むきになって勉強した。


 ——良い成績を取れば。良い学校に行けば。

 ——いつか、見てもらえる。


 そう信じて。


 しかし、


 ——あの娘は可愛げがない。

 ——自分だけ賢いと思っている。


 周囲はそう言った。


 律子は——


 ◇


 ふっと、目が覚めた。


 天井が見えた。見慣れない天井だった。


 いや、見慣れた天井。プルデンティアの寝室の、古い木の天井。


 蝋燭の光が揺れている。


 ……ここは。


 身体が重かった。腕が、母の重さをまだ覚えていた。肩が、血の匂いをまだ覚えていた。


「……お母さま」


 声が出た。掠れた声だった。


 少女は辺りを見渡した。寝台の側に誰もいなかった。


「……お母さま?」


 もう一度呼んだ。返事はなかった。


 そして、思い出した。


 ◇


 お母さまが刺された。白い大階段の上で。血がお母さまのドレスを染めていた。


 お母さまが、私の腕の中で息を引き取った。


 ——蛙のお話を思い出して。仕返しをしては駄目よ。


 少女は息を止めた。


 胸が痛かった。身体の中に大きな空洞があった。


 母がいない。二度と会えない。


 朝の食堂で紅茶を注いでいた、母。「私のプルー」と呼んでくれた、母。抱きしめてくれた、母。絵本を読んでくれた、母。


 涙が目の端から流れた。止めようと思わなかった。止まる気がしなかった。


 ◇


 ……ああ。


 少女の心の中で声がした。律子の声だった。


 ……終わって、しまった。


 何が終わったか。


 律子の人生で、——一度だけ得られたもの。


 母に愛されること。膝の上に抱かれること。「私のプルー」と呼ばれること。絵本を読んでもらうこと。


 幼い日に味わいたかった、すべてのこと。


 それを、今世で得た。十三年間、得続けた。


 そして、奪われた。


 ……前世で、求めて、得られなかった。

 ……今世で、得て、奪われた。

 ……二度、失った。

 ……二度目の人生で、また、愛を失った。


 胸が痛い。涙が止まらない。


 少女は寝台の上で、静かに泣いていた。声を立てなかった。


 ……子供の頃、声を立てて泣いても、誰も来なかったから。


 その癖が、前世から残っていた。


 ◇


 ふと、視線が落ちた。


 寝台の側。蝋燭の光が床に影を落としていた。


 寝台の影。机の影。そして、少女自身の影。


 ——うずくまっていた。


 少女の影が、寝台の脇の床の上で丸まっていた。膝を抱えるように。頭を垂れるように。


 少女自身は、寝台の上で仰向けに寝ていた。身体の向きと、影の向きは別々だった。


 少女はぼんやりと、それを見つめた。


 涙の向こうで、影がうずくまっていた。


 ……それが自然なことに思えた。

 ……これが、私の影。


 視線が天井に戻った。


 少女は、まだ頭がぼんやりしていた。しかし、どこかで思考が動き始めた。


 ……弁護士の、思考の癖。

 ……悲しみの底でも、状況の整理を始めてしまう。


 ……私は転生した。

 ……コンビニで刺された。

 ……そして、別の世界の、別の身体で目を覚ました。

 ……十三歳。

 ……侯爵令嬢。

 ……プルデンティア・セヴェリーニ。

 ……セルヴィア法王国。

 ……魔法のある世界。


 ……うん。整理はできた。


 次の思考に進もうとした、その時。


 ふと——


 死の直前の、自分の最後の思考が蘇った。


 ナイフが刺さって。息ができなくなって。その最後の瞬間に、自分が何を思ったか。


 ——家の本棚、誰か片付けて。


「……」


 少女は濡れた目元のまま、額に手を当てた。ぺちっ、と軽く叩いた。


 ……あちゃー。


 ……乙女ゲームのコレクション。

 ……壁一面の棚に並べた、歴代のプレイタイトル。

 ……誰にも見せられない、四十代の独身弁護士の秘密の趣味。

 ……あれを、どうにかして、と最期に思った。

 ……今頃、親族の誰かが見つけて、絶句しているだろうか。

 ……叔母か。あるいは、不動産屋か。


 ……どうしよう。

 ……いや、もう、どうしようもない。


 涙の濡れた目元のまま、少女は額を押さえていた。


 ◇


 しかし、——その瞬間に。


 律子の脳が、別のことを繋げた。


 乙女ゲームのコレクション。歴代のプレイタイトル。


 学院、公太子、攻略対象、断罪イベント——


 ……あれ?

 ……もしかして。

 ……私、乙女ゲームの世界に生まれ変わった?


「……」


 少女は少し首を傾げた。涙の濡れた目元のまま、天井を見ていた。


 でも、——


 ……主人公は、平民出身、なんだよね。

 ……ヒロインは、奨学金で学院に来る、平民の女の子。

 ……私、侯爵令嬢、なんだよね。

 ……お父様、侯爵。お母様、侯爵夫人だった。

 ……貴族、なんだよね。


 ……うん。

 ……じゃあ、主人公では、ない。


 ……お友達の役かな。

 ……ヒロインを応援する、優しい貴族令嬢。

 ……よくいる、サブキャラ。

 ……そんなところか。


 ◇


 もう少し、思考が進んだ。


 ……乙女ゲームの舞台は、魔法学院。

 ……ということは。

 ……もう少しすると、私、魔法学院に行くんだ。

 ……乙女ゲームの定型では、攻略対象たちと属性魔法を学ぶ。

 ……炎、水、雷、光、闇——色々ある。

 ……私の属性は、——


 ふと、思い出した。


 あの階段。お母さまが刺された、あの瞬間。影が伸びた。刺客たちを縛った。


 ……あれは、魔法だった。


 そして、たった今。寝台の脇の床の上で、影がうずくまっていた。


 ……あれも、影。


 ……ああ。

 ……私のは、影の魔法、なんだな。


 少女はぼんやりとそれを確認した。悲しみの中で、情報が一つ整理された。

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