第122話 悪役令嬢、名乗りをあげる
沈黙の中に、言葉が置かれた。
「さて。事実は、ほどきましたわ」
律子は、扇子を、手の中で、一度、回した。
「ここからは、私の、疑問です。——クララさん」
クララが、びく、と、顔を、上げた。
「あなたの告発を、私、最初から、最後まで、伺いました。弁護士の耳で。……そして、分からないことが、一つだけ、あるの」
律子は、一歩、前へ、出た。
「あなたは、嘘を、一つも、使わなかった。反証の利かない嘘を混ぜれば、私を、本当に、沈められたのに。証人も、仕込まなかった。求めたものは、私の破滅ではなくて、ご自分の『解放』——たった、それだけ」
……。
「あなたの告発は、私を、滅ぼす作りに、なっていない。……ねえ、クララさん。教えて、頂戴」
声が、静かに、落ちた。
「あなたが、本当に、欲しいものは——何?」
クララの目が、大きく、見開かれた。
唇が、震えた。開いて、閉じて、また、開いて。
堪えていたものの、堤が——切れた。
「——なんで」
最初は、小さな声だった。
「なんで、そこまで、分かるのに——わたしの気持ちだけ、分からないのよ……!」
叫びが、シャンデリアを、震わせた。
「そんなに綺麗で、そんなに頭が良くて、侯爵家の令嬢で、何不自由のないあなたが——どうして、公太子様まで、独り占めするの……!」
……。
「わたしはっ……わたしは、ただ——公太子様と、結婚して、両親を、救いたかっただけなのに……! それだけ、だったのに……! 貴女、——貴女、一体、何なのよ……!」
叫び切って、クララは、その場に、崩れ落ちた。床に、両手をついて、嗚咽が、剥き出しになった。もう、暗譜の欠片も、なかった。
広間は、凍りついていた。
誰よりも——カリストが、凍りついていた。
「……結婚、して」
彼の唇が、動いた。声に、ならない声だった。
「……両親を。……僕、と? ……僕は——」
……ああ。
……殿下。あなた、いま、ご自分が、道具だったと——
……いえ。違うわ。道具の座に、賭けられていたと、知ったのね。
……そして、クララさん。
……ご両親。
……あなたを動かしたのは、ご両親なのね。
……水車の。箪笥の契約書。寿命の置換。
……。
……開いたわ。引出しが。全部。
律子は、目を、閉じなかった。閉じたい一瞬を、閉じずに、越えた。
それから、崩れ落ちた小さな背中に向かって、歩き出した。一歩。二歩。ドレスの裾が、静かな床を、滑る。
クララの、二歩手前で、止まる。
「……クララさん」
嗚咽が、少し、細くなった。
「私は…」
言いかけて、——止まった。
……この名乗りを、私、前世で、十五年、やってきたのに。
……いま、初めて、言う気が、するのは、なぜかしらね。
「私は、——弁護士です」
クララが、床に手をついたまま、顔を、上げた。涙で、ぐしゃぐしゃの顔だった。
「今は、いわれのない告発から、自分を守るために、自分を弁護している、……けれど」
律子は、その場に、膝を、折った。ドレスが、床に、広がった。侯爵家の令嬢が、衆人環視の広間で、粉屋の娘と、同じ高さに、なった。
「あなたが、委任して、くださるなら——全力で、あなたの、ご両親を、お守りします」
「……え、」
「頼まれてもいないのに、救うのは、施しですわ。私、あなたに、施しは、しないの。……だから、あなたが、決めて。あなたが、私の、依頼人に、なって。——ご両親を救う方法は、あるはず、クララさん。結婚では、なくて。法廷に」
クララの目が、揺れた。涙の膜の向こうで、何かが、必死に、律子の顔を、探していた。嘘を。罠を。憐れみを。——探して、探して、見つからずに、揺れていた。
「……なん、で……」
声が、掠れた。
「なんで……あなたが……わたしの、両親の、こと……」
「委任してくだされば、お話しするわ。全部」
律子は、言った。
「弁護士はね、依頼人にだけ、全部を、話すの」
◇
「——本日は、これまでと、いたします!」
学監の声が、ようやく、広間に、戻ってきた。凍っていた時間が、割れて、動き出す。
「本件は、学府として、正式に、検証の場を、設けます! 皆さまは、どうか、ご退出を——」
広間が、ざわめきながら、ほどけていく。誰も、踊らなかった舞踏会が、終わっていく。楽団は、一曲も、弾かなかった。
クララは、駆け寄った寮監の女性に、抱えられるようにして、退出していった。去り際、一度だけ、振り返った。律子を見た。何か言いかけて——言えないまま、連れられて、行った。
律子は、静かに頷いた。
……いいのよ。今夜は、それで。
……委任状は、逃げないわ。
カリストは、動けずにいた。従者に、促されて、ようやく、歩き出した。婚約破棄の宣言は、宙に、浮いたままだった。撤回の言葉も、なかった。彼は、出口で、一度、立ち止まり——振り返らずに、出て行った。その背中は、律子の、まっすぐな背中とは、対照的だった。
最前列にいた、女生徒の一団が、真っ青な顔で、囁き交わしていた。
「……ねえ。……ご両親、って」
「……クララちゃん、そんなこと、一言も……」
「わたしたち……わたしたちが、舞踏会でって、言ったから……」
……聞こえてるわよ、お嬢さんたち。
……あなたたちの、お話は、また、後でね。
人の流れの中で、マルクスが、律子の視界を、横切った。
