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第120話 悪役令嬢、断罪される


 冬の終わりの夕方は、空の際に、ほんの少しだけ、春の色を、混ぜ始めていた。


「お嬢様、完成、です……!」


 鏡の中に、仕上がったプルデンティアがいて、その後ろで、ジーナが、両手を、握りしめていた。


 ドレスは、ジーナが数週間、悩み抜いた一着である。髪も、三度、結い直した。鏡の中の令嬢は、我ながら、一年の締めくくりに、ふさわしい顔をしていた。


「泣かないの、ジーナ。まだ、何も、始まってないわよ」


「泣いてません! ……ちょっとしか」


 ……ふふ。

 ……さ、行きましょうか。私の、一年の、答え合わせに。


 ◇


 大広間の入口は、柱廊になっていた。


 磨かれた石柱に、真鍮の銘板が、並んでいる。改修の、寄進者の名前が刻まれていた。古い商会。古い家名。その並びの、隅の方に、小さな一枚。


 ——書肆(しょし) L・モンタヌス。


 ……あら。

 ……あの書店。教科書と、判例集の。

 ……ずいぶん、昔から、寄進なさってるのね。銘板の色が、一番、古いわ。

 ……本屋さんの、学府愛ね。


 柱廊を抜けると、光が溢れた。


 シャンデリア。磨き上げられた床。楽団の、調弦の音。壁際には、教師陣と、来賓の席。学年の全員が、正装で、集まりつつあった。


「——セヴェリーニ様!」


 振り向くと、見覚えのある顔が、笑っていた。真っ白な髪を、今夜は、丁寧に、撫でつけて。


 模擬法廷で、当たったことのある、同級生である。


「あら。今夜も、素敵な髪ね」


「でしょう? 式典映えするって、評判なんですよ」


「ええ。……先日は、本当に、驚かされましたけれど」


「あはは! あの時の、セヴェリーニ様のお顔! いやあ、僕としては、光栄の、白髪ですから」


 白髪の彼は、上機嫌で、友人たちの輪へ、戻っていった。


 ……光栄の白髪、って。

 ……ま、ご本人が、お気に召してるなら、何よりよ。


 ◇


 楽団席の端で、レオンハルトは、弓に、松脂を、当てていた。


 舞踏会の楽団は、彼のような学生奏者にも、席をくれる。今夜の彼の耳には、魔法のかけらは降っていなかった。会場の音は、ただの、賑やかなもやのようにただよっている。それで、いい。


 教師陣の列に、落ち着いた色のドレスをまとった女性が、見えた。魔法史のルシア先生だった。壁際の、給仕の並びには、セヴェリーニ嬢の侍女の、小さな姿。表彰される側の列には、セヴェリーニ嬢と、マルクスと——成績優秀者たちが、順に、並び始めていた。


 貴賓の席には、公太子。


 そして、学生たちの、群れのどこかに——


 レオンハルトは、そこで、考えるのを、やめた。


 ……今夜は、音楽の夜だ。それだけの夜で、あってくれ。


 ◇


 表彰は、式次第の、一番最初だった。


 学監が、名を、読み上げていく。学業の各科。魔法の各科。マルクス・カンディドゥスの名は、二度、呼ばれた。彼は、二度とも、同じ角度の、折り目正しい礼をした。


「——法学演習、最優秀。プルデンティア・セヴェリーニ」


 拍手の中を、律子は、壇に、上がった。


 シャンデリアの光が、正面から、当たる。会場中の顔が、こちらを、向いている。学監から、賞状と、小さな記章を、受け取る。


 ……ふふ。

 ……見てらっしゃる、お父さま。あなたの娘は、一年目を、首席で、終えましてよ。

 ……前世のを、足せば、大学は五年目、だけれど。


 拍手が、まだ、鳴っていた。


 律子が、壇を、降りかけた——その時だった。


「——申し上げます!」


 高い声が、会場を、切り裂いた。


 拍手が、まばらに、途切れていく。


 人垣が、割れて、床の中央に、小さな人影が、進み出ていた。


 簡素な、奨学生の礼装。固く、握りしめられた、両手。


 クララだった。


「……申し上げたいことが、——ございます。皆さまの、前で」


 声が、震えていた。顔は、青ざめて、それでも、まっすぐに、上げられていた。


 ……クララさん?


