第13話 侯爵令嬢の、夕暮れの記憶
自動車が、丘を、降り始めた。
来た道を、戻った。
葡萄畑が、流れた。麦畑が、流れた。
遠くで、雲雀が、鳴いていた。
二十分ほど、走った時、——
ぐるる、と、エンジンが、奇妙な音を、立てた。
「お父さま?」
「うむ」
クラウディウスが、ペダルを、確認した。
エンジンが、また、ぐるる、と、唸った。
それから、——ぱす、と、止まった。
車が、惰性で、しばらく、進んだ。
道の、ちょうど真ん中で、ぴたりと、止まった。
「……あら」
コルネリアが、呟いた。
「あら、ね」
クラウディウスが、ペダルを、踏み直した。エンジンを、再点火しようと、点火栓を、引いた。
エンジンは、ぐすぐす、と、音を、立てた。
再点火、しなかった。
「……」
クラウディウスは、しばらく、ハンドルを、握ったまま、止まっていた。
それから、コルネリアの方を、見た。
「コルネリア」
「はい、クラウディウス様」
「私のせいでは、ないぞ」
「ええ、もちろんです」
「お前が、運転で、酷使したからでも、ないぞ」
「ええ、そうですわね」
「部品の、寿命だ」
「多分、そうでしょうね」
コルネリアが、横を、向いて、肩を、震わせた。
笑いを、堪えていた。
「お母さま!」
「はい、プルー」
「自動車が、止まっています!」
「ええ、そうね」
「これ、どうするのですか?」
「……お父様が、ご存じよ」
コルネリアは、夫の方に、視線を、譲った。
クラウディウスは、運転席で、しばらく、考えていた。
それから、車を、降りた。
エンジンの蓋を、開けた。
煙が、ぷしゅう、と、出た。
「……」
クラウディウスは、煙に、目を、しばたたかせた。
コルネリアが、車を、降りた。
プルデンティアも、降りた。
三人で、エンジンを、覗き込んだ。
「お父さま、これ、どうなったの?」
「分からない、プリュ」
「お父さまも、ご存じないの?」
「……ああ」
「専門の方は、どこに、いらっしゃるの?」
「王都に、戻らないと、いない」
「ここから、王都まで、どれくらい?」
「徒歩で、四時間ほどか」
「自動車を、押して?」
「いや、車は、置いていって、誰かに頼んで、運んでもらう」
クラウディウスが、空を、見上げた。
太陽は、まだ、高かった。日没までには、王都に、戻れる。しかし、馬車を、見つけるか、徒歩で、最寄りの宿屋まで歩くか、判断する必要が、あった。
プルデンティアは、しばらく、考えていた。
それから、顔を、上げた。
「お父さま」
「うむ」
「この辺りに、修理屋さんを、開けば、良いのでは」
クラウディウスが、振り返った。
コルネリアも、振り返った。
「……何だと?」
「だって、自動車は、これからもっと、増えるのでしょう?」
「……ああ、増えるだろうな」
「そして、自動車は、たまに、故障するのでしょう?」
「……そうだな」
「では、自動車が走る道沿いに、修理屋さんがあれば、皆、助かりますわ」
「……」
「お父さまの自動車も、今、すぐに、直せます」
プルデンティアは、当然のことを述べる調子で、続けた。
「私がもし、商人なら、この街道沿いに、修理屋さんを、いくつか、開きます。燃料も、売ります。お食事も、出します。旅人が、長距離を走れるように」
そして、少し考えて、付け加えた。
「お母さまの実家のある方角と、王都を結ぶ街道は、特に、需要が高いと、思います」
クラウディウスが、しばらく、娘の顔を、見ていた。
それから、コルネリアの方を、見た。
二人の目が、合った。
二人とも、——同時に、笑い始めた。
大きな声で、笑った。
「お父さま? お母さま?」
「プリュ、お前は」
「はい?」
「お前は、十一歳だな」
「はい、十一歳です」
「十一歳の娘が、街道沿いの、商業計画を、語る家は」
クラウディウスは、まだ、笑っていた。
「世界でも、うちだけだろう」
「……いけなかったでしょうか」
「いけなくは、ない」
「それは、何より、ですわ」
コルネリアは、お腹を、抱えて、笑っていた。
「クラウディウス様、私たちの娘は」
「うむ」
「将来、街道沿いに、いくつの修理屋さんを、持つのでしょうね」
「七つは、持つだろうな」
「七つ?」
「セルヴィアの、主要街道の数だ」
「あら、お父様、ご商売、お得意ですのね」
「……」
夫婦が、また、笑った。
プルデンティアは、両親が、何が面白くて笑っているのか、よく分からなかった。
ただ、両親が、笑っているのを、見ていた。
それから、自分も、つられて、笑い始めた。
春の街道の、真ん中で、家族が、笑っていた。
壊れた自動車を、囲んで、三人で、笑っていた。
◇
ひとしきり、笑った後、コルネリアが、娘の頭を、撫でた。
「世界はね、プルー」
「はい」
「こうやって、失敗を、繰り返しながら、少しずつ、良くなっていくのよ」
「失敗を?」
「ええ。今日のこの自動車も、失敗の、一つ。エンジンが、まだ、完璧でない。修理屋も、まだ、街道沿いに、ない」
「……」
「でもね、誰かが、こういう失敗を、見て、考える。プルーのように、『修理屋を作れば良い』と。そうすると、次の世代の自動車の旅は、もっと、信頼できるように、なる」
「はい」
「プルーが大人になる頃には、自動車は、もっと、当たり前のものに、なっているわ」
「本当ですか」
「ええ」
母は、娘の目を、まっすぐに、見た。
「プルーが生きる世界は、必ず、今より、良くなる」