彼は、立ち止まらなかった。ただ、すれ違う一瞬、律子を見て——最後の一つを、頷いた。深く、一度。
……六つ。
……ありがとう。陪審員どの。
……評決は、頂いたと、思っておくわ。
教師陣の出口で、あの優しい色のドレス姿は、待って——いなかった。ルシア先生は、もう、退室していた。ただ、先生の立っていたあたりの床が、なぜだか、ほんの少しだけ、明るい気がした。
ジーナが、走ってきた。給仕の前掛けのまま、真っ赤な目で、何も言わずに、律子の、ドレスの裾の乱れを、直した。手が、震えていた。
「……帰りましょ、ジーナ」
「…………はいっ……」
◇
夜。貴賓区画。
ドレスを、衣桁に掛けながら、ジーナは、まだ、ぐすぐす言っていた。
「だいたいですね……っ、殿下も、殿下です……! お嬢様の、何を、見てきたんですか……! わたし、給仕のお盆、投げつけそうでした……!」
「投げなくて、よかったわ。あなたの経歴に、傷がつくもの」
「お嬢様の、名誉の傷の方が、大事です!」
「あら。私の名誉なら、無傷よ」
律子は、鏡台の前で、髪飾りを、外しながら、言った。
「だって、考えてもみて。私、今夜、婚約破棄を宣言されて、公衆の面前で、告発されて——依頼人候補が、一人、増えて、帰ってきたのよ。これからが大変。弁護士として、こんな大漁の夜、ないわよ」
「たいりょう……」
ジーナは、涙の残った目で、ぱちぱちと、瞬きをして。
「……お嬢様って、時々、ほんとうに、変です」
「褒め言葉として、頂くわね」
「あと、あの、これだけは、言わせてください」
ジーナは、鼻を、ぐす、と、鳴らして、それから、握り拳を、作った。
「扇子を、パチン、てやったとき——お嬢様、世界で一番、格好良かったです」
「……ふふ。でしょう?」
「明日から、真似します。お掃除のとき、はたきで」
「音が、違うと思うわよ」
ジーナは、ようやく、いつもの顔で、笑って——白湯を置いて、下がった。
律子は、机に、目録を、開いた。
昨夜、置かなかった頁を、今夜、置く。
「学年末表彰舞踏会:表彰、受領(法学演習・最優秀)。直後、クララ・ホフマン嬢より、公開の告発。事実五項(全て真実・束ね方に悪意)。続いて、公太子殿下より、婚約破棄の宣言(撤回なし・検証未了・宙吊り)。当職、弁明を実施。場を、法廷に、転換」
「弁明の結果:五項、解体。証人一名(白髪の同級生氏——上出来、過分)。会場の空気、告発時と閉場時で、別物。……ただし、無罪の心証と、好意は、別物。明日からの世間は、覚悟すること」
「クララさんの目的、判明:ご両親。『公太子様と結婚して、両親を救いたかった』——。……水車の家の、あの、ご両親よ。箪笥の、三冊の。……あの子、ずっと、一人で、あれを、抱えて。私の隣で、笑いながら。……私、書いたわね。『鍵をかけた引出しは、開けない』と。——今夜、引出しの方から、開いたわ。全部」
「当職の申し出:委任の要請(公開の場にて。)。回答——保留。……いいのよ。委任は、急かすものじゃ、ないの」
「予測・明朝より:クララさんへの、処分圧力(退学・留学生の受入れ取消・虚偽告発の追及)。会場の反動は、彼女に、向かう。——当職の最初の仕事は、ご両親の前に、クララさん本人の防衛。告発された側が、告発した側の、弁護に回る。……変かしら。変でしょうね。でも、それが、正しい順番なの」
「殿下:誤解の構造のまま、退場。宣言は、宙に。……あの方の夜は、今夜、私のより、長いはずよ。自分が、道具に賭けられていたと知った夜、ですもの。——慰めるのは、私の役では、ない。今は」
「マルクス・カンディドゥス:弁明の間、頷き、六。終始、無言。——あの場に、陪審が、一人、いた。……近々、頭を下げに、参ります」
「同級生の御三方:『わたしたちが、舞踏会でと言ったから』——聴取。善意の、共犯。……責めない。善意は、責めても、賢くならないの。使い道は、後で、考える」
「ルシア先生:終始、非介入。驚かず。……あの方、何を、ご覧になっていたのかしらね。——保留の棚へ」
「白髪の彼:法廷の空気を、笑いで、救った、大功労者。……色抜きの魔法のお友達ともども、いずれ、お礼を」
「断罪イベント:実績、解除。——ゲームと、違ったこと、一つ。断罪の後も、人生が、続くのよ。全員の人生が。破棄された私の。宣言した殿下の。告発したクララさんの。神輿を担いだ、お嬢さんたちの。……ゲームは、ここで、エンドロール。現実は、ここから、始まるの」
ペンを、置いた。
足元の影が、そっと、机の脚に、寄ってきた。カリストのいない部屋で、影は、もう、自由に、動けた。耳が、心配そうに、律子を、見上げるように、傾いだ。
「……平気よ」
律子は、言った。
「婚約はね、破棄されたけど。……仕事は、増えたのよ。弁護士に、とってはね、それは——悪い夜じゃ、ないの」
影の耳が、ゆっくり、ぴこん、と、立った。
律子は、蝋燭に、手を、伸ばして——
止めた。
……今夜は、もう少し、つけておくわ。
……考えることが、山ほど、あるもの。……それにね。
……こういう夜こそ、灯りは、消さないものよ。
冬の終わりの夜、貴賓区画の窓に、灯りが、一つ、遅くまで、点いていた。
それは、暗い夜の中で、燃え続ける意思のようでもあり、人々を導く灯のようでもあった。




