表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/60

第14話 侯爵令嬢、観劇に行く


 プルデンティア十三歳。


 四月の、ある朝のことだった。


 侯爵邸の、家族用の食堂で、コルネリアが、紅茶を、注いでいた。


 春の朝の光が、大きなガラス窓から、差し込んでいた。テーブルの上に、白い菫の花が、小さな硝子の器に、生けられていた。


「プルー」


「はい、お母さま」


「来週の、火曜日」


「はい」


「お母様と、二人で、お出かけしましょう」


 プルデンティアが、スプーンを、止めた。


「お出かけ?」


「ええ。観劇よ」


「観劇!」


「王立劇場で、新作の喜劇が上演されるの。マチネ公演」


「マチネ?」


「午後の上演のこと。夜より、こちらの方が、お母様は、好き」


「私も、行ってもいいのですか?」


「もちろんよ。お母様と、二人で」


「お父さまは?」


「お父様は、その日、元老院の会議で、お忙しいの」


「では、二人で?」


「ええ」


 プルデンティアの顔が、ぱっと、輝いた。


「行きます! プリュ、絶対、行きます!」


 コルネリアが、笑った。


「素直で、結構です」


「お母さま、何の、お芝居?」


「『パドヴァの、長女の祝い』」


「聞いたことが、ありますわ。家族の、お話ですよね」


「ええ。お父様と、お母様と、三人の娘さんの、家族の、おかしな騒動の、お話よ」


「楽しそう」


「そうね」


 コルネリアは、紅茶を、一口、飲んだ。


 ティーカップを、ソーサーに、戻した。


 静かな音が、した。


「プルー、その日、新しいドレスを、着ていきましょうか」


「新しいドレス?」


「お母様が、誂えていたの。サプライズに、と、思って」


「まあ!」


 プルデンティアが、椅子の上で、ぴょん、と、跳ねた。


 十三歳になっても、嬉しい時の動作は、十一歳の時と、変わらなかった。


 コルネリアが、それを、見ていた。


 ——少しだけ、目を、潤ませた。


 その潤みに、プルデンティアは、気づかなかった。


 ◇


 火曜日。


 観劇の、当日。


 プルデンティアの寝室で、コルネリアが、娘に、新しいドレスを、着せていた。


 淡い、藤色のドレスだった。袖と裾に、白い、繊細な刺繍が、施されていた。襟元に、小さな真珠の飾り。


「まあ、お母さま!」


「素敵でしょう?」


「とても!」


「鏡の前で、回ってご覧なさい」


 プルデンティアは、姿見の前で、くるりと、回った。


 藤色のスカートが、ふわりと、広がった。


 プラチナブロンドの髪が、肩で、揺れた。


 鏡の中の自分は、母の隣に、立っていた。母は、深い緑色のドレスを、着ていた。長い黒髪を、後ろで、ゆるく、束ねている。真珠の首飾りが、白い首元で、控えめに、光っていた。


