第123話 悪役令嬢、煙に巻いたり、巻かれたり
朝は、いつもより、一刻、早く、始まった。
正確には、律子が、一刻、早く、朝を、迎えに行ったのだが…。
ジーナが居間に入った時には、律子はもう、外出の支度を、済ませていた。机の上に、封筒が、一通、置いてある。昨夜——蝋燭を、消さなかった夜の、成果物だった。
「お、お嬢様!? 朝食は……」
「戻ってから、頂くわ」
律子は、封筒を、手に取った。
「先手はね、ジーナ。朝のうちに、打つものなのよ」
……役所の決裁というものは、人の見ていない朝に、通る。
……前世の、経験則。学府だって、半分は、役所よ。
……処分は、事実より、速い。だったら、こちらは、処分より、速く。
◇
回廊の、学監棟へ折れる角に、見慣れた長身が、立っていた。
マルクス・カンディドゥスだった。
彼は、律子を認めると、何も言わず、歩み寄って、紙の束を、差し出した。数枚の紙の上に、几帳面な、手書きの字が、朝の光の中で、静かに、並んでいた。
「……これは」
「学則の、補則です」
マルクスは、言った。
「懲戒の手続は、教務規程では、なく、補則の側にあります。第三補則、二項から、七項。……それから、留学生規程の、受け入れ取り消しの条」
律子は、受け取って、目を、走らせた。条文が、番号ごとに、正確に、写してある。欄外に、小さな註。手続の、期限。異議の、窓口。——そして、彼の指には、新しいインクの染みがあった。
……暗記で、お写しになったのね。昨夜のうちに。
……原本を、開きも、せずに。
「……私の行き先も、ご存知でしたのね」
「…………順番として、妥当です」
……順番。
……ええ。私も、昨夜、同じことを、考えたわ。
「お借りいたします。——お代は」
「……不要です」
少し、間があって。
「……職業上の、関心が、あっただけなので」
……出たわね。
……魔法込み、職業込みの、次は、職業上の、関心込み。
……あなた、また、自分の親切を、値切ったわ。
……でも、ありがとう。
マルクスは、折り目正しく、一礼して、講堂の方へ、歩き去った。律子は、紙の束を、封筒に、重ねた。二つの紙が、鞄の中で、隣り合った。
……いい朝だわ。
……弾が、二発に、増えた。
◇
学監室は、朝から、紙に、埋もれていた。
ベルナルド・コンティ学監は、白髪の下の、穏やかな目元に、今朝は、疲れの色を、沈ませていた。机の上には、封書の山。昨夜、眠っていないのは、律子だけでは、ないらしかった。
「セヴェリーニ嬢。……昨夜は」
「コンティ学監。朝早くから、恐れ入ります。——本日は、お願いが、あって、参りました」
「……ホフマン嬢の、件で、あれば」
学監は、封書の山を、目で、示した。
「正直に、申し上げる。昨晩から、私の机は、この件で、埋まっております。評議会の代表からの、お尋ね。保護者の方々からの、問い合わせ。……セヴェリーニ侯爵家の、御名誉のために、厳正な処分を、という声が、その、大半で」
「まあ」
律子は、目を、丸くしてみせた。
「私の家の名誉のために、皆さま、筆まめで、いらっしゃること」
……頼んでも、いないのに。
「——では、先に、これを」
律子は、封筒を、机の上に、置いた。学監が、封を、開く。読むにつれて、白い眉が、ゆっくりと、上がった。
「……放棄書」
「はい。昨夜の告発に関し、告発者への懲戒の申立て、名誉回復の請求、その他、被害者として私が有する一切の権利を、放棄いたします。——署名、済みですわ」
「…………」
「学府が、お裁きになろうとしている罪の、被害者は、私、ですわね。その私が、ここに、何一つ、求めておりませんの。……書いてから、一晩、寝かせましたけれど、朝になっても、気持ちは、変わりませんでしたわ」
学監は、書面を、置いた。指を、組んだ。厳格な、お顔の線が、深くなった。
「……お気持ちは、わかる。わかるが、セヴェリーニ嬢。学府には、学府の、立場がある。公式の場で、あのようなことが、起きて、お咎めなし、では——示しが、つかん。……こういう前例を、残すわけには、いかんのです」
……来たわね。
……前例。
「第三補則の第五項。職権による懲戒は、事実の検証を、経ること——と、ございましたわね」「留学生の受け入れの取り消しも、同様に」
学監が慌てて学則の冊子を開いた。紙面に指を走らせてから、顔を上げた。
「……よく、ご存じですね」
「今朝、頂き物を、いたしましたの」
