第14話 侯爵令嬢、観劇に行く
プルデンティア十三歳。
四月の、ある朝のことだった。
侯爵邸の、家族用の食堂で、コルネリアが、紅茶を、注いでいた。
春の朝の光が、大きなガラス窓から、差し込んでいた。テーブルの上に、白い菫の花が、小さな硝子の器に、生けられていた。
「プルー」
「はい、お母さま」
「来週の、火曜日」
「はい」
「お母様と、二人で、お出かけしましょう」
プルデンティアが、スプーンを、止めた。
「お出かけ?」
「ええ。観劇よ」
「観劇!」
「王立劇場で、新作の喜劇が上演されるの。マチネ公演」
「マチネ?」
「午後の上演のこと。夜より、こちらの方が、お母様は、好き」
「私も、行ってもいいのですか?」
「もちろんよ。お母様と、二人で」
「お父さまは?」
「お父様は、その日、元老院の会議で、お忙しいの」
「では、二人で?」
「ええ」
プルデンティアの顔が、ぱっと、輝いた。
「行きます! プリュ、絶対、行きます!」
コルネリアが、笑った。
「素直で、結構です」
「お母さま、何の、お芝居?」
「『パドヴァの、長女の祝い』」
「聞いたことが、ありますわ。家族の、お話ですよね」
「ええ。お父様と、お母様と、三人の娘さんの、家族の、おかしな騒動の、お話よ」
「楽しそう」
「そうね」
コルネリアは、紅茶を、一口、飲んだ。
ティーカップを、ソーサーに、戻した。
静かな音が、した。
「プルー、その日、新しいドレスを、着ていきましょうか」
「新しいドレス?」
「お母様が、誂えていたの。サプライズに、と、思って」
「まあ!」
プルデンティアが、椅子の上で、ぴょん、と、跳ねた。
十三歳になっても、嬉しい時の動作は、十一歳の時と、変わらなかった。
コルネリアが、それを、見ていた。
——少しだけ、目を、潤ませた。
その潤みに、プルデンティアは、気づかなかった。
◇
火曜日。
観劇の、当日。
プルデンティアの寝室で、コルネリアが、娘に、新しいドレスを、着せていた。
淡い、藤色のドレスだった。袖と裾に、白い、繊細な刺繍が、施されていた。襟元に、小さな真珠の飾り。
「まあ、お母さま!」
「素敵でしょう?」
「とても!」
「鏡の前で、回ってご覧なさい」
プルデンティアは、姿見の前で、くるりと、回った。
藤色のスカートが、ふわりと、広がった。
プラチナブロンドの髪が、肩で、揺れた。
鏡の中の自分は、母の隣に、立っていた。母は、深い緑色のドレスを、着ていた。長い黒髪を、後ろで、ゆるく、束ねている。真珠の首飾りが、白い首元で、控えめに、光っていた。
「お母さま、お綺麗」
「あら、ありがとう」
「プリュも、お母さまと、お揃いになりたい」
「お揃い?」
「黒髪に」
コルネリアが、少し、笑った。
「プルーの、その色も、綺麗よ」
「でも、プリュは、お母さまの色の方が、好き」
「……そう」
コルネリアは、娘の頭に、手を、置いた。
しばらく、撫でていた。
言葉は、なかった。
窓の外で、雀が、鳴いていた。
◇
午後一時。
侯爵邸の、玄関先。
馬車が、止まっていた。
御者頭のロドリゴが、馬車の脇に、立っていた。少し、緊張した顔を、していた。
「奥様、本日は、私が、御者を務めさせていただきます」
「ありがとう、ロドリゴ」
「劇場の前まで、お送りし、観劇の間、外で、お待ちしております」
「いつも、ありがとう」
コルネリアは、ロドリゴに、温かく、微笑んだ。
ロドリゴが、少しだけ、頬を、赤らめた。
ロドリゴは、五十歳手前の、寡黙な男だった。セヴェリーニ家に二十年仕えている。妻と、息子が、二人いる。下の息子は、最近、結婚したばかりだった。
彼は、コルネリアに、深い敬意を、抱いていた。
奥様は、使用人にも、いつも、礼を欠かさない方だった。
「お嬢様、お母様の手を、お引きください」
「はい!」
プルデンティアが、母の手を、取った。
二人は、馬車に、乗り込んだ。
「では、出発」
ロドリゴが、馬車を、走らせた。
春の午後の、王都の通りを、馬車が、進んでいった。
◇
馬車の中で、プルデンティアは、窓の外を、見ていた。
王都の、新緑が、目に、まぶしかった。並木の、若葉が、午後の光を、透かしていた。
通りには、人が、多かった。商人たち、買い物の婦人たち、子供たち。みな、春の陽気を、楽しんでいる、ようだった。
コルネリアは、膝の上に閉じた扇子を置いていた。絹地の上品な扇子が彼女によく似合っている。
「プルー」
「はい、お母さま」
「お母様はね、王都が、好き」
「あら」
「色々な人が、色々なことをして、生きている」
「はい」
「皆、それぞれ、忙しいの。それぞれの、人生を、生きているの」
「……」
「お母様は、その姿を、見るのが、好き」
「私も、好きですわ」
「あら、そう」
「皆、それぞれの、お話を、持っているのですよね」
「ええ、その通りよ」
コルネリアが、娘の頭を、撫でた。
