第15話 侯爵令嬢、目覚める
観劇を、終えた。
観客たちが、ボックス席から、廊下に出て、階段に向かって、移動していった。
コルネリアと、プルデンティアも、その流れに、加わった。
コルネリアが、静かに扇子を開いた。
「お母さま、新しいドレス、皆さま、見てくださっていますわ」
「あら、本当?」
「あちらの、おばさまが、ちょっと、こちらを、見ていらっしゃいました」
「プルーが可愛いから、見ているのよ」
「お母さまだから、ですわ」
「あら」
コルネリアは口元を扇子で隠して笑った。二人で、笑いながら、廊下を、進んだ。
他の観客たちが、二人に、軽く、会釈した。コルネリアが、優雅に、返した。プルデンティアも、母を真似て、軽く、頷いた。
大階段の、入口に、着いた。
外の、午後の光が、扉の向こうから、差し込んでいた。
午後四時の、傾き始めた光だった。
大理石の階段が、長く、伸びていた。階段の下に、いくつかの馬車が、迎えに来ているのが、見えた。
二人は、階段の上に、立った。
「プルー、足元に、お気をつけて」
「はい、お母さま」
コルネリアが、娘の手を、取った。
二人は、最初の一段を、降りた。
階段の上に、二人の影が、伸びていた。
午後の傾いた光が、二人の背中側から、差していた。
影は、階段の下に向かって、長く伸びていた。
◇
階段の中ほど。
観劇を終えた他の観客たちも、二人の前後を、降りていた。
大階段の上下に、二十人ほどの貴族たちが、点在していた。階段の下では、いくつかの馬車が、待っている。
ロドリゴの馬車も、階段の下の、左手に、見えた。ロドリゴが、御者台で、こちらを、見上げていた。
プルデンティアは、ロドリゴに、軽く、手を、振った。
ロドリゴが、嬉しそうに、頷き返した。
その時——
コルネリアが、ふと、足を、止めた。
「お母さま?」
プルデンティアが、母を、見上げた。
母の目が、何かを、見ていた。
階段の下の、左手の、柱の陰に、何かを。
目が、——少しだけ、見開かれ、ぱちん、と扇子が閉じられた。
◇
次の瞬間、——
階段の下から、四つの黒い影が、駆け上がってきた。
黒い、フード付きの、外套。手に、刃物。
動きが、速かった。訓練された、動きだった。
ロドリゴが、馬車から、飛び降りた。
「奥様!」
ロドリゴは、階段を、駆け上がった。
しかし、黒い影たちの方が、速かった。
四人のうちの、一人が、ロドリゴに、向かって、刃を、振るった。ロドリゴが、咄嗟に、避けた。腕に、浅い傷が、入った。ロドリゴが、その刺客と、組み合った。
残りの、三人が、母娘に、迫った。
階段の上で、コルネリアが、咄嗟に、娘を、自分の後ろに、押した。
「プルー!」
母の声が、鋭かった。
プルデンティアは、何が起きているのか、分からなかった。
分からないまま、母の背中に、押された。
母は、両手を、広げて、娘を、庇った。
刺客の一人が、母の前に、達した。
刃が、上がった。
降りた。
刃が、母の腹部に、——入った。
「お、母さま——」
プルデンティアは、声が、出なかった。
刺客が、刃を、引き抜いた。
血が、噴いた。
深い緑色のドレスに、黒い染みが、広がった。
母の身体が、ゆっくりと、傾いた。
扇子が階段へ落ちた。
プルデンティアは、母の身体を、後ろから、支えた。
母は、立っていた。
刺された後も、まだ、立っていた。
娘を、庇って、立ち続けた。
◇
残りの、二人の刺客が、プルデンティアを見た。
階段の上では、他の観客たちが、悲鳴を、上げていた。
誰も、動けなかった。
誰も、助けに、来なかった。
しかし、刺客たちはプルデンティアを見ただけで、刃を仕舞った。
踵を返し、立ち去ろうとする。
その時、——
プルデンティアの足元から、影が、伸びた。
午後の光が、長く、影を、引き伸ばしていた。
その影が、——動いた。
階段の上で、影が、滑り、波打った。
刺客たちの、足元の、影に、絡みついた。
黒い、影と、影が、交差した。
プルデンティアの影が、刺客たちの影を、捉えている。
刺客たちが、——固まった。
動こうとしたが、動けなかった。
刺客たちの目が、見開かれた。
驚愕の、目だった。
「な、——」
刺客たちは、自分たちが、何に捕らえられているのか、分からなかった。
ただ、動けなかった。
階段の上で、四つの影と、一つの影が、絡み合っていた。
でも、プルデンティアは、それを、見ていなかった。
彼女の目は、——母を、見つめていた。
◇
「お、母さま——」
プルデンティアは、母の身体を、後ろから、支えた。
母は、まだ、立っていた。
しかし、それも続かなかった。
ゆっくりと、母の膝が、崩れた。
プルデンティアは、母を、抱きとめた。
二人で、階段の上に、座り込んだ。
大理石の、白い階段の上に、母の血が、広がった。
「お母さま、お母さま——」
「プルー」
母の声が、囁くように、聞こえた。
「お母さま」
「……プルー」
母の唇が、動いた。
血が、口の端から、流れていた。
「お母さま、——お話しに、なってはいけません」
「……プルー」
母は、それでも、話そうとした。
息が、苦しそうだった。
言葉が、途切れ途切れ、だった。