そこで、一呼吸を置いた。
「学監様」
律子は、静かに、聞いた。
「昨夜、どなたか、裁かれましたかしら」
「……いや」
「告発が、一つ、ございました。宣言が、一つ、ございました。——それだけ、ですわ。裁きは、まだ、どこにも、ございません。そして、規則は検証を求めている」
律子は、机の上の、放棄書を、指の先で、そっと、学監の方へ、進めた。
「これから、学監様が、前例に、最初の一行をお書きになるの」
学監の目が、書面と、律子の顔を、往復した。
「検証の前に、罰を、お出しになれば——最初の一行は、こうなりますわ。『学府は、検証を公約して、検証の前に、罰した』。……昨夜の、学監様のお言葉、数百人が、聞いておりましてよ。『本件は、学府として、正式に、検証の場を、設けます』と」
「…………」
学監が、小さく、呻いた。自分の言葉で、殴られた者の、顔だった。
「けれど、検証の場を、堂々と、お開きになって、手続きの通りに、お決めになれば——記録には、別の一行が、残ります。『この学府は、相手が、公太子でも、侯爵家でも、手続きを、曲げなかった』」
律子は、扇子を、開かずに、ただ、手の中で、一度、回した。
「学府の名前に、値をつけると、すれば。——どちらが、高く、売れますかしら」
長い、沈黙が、あった。
やがて、学監は、深く、息を、吐いた。吐き終わった時、目元の疲れの、奥の方に、何か、別のものが、点っていた。
「……白紙に、最初の一行、か」
「羨ましい限りですわ。法律家は、いつも、誰かの書いた行の、後ろに、並ぶだけ、ですもの」
「……ふ」
学監の口元が、初めて、僅かに、緩んだ。
「検証の場は、設けます。十日の後に。手続きは——曲げません。学府の名前には、その値打ちがあるでしょう」
「ありがとう、存じます」
「ただし、セヴェリーニ嬢。……あなたは、その場に、どういうお立場で、お出でになる」
「被害者の役を、やめに、参りましたの。——たった今、この書類で」
律子は、礼をした。
「次にお目にかかる時は、裁かれる方の代理人として、参りますわ。……委任を、頂けましたら、ですけれど」
「……一つ、お伝えしておく。魔法評議会から、参観の申し入れが、来ておる。断る理由が、ない」
「左様ですか」
……あら。
……お早い、お手々ね。
◇
学監棟を出て、貴賓区画へ戻る道は、中央の中庭を、通る。
学府で、一番、古い場所である。磨り減った石畳と、古い噴水と——大樹が、一本。冬の終わりの、裸の枝が、朝の空に、細かい網を、張っていた。枝先には、よく見れば、芽が、もう、点々と、つき始めている。
その、樹の下に、紺のローブが、立っていた。
ルシア先生だった。
先生は、枝を、見上げていた。誰もいない、冬の枝を。しかし、それは、満開の花でも、眺めるような、目だった。
律子の足音に、先生は、振り向いて——ふ、と、笑った。
「あらまぁ」
……あらまぁ?
「大人気ね」
「…………は?」
律子は、思わず、後ろを、見た。誰も、いない。朝の中庭には、二人きりである。
……大人気? 世間の、風当たりを覚悟している身に?
……昨夜のこと? あれは、人気というより、騒動……
「先生。……昨夜は、お騒がせを、いたしました」
「いいえ」
先生は、こともなげに、言った。
「良い、舞踏会でした。……一曲も、かからなかったけれど」
「……先生は」
聞くつもりの、なかった問いが、口から、出た。昨夜から、保留の棚に、上げてあった問いが。
「昨夜、先生だけ、最初から、最後まで、落ち着いて、いらっしゃいました。……皆が、凍りついていた間も、ずっと。……なぜ、ですの」
先生は、少しだけ、首を、傾げた。困ったような、笑っているような、いつもの、あの顔で。
「それは——わかっていたから、」
「……わかって、いた」
「ええ。——何の心配もないと、」
それだけ言うと、先生は、抱えた書物を、抱え直した。律子の横を、通り過ぎ——二歩、行って、思い出したように、振り向いた。
「だって、あなたは、」
枝の方を、ちょい、と、目で、指した。
「たくさんの応援に、囲まれて、いらしたもの」
……応援?
律子は、枝を、見上げた。裸の枝。点々と、ついた芽。冬の、白い空。——何も、いない。
振り向くと、紺のローブは、もう、回廊の角を、曲がるところだった。足取りが、鼻歌でも、歌い出しそうに、軽かった。
……。
……保留の棚、二段目。




