第16話 侯爵令嬢、召喚される
その日の夕方のこと。
遠くアルカディア公国の、ある古書店の窓辺に、一人の紳士が立っていた。
外見は、五十代に見える。中背、痩せ型。白髪混じりの髪を後ろに撫でつけている。目尻に深い皺があった。
窓枠に片手を置いていた。
——その手のひらだけが、不自然に若かった。
紳士は窓の外を見ていた。
「あなたは」
と、紳士は低く呟いた。
「今、——どこに、いるのでしょう」
誰にも届かない問いだった。しかし、彼は毎日のように、その問いを口にする。
もう、十三年間——その問いを口にしていた。
◇
紳士はぼんやりと窓の外の夕暮れを見ながら、頭の中で記憶を辿っていた。
——あれは、十三年前のある春の日のこと。
彼は賢者学府「テミス・アルカナ学院」の中庭に導かれた。アルカディアの数ある魔法学院の中の最高峰。その学院の事務員が告げた。
「あちらが、十二歳で入学を認められた特殊例外、——召喚魔法を持つ娘です」
明るい午後の光の中。ある中庭に、十二歳の少女が立っていた。
澄んだ瞳。風に揺れる、明るい色の髪。
少女の周りで、何かが戯れるように舞っていた。他の人には見えないものが、少女には見えている。
紳士は息が止まる気がした。長く探し続けて来た人が、目の前にいた。
「お嬢さん」
「うん?」
「ちょっと、お話をしても良いですか」
「いいよ」
少女は素直に頷いた。
◇
校舎の一室で、紳士は淡々と語り始めた。
「ある人を召喚して欲しいのです」
少女はそれを聞くと、即座に首を振った。
「人を召喚するのは無理だよ。そんな大きな物を呼ぼうとすれば、逆に、私が引きずりこまれてしまう」
紳士は頷いた。
「それは分かります。でも、以前に、引き込まれずに、遠い世界から人を召喚することに成功した方がいます。その召喚者は国を救いました」
「どうやって?」
「これです」
紳士は一冊の分厚い本を差し出した。
『地下室の湿気が壁に描く紋様の、動物形態への類似性と、その塩分濃度の計測本 第三巻』
少女が目を丸くする。
「何、この本、——一体、誰が読むの?」
「そう、誰も読まないから良いのです」
紳士が本を開くと、中央部がくりぬかれて、その底に蝋の塊のようなものが鎮座していた。蝋の中から淡い光が漏れている。。
「これは魔導物質アルカーナム」
少女も、その光に見入った。
「魔法の触媒。魔法を増幅し、副作用も消し去る。でも、使えば消滅する。とても大切なものです」
「凄い……」
「僕はある人にこれを託された。将来、召喚魔法使いが現れたら、この世の中を救える人物を召喚してもらうために」
「どんな人?」
紳士は頷いた。何度も、自分の中で繰り返してきた話だった。
「最近の、世の中はね……」
◇
紳士の説明は続いていた。
「だから、暴力じゃなくて。——手続きで社会を整えられる人が必要なんだ。例えば……」
少女は軽やかに彼を遮った。
「そんな、回りくどい説明は、いらないよ」
「……」
「私は、分かっている」
「……」
「あなたが、どんな人を呼びたいのか」
純粋な瞳だった。計算がなかった。
紳士は息を呑んだ。
ずっと論理で辿り着こうとしてきたものが、目の前の十二歳の少女には、最初から分かっていた。
「……分かったよ。君に託そう」
紳士は、蝋で固められたアルカーナムを少女の手に載せた。少女は両手でそれを受け取った。
「ありがとう」
◇
中庭に戻ると、少女はアルカーナムの栓をそっと抜いた。
中の小さな結晶が、ふっと息をするように光を帯びた。
少女の周りに、変化が起きた。
——精霊たちが、集まってきた。
いつも少女と戯れている、小さな光の粒たち。それだけではなかった。普段、姿を見せない、もっと多くの存在が、——どこからともなく集まってきた。
無数の光の粒が、少女を囲んだ。
空気が震えていた。目には見えないはずの、歌のような響きが中庭に満ちた。
少女は笑っていた。恐れも力みもなかった。ただ、精霊たちと一緒に、当たり前のことをするように。
少女が両手をゆっくり上げた。光が応えた。
手のひらの結晶から、光の柱が立ち昇った。白くまっすぐに、空へ伸びていく光。
精霊たちが、その光の柱の周りを舞った。嬉しそうに。待ち焦がれていたかのように。
光と精霊たちが一緒に、空へ、空へ——昇っていった。
春の午後の空。白い雲がゆっくり流れている。光は雲に届く前に、星のように、ふっと消えた。
精霊たちは、空の中でしばらく舞っていた。それから、ゆっくり散っていった。
中庭に、再び静けさが戻った。
紳士は立ち尽くしていた。百年、待ったものが、今、目の前で行われた。
少女は、空になった蝋の塊を彼に返した。
「届いたみたい」
「——どこに」
「分からない。どこかに」
「……そう」
「呼びたい人、来てくれた」
少女は軽やかに笑った。
召喚は成った。しかし、——どこに、誰として呼ばれたのかは、分からない。召喚した本人にも分からない。ましてや、彼には想像もつかない。
ただ、——どこかに、呼ばれた者が生まれた。
それだけは、確かだった。
◇
紳士は窓辺に立っていた。夕方の光が少しずつ傾いていた。
「十三年が、経ちました」
「……」
「あなたは、もう、——この世界で、生きている」
「……」
「けれど、僕には、——どこの、誰なのか、知る術がない……」
窓の外で、夕方の鐘が鳴り始めた。
紳士は窓枠から手を離した。不自然に若い手のひらが、夕方の光の中で、ほんの一瞬だけ光った。
誰も見ていなかった。
ただ、——どこか遠い場所で。
春の午後の、王立劇場の白い大階段の上で、母を抱いた十三歳の侯爵令嬢が、意識を失っていた。
その少女と、この紳士を、——まだ誰も結びつけていなかった。