「……どうして、そう、言えるのですか」
「プルーのような子が、その世界を、作るからよ」
プルデンティアは、母の目を、見つめ返した。
母の目は、春の光を、受けて、澄んでいた。
長いまつげの奥の目に、潤みは、なかった。
ただ、強い、明るい、光が、あった。
プルデンティアは、母の言葉を、十分には、理解できなかった。
しかし、母が、何か、確信を持って、自分に、話してくれていることは、分かった。
プルデンティアは、こくり、と、頷いた。
「はい、お母さま」
「ええ」
母は、娘の頭を、もう一度、撫でた。
春の風が、母の黒髪を、ふわり、と、揺らした。
◇
クラウディウスは、街道の真ん中で、しばらく、考えていた。
それから、街道の向こうを、見た。
幸い、向こうから、馬車が、一台、走ってきた。
古い荷馬車だった。御者は、年配の、農夫らしき男だった。荷台には、空の籠が、いくつか、積まれていた。
クラウディウスが、手を、振った。
「すみません、ちょっと、お止まりください」
「へえ?」
農夫が、馬を、止めた。
自動車を、見て、目を、丸くした。
「……これは、自動車、ですかね」
「そうです。故障しまして」
「……はあ、自動車も、壊れるんですねえ」
「ええ、壊れます」
「うちの馬は、十年、壊れませんでしたよ」
「……羨ましい」
「ははは」
農夫が、人の良さそうな笑いを、した。
「で、どちらまで」
「王都まで、家族を、お送りいただけませんか」
「ああ、それは、構いませんよ。王都の手前まで、私も、行く予定でしたんで」
「自動車は、近くの、どこかに、預けて」
「ああ、一ヴェークほど先に、宿屋があります。そこに、預けて、王都から、整備の人を、呼んでもらえばいい」
「助かります」
「どうも」
農夫は、本当に、人の良い男だった。
◇
自動車を、近くの宿屋に、預けた。
宿屋の主人が、「明日まで、預かりますから、ご安心を」と、約束してくれた。
家族は、農夫の荷馬車に、乗り換えた。
荷台に、毛布を、敷いて、その上に、家族で、座った。
「面白いわね、プルー」
「お母さま、馬車の、後ろに、乗るのって、初めて」
「私も、初めてかしら」
そして、探る様に、クラウディウスを見た。
「クラウディウス様も?」
「ああ、私も、初めてだ」
「それでは、家族で、新しい体験ができましたね」
コルネリアが、笑った。
クラウディウスが、肩を、すくめた。
荷馬車が、ゆっくりと、動き始めた。
馬の蹄の音が、自動車のエンジンとは、全然違う、優しい、ぱかぱか、という音だった。
「お父さま」
「うむ」
「馬車って、ゆっくりですね」
「ああ、ゆっくりだ」
「景色が、よく、見えますね」
「ああ、よく、見える」
「自動車だと、流れていきますもの」
「そうだな」
プルデンティアは、荷台の縁に、つかまって、流れていく景色を、見ていた。
午後の光が、麦畑を、金色に、照らし始めていた。
葡萄畑が、長く、伸びていた。
遠くの山並みが、夕方の色に、染まり始めていた。
馬車は、速くは、なかった。
しかし、それは、それで、良かった。
◇
侯爵邸に、着いたのは、日が、ほとんど、沈んだ頃だった。
農夫の荷馬車が、邸の門の前で、止まった。
ロドリゴが、玄関先で、心配そうに、待っていた。家族が、荷馬車から、降りてきたのを見て、駆け寄ってきた。
「侯爵様、ご無事で!」
「うむ、ロドリゴ。ご心配かけたな」
「自動車は——」
「途中の宿屋に、預けてある。明日、整備の者を、呼んで、修理させてくれ」
「畏まりました」
「それから、農夫の方に、十分な、お礼を」
「はい!」
農夫は、最初は、固辞したが、クラウディウスが、押し付けるように、礼金を、握らせた。農夫は、何度も、頭を、下げて、馬車を、走らせて、去っていった。
コルネリアが、その背中を、見送った。
「世の中は、優しい人が、多いわね」
「そうだな」
「困った時に、助けてくれる」
「……ああ」
「自動車が壊れて、馬車に乗せていただいて——なんだか、素敵な一日だったわ」
「素敵な、一日?」
「ええ、とても」
コルネリアが、夫の手を、取った。
夕暮れの中で、二人の影が、長く、伸びていた。
プルデンティアは、両親の手を、繋いで、玄関の、石段の前に、立っていた。
「お父さま、お母さま」
「うむ」
「今日、ありがとうございました」
「うむ」
「ありがとう、プルー」
「とても、楽しかったわ」
「お母様も、楽しかったわ」
三人は、玄関の、石段の前に、並んでいた。
夕日が、邸の屋根の向こうに、ほとんど、沈んでいた。
最後の光が、三人の頬を、橙色に、染めていた。
春の風が、母の黒髪を、揺らしていた。
父の眼鏡に、夕日が、反射していた。
娘のプラチナブロンドの髪が、夕日の中で、銀色に、輝いていた。
誰も、何も、言わなかった。
ただ、三人で、並んで、立っていた。
春の、夕暮れの、玄関先。
壊れた自動車も、農夫の馬車も、笑い声も、すべてが、この一日に、収まっていた。
プルデンティアは、生涯、この夕暮れを、覚えている。
母が、運転していた笑顔。
父が、降参するように、笑った顔。
壊れた自動車の煙。
農夫の人の良い笑い。
馬の蹄の、ぱかぱかという音。
母の肩の、温かさ。
そして、母の言葉。
プルーが生きる世界は、必ず、今より、良くなる。
春の夕暮れに、家族は、ただ、並んで、立っていた。