 会場が、静まり返った。学監が、何か言いかけて、来賓の手前か、言葉を、飲んだ。


 律子は、壇の、降り口に、立ったままだった。


「わたしは……クララ・ホフマンと、申します。エアルの、奨学生です。この一年、わたしは——セヴェリーニ様の、お側に、おりました」


 ……。

 ……待って。

 ……この構図。舞踏会。衆人環視。進み出る、平民の少女。壇上の、貴族の令嬢。

 ……わ、間違いない。——断罪イベントだ、これ。

 ……あら、あら、あら。

 ……ここは、ゲームの世界じゃない、と油断していたわ。

 ……いえ、例え、乙女ゲームの世界だとしても、ヒロインと仲良くして、フラグは折れている、と思っていた。

 ……甘くないのね。

 ……でも——おかしい。断罪される悪役令嬢は、ヒロインを虐めた令嬢のはず。私、クララさんを、虐めて——

 ……。

 ……いないわよね? ……いないわよ。ないわ。断じて。

 ……なら、これは、何?


「皆さま、ご存じの、ことから、申し上げます。——模擬法廷の、こと。セヴェリーニ様と、当たった方は、追い詰められて、震えていたと。髪まで、白くなった方が、いらっしゃると。……皆さまも、お聞き及びの、はずです」


 会場の、あちこちで、小さな、頷きが、生まれた。最前列の近くの、女生徒の一団が、目配せを、交わした。


「夜、お一人で、公宮へ、通っていらっしゃること。灯りの消えた、公家の建物に、夜ごと、灯りが、一つだけ、点くこと。……何を、なさっているのかは、誰も、知りません」


 ……事実、ね。

 ……事実だわ。書庫の灯り。


「わたしが、学府に参ってから、耳にした、数々の噂も、ございます。——セヴェリーニ様の魔法は、評議会でも、分類が、できなかった、得体の知れないものだと。登録の紙が、闇とも、光とも、書けなかったのだと。それから……セルヴィアの、社交界の噂も、こちらまで、流れて、参りました。さる舞踏会で魔法を暴走させたことがあると」


 ……コルソ侯爵家の舞踏会ね。……これも事実。


「お父君の、侯爵様に、近づいた女の方が、これまで、幾人も——知らぬ間に、醜聞に、まみれて、社交界から、消えていったと。……誰の手によるのかは、誰にも、分からない、ままだと」


 ……。

 ……あら、まあ。

 ……それ、私の、数少ない、実戦なのだけど。

 ……守ったのよ、お父さまを。近づいてきたのは、そういう筋の方で。手続きは、全部、適法で。

 ……でも、「守った」の詳細が、落ちると——「陥れて、排除する、見えない手」に、なるのね。

 ……上手だわ、本当に。事実の芯を、残したまま、向きだけを、変える。


「わたし、自身のことを、申し上げます」


 クララの声が、一段、細くなった。細くなって、それでも、止まらなかった。


「わたしは、いつも、お側に、いました。時々、貴賓区に、呼びだされました。夜に、です。お茶会だと、伺って、参らないわけにはいきませんでした。……秋には、エアルまで、ご一緒することを命じられました。わたしの、里帰りに、馬車を、出して、それが——道案内と、荷物番の、お給金の、代わりだと、仰って」


 ……。

 ……やめて。

 ……それは。あなたに、施しと、思わせないための——


「わたしは、ずっと、平気な顔を、してきました。皆に、大丈夫かと、聞かれても、何も、言えませんでした。……言えなかったんです。相手は、侯爵家の、お嬢様で。わたしは、奨学金が、なければ、学校にも、いられない、粉屋の娘です」


 涙が、クララの頬を、伝った。


 本物の、涙だった。それは、律子にも、分かった。


 ……事実。事実。全部、——本当のこと。

 ……そして、気づいてしまったわ、私。

 ……この告発、私を、滅ぼす作りに、なっていない。

 ……本気で貶めるなら、嘘を、三割くらい混ぜれば良い。反証の利かない嘘を。証人を、仕込めば良い。

 ……それなのに、この子は、どちらも、していない。全部、本当のことだけ。反証の扉を、全部、開けたまま。

 ……私は、憎まれて、いない。この期に及んで、そう感じる。

 ……なら、クララさん。

 ……あなたの、目的は、何?