「お母さま、お綺麗」


「あら、ありがとう」


「プリュも、お母さまと、お揃いになりたい」


「お揃い?」


「黒髪に」


 コルネリアが、少し、笑った。


「プルーの、その色も、綺麗よ」


「でも、プリュは、お母さまの色の方が、好き」


「……そう」


 コルネリアは、娘の頭に、手を、置いた。


 しばらく、撫でていた。


 言葉は、なかった。


 窓の外で、雀が、鳴いていた。


 ◇


 午後一時。


 侯爵邸の、玄関先。


 馬車が、止まっていた。


 御者頭のロドリゴが、馬車の脇に、立っていた。少し、緊張した顔を、していた。


「奥様、本日は、私が、御者を務めさせていただきます」


「ありがとう、ロドリゴ」


「劇場の前まで、お送りし、観劇の間、外で、お待ちしております」


「いつも、ありがとう」


 コルネリアは、ロドリゴに、温かく、微笑んだ。


 ロドリゴが、少しだけ、頬を、赤らめた。


 ロドリゴは、五十歳手前の、寡黙な男だった。セヴェリーニ家に二十年仕えている。妻と、息子が、二人いる。下の息子は、最近、結婚したばかりだった。


 彼は、コルネリアに、深い敬意を、抱いていた。


 奥様は、使用人にも、いつも、礼を欠かさない方だった。


「お嬢様、お母様の手を、お引きください」


「はい!」


 プルデンティアが、母の手を、取った。


 二人は、馬車に、乗り込んだ。


「では、出発」


 ロドリゴが、馬車を、走らせた。


 春の午後の、王都の通りを、馬車が、進んでいった。


 ◇


 馬車の中で、プルデンティアは、窓の外を、見ていた。


 王都の、新緑が、目に、まぶしかった。並木の、若葉が、午後の光を、透かしていた。


 通りには、人が、多かった。商人たち、買い物の婦人たち、子供たち。みな、春の陽気を、楽しんでいる、ようだった。


 コルネリアは、膝の上に閉じた扇子を置いていた。絹地の上品な扇子が彼女によく似合っている。


「プルー」


「はい、お母さま」


「お母様はね、王都が、好き」


「あら」


「色々な人が、色々なことをして、生きている」


「はい」


「皆、それぞれ、忙しいの。それぞれの、人生を、生きているの」


「……」


「お母様は、その姿を、見るのが、好き」


「私も、好きですわ」


「あら、そう」


「皆、それぞれの、お話を、持っているのですよね」


「ええ、その通りよ」


 コルネリアが、娘の頭を、撫でた。


 馬車が、王立劇場の、前の広場に、着いた。


 ◇


 王立劇場。


 大理石の、白い建物だった。前面に、大きな、円柱が、八本、立っていた。建物の入口に向かって、幅広い、優雅な、大階段が、広がっていた。


 階段の上を、観劇に向かう貴族たちが、登っていく。マチネ公演の、開演まで間もなくだった。


 ロドリゴが、馬車を、劇場の脇の、待機所に、止めた。


「奥様、お嬢様、お降り、ください」


 コルネリアと、プルデンティアが、馬車から、降りた。


 春の風が、二人のスカートを、揺らした。


「ロドリゴ、終演は、四時頃の予定です」


「畏まりました。終演前には、こちらに、お待ちしております」


「ありがとう」


 コルネリアは、ロドリゴに、もう一度、微笑んだ。


 それから、扇子を開いた。オリーブの枝の柄が浮かび上がる。そして、別の手で娘の手を、取った。


「行きましょうか、プルー」


「はい!」


 母娘は、大階段を、登り始めた。


 白い、大理石の、階段だった。一段一段が、低く、登りやすかった。階段の両側に、彫刻の施された手摺りが、伸びていた。


 他の観客たちが、二人を、振り返って、見ていた。


 ——あれが、セヴェリーニ侯爵夫人と、お嬢様。


 ——お嬢様、ご立派になられて。


 ——あの方が、論文の。


 ひそひそ声が、聞こえた。


 コルネリアは、何も、聞こえないように、娘の手を、引いて、階段を、登った。


 プルデンティアは、母の手を、握ったまま、登った。


 二人の、繊細なドレスが、午後の光の中で、揺れていた。


 ◇


 劇場の、二階のボックス席。


 セヴェリーニ家に用意された特別席だった。赤いビロードの椅子が、四つ。前面に、低い手摺りが、あった。手摺りの向こうに、舞台が、よく見えた。


 母娘は、並んで、座った。


 舞台の幕が、まだ、降りていた。重い、深紅のビロードの幕。


 観客たちが、ゆっくりと、席に、着いていく。


 会話の声が、ざわざわと、聞こえる。


「お母さま、ボックス席、初めてですわ」


 コルネリアが、ぱちん、と扇子を閉じた。


「あら、そうだったかしら」


「子供の頃に、一度、お父さまに、連れていかれた、気がしますが、覚えていません」


「では、今日が、一回目のようなものね」


「はい」


 プルデンティアは、手摺りに、つかまって、舞台を、覗き込んでいた。十三歳になっても、こういう時の動作は、変わらなかった。


 コルネリアが、それを、見て、穏やかに、笑っていた。


 ◇


 開演の、ベルが、鳴った。


 観客の、ざわめきが、静まった。


 会場の、灯りが、少しずつ、暗くなった。


 舞台の、深紅の幕が、ゆっくりと、上がった。


 舞台の上に、家族の、リビングルームの、書割が、現れた。中央に、大きな、テーブル。両側に、椅子が、四脚。奥に、暖炉。暖炉の上に、家族の肖像画。


 舞台の右手から、父親役の俳優が、新聞を、持って、登場した。


「諸君、聞いてくれ! ついに、我が家の、長女が、嫁ぐ日が、来た!」


 舞台の左手から、母親役の俳優が、エプロンで手を拭きながら、登場した。


「あなた、まだ、お決まりじゃ、ありませんわ。お相手の、お家との、ご相談が、これからですもの」


「いや、私の中では、決まっている!」


 観客が、笑った。


 プルデンティアも、思わず、笑った。


 コルネリアが、娘を、見て、微笑んだ。


「お母さま」


「はい、プルー」


「お父さまに、似ていますわ」


「あら、誰が」


「あの、お父さま役」


「……まあ」


 コルネリアが、口元を、押さえて、笑った。


「クラウディウス様には、内緒よ」


「もちろんですわ」


 二人で、ほんの少しだけ、肩を、揺らして、笑った。


 ◇


 二時間の、公演の間、プルデンティアは、何度も、笑った。


 舞台の上では、長女の婚約を巡って、家族の珍騒動が、繰り広げられた。父親が暴走し、母親が冷静に収め、三人の娘たちが、それぞれの方向で、騒ぎを大きくする。最終的に、長女は、自分が決めた相手と、結婚することになる。家族は、最初は反対するが、長女の幸福を、最終的には、認める。


 幕が、降りた。


 観客が、一斉に、拍手した。


 プルデンティアも、一所懸命、拍手した。


 俳優たちが、何度も、カーテンコールに、応えた。


「お母さま、面白かったですわ」


「ええ、本当に」


「最後、お母さま役の方の、台詞」


「『家族って、結局、どんなに揉めても、家族なのよ』」


「あれ、お母さまも、お考えになりますか」


「……そうね」


 コルネリアは、しばらく、舞台を、見ていた。


 俳優たちが、最後の挨拶を、終えて、幕の向こうに、消えていった。


「家族って、不思議ね、プルー」


「不思議?」


「血が繋がっていても、性格は、違う。考えも、違う。それでも、家族として、繋がっている」


「はい」


「お母様は、お父様と、プルーが、家族で、本当に、よかったと思うわ」


「私もです」


 プルデンティアが、母の手を、握った。


 母も、握り返した。


 会場の灯りが、徐々に、明るくなっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