馬車が、王立劇場の、前の広場に、着いた。
◇
王立劇場。
大理石の、白い建物だった。前面に、大きな、円柱が、八本、立っていた。建物の入口に向かって、幅広い、優雅な、大階段が、広がっていた。
階段の上を、観劇に向かう貴族たちが、登っていく。マチネ公演の、開演まで間もなくだった。
ロドリゴが、馬車を、劇場の脇の、待機所に、止めた。
「奥様、お嬢様、お降り、ください」
コルネリアと、プルデンティアが、馬車から、降りた。
春の風が、二人のスカートを、揺らした。
「ロドリゴ、終演は、四時頃の予定です」
「畏まりました。終演前には、こちらに、お待ちしております」
「ありがとう」
コルネリアは、ロドリゴに、もう一度、微笑んだ。
それから、扇子を開いた。オリーブの枝の柄が浮かび上がる。そして、別の手で娘の手を、取った。
「行きましょうか、プルー」
「はい!」
母娘は、大階段を、登り始めた。
白い、大理石の、階段だった。一段一段が、低く、登りやすかった。階段の両側に、彫刻の施された手摺りが、伸びていた。
他の観客たちが、二人を、振り返って、見ていた。
——あれが、セヴェリーニ侯爵夫人と、お嬢様。
——お嬢様、ご立派になられて。
——あの方が、論文の。
ひそひそ声が、聞こえた。
コルネリアは、何も、聞こえないように、娘の手を、引いて、階段を、登った。
プルデンティアは、母の手を、握ったまま、登った。
二人の、繊細なドレスが、午後の光の中で、揺れていた。
◇
劇場の、二階のボックス席。
セヴェリーニ家に用意された特別席だった。赤いビロードの椅子が、四つ。前面に、低い手摺りが、あった。手摺りの向こうに、舞台が、よく見えた。
母娘は、並んで、座った。
舞台の幕が、まだ、降りていた。重い、深紅のビロードの幕。
観客たちが、ゆっくりと、席に、着いていく。
会話の声が、ざわざわと、聞こえる。
「お母さま、ボックス席、初めてですわ」
コルネリアが、ぱちん、と扇子を閉じた。
「あら、そうだったかしら」
「子供の頃に、一度、お父さまに、連れていかれた、気がしますが、覚えていません」
「では、今日が、一回目のようなものね」
「はい」
プルデンティアは、手摺りに、つかまって、舞台を、覗き込んでいた。十三歳になっても、こういう時の動作は、変わらなかった。
コルネリアが、それを、見て、穏やかに、笑っていた。
◇
開演の、ベルが、鳴った。
観客の、ざわめきが、静まった。
会場の、灯りが、少しずつ、暗くなった。
舞台の、深紅の幕が、ゆっくりと、上がった。
舞台の上に、家族の、リビングルームの、書割が、現れた。中央に、大きな、テーブル。両側に、椅子が、四脚。奥に、暖炉。暖炉の上に、家族の肖像画。
舞台の右手から、父親役の俳優が、新聞を、持って、登場した。
「諸君、聞いてくれ! ついに、我が家の、長女が、嫁ぐ日が、来た!」
舞台の左手から、母親役の俳優が、エプロンで手を拭きながら、登場した。
「あなた、まだ、お決まりじゃ、ありませんわ。お相手の、お家との、ご相談が、これからですもの」
「いや、私の中では、決まっている!」
観客が、笑った。
プルデンティアも、思わず、笑った。
コルネリアが、娘を、見て、微笑んだ。
「お母さま」
「はい、プルー」
「お父さまに、似ていますわ」
「あら、誰が」
「あの、お父さま役」
「……まあ」
コルネリアが、口元を、押さえて、笑った。
「クラウディウス様には、内緒よ」
「もちろんですわ」
二人で、ほんの少しだけ、肩を、揺らして、笑った。
◇
二時間の、公演の間、プルデンティアは、何度も、笑った。
舞台の上では、長女の婚約を巡って、家族の珍騒動が、繰り広げられた。父親が暴走し、母親が冷静に収め、三人の娘たちが、それぞれの方向で、騒ぎを大きくする。最終的に、長女は、自分が決めた相手と、結婚することになる。家族は、最初は反対するが、長女の幸福を、最終的には、認める。
幕が、降りた。
観客が、一斉に、拍手した。
プルデンティアも、一所懸命、拍手した。
俳優たちが、何度も、カーテンコールに、応えた。
「お母さま、面白かったですわ」
「ええ、本当に」
「最後、お母さま役の方の、台詞」
「『家族って、結局、どんなに揉めても、家族なのよ』」
「あれ、お母さまも、お考えになりますか」
「……そうね」
コルネリアは、しばらく、舞台を、見ていた。
俳優たちが、最後の挨拶を、終えて、幕の向こうに、消えていった。
「家族って、不思議ね、プルー」
「不思議?」
「血が繋がっていても、性格は、違う。考えも、違う。それでも、家族として、繋がっている」
「はい」
「お母様は、お父様と、プルーが、家族で、本当に、よかったと思うわ」
「私もです」
プルデンティアが、母の手を、握った。
母も、握り返した。
会場の灯りが、徐々に、明るくなっていった。