「プルー……」
「はい、お母さま」
「……蛙の……お話……」
「え?」
「……思い出して……」
プルデンティアは、母の顔を、見た。
母の目は、まっすぐに、娘を、見ていた。
最後の力で、娘を、見ていた。
「……仕返しを……」
「お母さま——」
「……しては……」
母の声が、途切れた。
息を、吸った。
もう一度、声を、出そうとした。
「……駄目よ……」
その声が、最後だった。
母の目から、力が、抜けた。
しかし、口元は、——微笑んでいた。
「お母さま——」
「お母さま、——お母さま——」
「お母さま!」
プルデンティアの叫びが、階段の上に、響いた。
◇
階段の上で、プルデンティアの影が、震えた。
刺客たちを、捉えていた影が、——緩んだ。
刺客たちは、自分の身体が、再び、動くのを、感じた。
驚愕の目で、互いを、見た。
それから、一人が、叫んだ。
「逃げろ!」
刺客たちは、階段を、駆け降りた。
ロドリゴと組み合っていた、もう一人も、急いで、離れた。
四人の黒い影が、広場の、群衆の中に、散った。
誰も、追わなかった。
◇
プルデンティアは、母を、抱いていた。
母は、もう、息を、していなかった。
深い緑色のドレスが、血で、染まっていた。
プラチナブロンドの娘の髪が、母の頬に、かかっていた。
階段の上で、プルデンティアは、泣き叫んでいた。
「お母さま——」
「お母さま——」
「お母さま!」
声が、嗄れていた。
涙が、止まらなかった。
手が、震えていた。
母の身体は、温かかった。
まだ、温かかった。
しかし、——息が、ない。
階段の上下で、人々が、凍りついていた。
誰も、声を、出さなかった。
ただ、十三歳の少女が、母を抱いて、泣き叫ぶ姿を、見ていた。
◇
ロドリゴが、腕を、押さえながら、階段を、駆け上がってきた。
「奥様!」
ロドリゴが、母の脈を、確認した。
ロドリゴの顔が、——歪んだ。
「奥様……」
ロドリゴは、声を、押し殺した。
十数年、仕えてきた。
いつも、優しかった。いつも、礼を、欠かさなかった。
ロドリゴは、目を、固く、閉じた。
涙が、頬を、伝った。
「お、お嬢様——」
「ロドリゴ」
「はい——」
「ロドリゴ、お母さまが——」
ロドリゴは、自分の腕の傷を、忘れて、ただ、お嬢様の肩に、手を、置いた。
プルデンティアは、母を、離さなかった。
◇
プルデンティアの頭の中で、——
何かが、揺れた。
お母さまが、私を、庇って、刺された。
その思考が、頭の中で、繰り返された。
お母さまが、私を、庇って——
刺された——
刺される——
刺される……?
プルデンティアの頭の中で、何かが、——よろめいた。
刺される、というのは——どういう、感覚?
プルデンティアは、知らないはずだった。
刺されたことなど、ない、はずだった。
しかし、——
しかし、——身体の、奥が、覚えている、気がした。
腹部に、熱いものが、押し込まれる感覚を。
刃が、皮膚を、突き破る感覚を。
血が、体の外に、広がっていく感覚を。
——なぜ、私は、それを、知っているのだろう?
頭の中で、別の場所が、——揺れた。
白い、蛍光灯の光。
夜の、コンビニ。
肉まんの、紙袋。
缶コーヒー。
ナイフを持った、若い男。
「下ろすなら、今しか、ない」
——誰が、言ったの?
——誰が、誰に?
プルデンティアの頭の中で、二つの場面が、揺れていた。
階段の上で、母を抱いている、自分。
コンビニの床で、倒れている、誰か。
——誰?
——倒れているのは、誰?
——私?
プルデンティアの呼吸が、浅くなった。
心臓が、激しく、打った。
「お、お母さま——」
プルデンティアは、母の身体を、抱きしめたまま、呟いた。
母の身体は、まだ、温かかった。
しかし、母の、息は、なかった。
お母さまが、刺された。
——いえ、私も、刺されたことが——
——いつ?
——どこで?
——なぜ、私は、それを、覚えているの?
頭の中で、知らないはずの記憶が、——薄く、浮かんできた。
まだ、形に、ならなかった。
ただ、——浮かんできた。
女の人の声が、聞こえた。
「ねえ、聞いて」
——誰?
——誰の声?
声は、それ以上、聞こえなかった。
ただ、薄く、霞のように、浮かんで、消えた。
プルデンティアは、母を、抱きしめたまま、——固まった。
涙は、まだ、流れていた。
しかし、頭の中の、何かが、——変わり始めていた。
彼女自身、それを、十分には、認識していなかった。
ただ、——身体の、奥で、何かが、目覚め始めていた。
階段の上の、午後の光が、母娘の上に、差し込んでいた。
長い、影が、二人の周囲に、伸びていた。
影は、もう、震えていなかった。
ただ、静かに、二人を、包んでいた。
◇
プルデンティア・セヴェリーニ、十三歳。
母コルネリア・セヴェリーニを、——目の前で、失った。
そして、彼女の中で、——もう一人の自分が、——目覚め始めていた。
まだ、彼女自身、知らなかった。
まだ、誰も、気づいていなかった。
ただ、——春の午後の、王立劇場の、白い大階段の上で、十三歳の少女は、自分にもう一つの人生があったことを思い出し始めていた。