「事実だけを、申し上げました。嘘は、一つも、申しておりません。……ですから、最後に、一つだけ、お願いを、申し上げます」


 クララは、息を、吸った。


 ……事実を、順に。

 ……最後に、求めることを、——一つ。

 ……私の、教えた、型。

 ……あの日の、帳面——


「——お願いです。もう、わたしを……わたしを、解放して、くださいっ……!」


 クララは、両手で、顔を、覆った。


 嗚咽が、シャンデリアの下に、落ちた。


 会場が、爆ぜた。


 ◇


 楽団席で、レオンハルトは、弓を、取り落としそうになっていた。


 魔法を使わない耳にも、届いていた。会場の中央の、あの声。


 ……あの声を、僕は、知っている。

 ……夕暮れの、木立の向こうの——半音、低い声。

 ……。

 ……確かめるのか。確かめて、どうする。魔法登録の誓紙に、書いたじゃないか。魔法の発動は、緊急の時だけだと。

 ……。

 ……一人の人間の、運命が。いま、あそこで、決められようと、している。

 ……それが、僕の緊急で、なければ——なんだと、いうんだ。


 彼は、目を閉じて、耳の奥の、閂を、外した。


 会場の音が、洪水になって、流れ込んでくる。数百の、ざわめき。数百の、鼓動。その洪水の中から、彼は、二つの心臓だけを、拾い上げた。


 一つ目。床の中央の、泣いている人。


 ……拍が。

 ……泣いているのに、——拍が、あの日の、練習の拍だ。

 ……規則正しい。準備してきた人の、拍。声の震えの、下で、心臓は、震えて、いない。

 ……暗譜だ。あの告発は、全部、暗譜だ。

 ……ただ——

 ……底の方で、一つだけ、濁っている音が、ある。あの日、跳ねたきり、戻らなかった、あの一拍の——続きが。


 二つ目。壇の、降り口の人。


 彼は、身構えた。心が砕ける音を、聴くことに。公衆の面前で、婚約者の目の前で、これだけのことを、言われた人の、砕ける心臓を。


 ——静かだった。


 ……乱れて、いない。

 ……恐怖が、ない。屈辱の、乱れが、ない。それどころか——

 ……整って、いく。

 ……一拍ずつ、深く、ゆっくり。

 ……これは、知っている拍だ。演奏の、直前の拍。舞台袖で、譜面を、閉じる人の拍。

 ……この人は。

 ……負けて、いない。この人は、——何かを、始めている。


 ◇


「——もう、いい」


 低い声が、ざわめきを、断った。


 貴賓の席から、カリストが、立ち上がっていた。


 ゆっくりと、床の中央へ、歩いていく。会場が、水を打ったように、静まる。彼は、泣きじゃくるクララの、隣に立ち——律子を、見上げた。


 その目を見て、律子は、悟った。


 ……原稿が、ない。

 ……この方、いま、原稿なしで、立ってらっしゃるんだわ。これだけの聴衆の前で、生まれて、初めて。


「……私は、五年間、あなたの、婚約者でした」


 カリストは、言った。静かに、始まった。


「あなたは、完璧な方だ。挨拶も、気遣いも、言葉の、一つ一つも。……私には、それが、どういうことか、分かるんです。完璧というのはね、——作れるんですよ。作り方を、知っていれば」


 ……。


「私は、あなたの完璧を、疑わなかった。誰も、疑わなかった。あなたは、賢くて、正しくて、まっすぐで——疑うことの方が、間違いに、見える人だ。……だから、誰も、この人の顔を、見なかった」


 カリストの手が、隣の、小さな肩を、示した。


「この人が、平気な顔の下で、何を、堪えていたか。……僕は——」


 私が、僕に、崩れた。


「僕は、この人の、笑う顔しか、知らなかった。馬の話をして、猫の話をして、笑う顔しか。……その顔の裏に、これだけのものが、あったのに、僕は、気づきもしなかった。あなたの、完璧の、隣で」


 ……殿下。

 ……それは、違う。違うのよ。その笑顔は、本物で——

 ……ああ、でも、いま、この場の、誰が、それを——


 足元で、影が、動かなかった。


 ……あなたも、動けないのね。殿下の、お近くだものね。

 ……いいのよ。

 ……ここは、——私の番。


「クララ・ホフマン嬢の、告発に、公太子として、応えます」


 カリストの声が、会場の、隅々まで、届いた。原稿のない声は、原稿のある声より、遥かに、遠くまで、届いた。


「検証は、追って、正式に、行われるでしょう。だが、私は、今夜、この場で、私に出来ることを、します。——カリスト・ヴァレンティーノ・アルカディアの名において」


 ……。


「プルデンティア・セヴェリーニ嬢との、婚約の——破棄を、宣言する」


 会場が、割れた。


 どよめきが、波になって、壁まで、走った。「やっぱり」という声が、聞こえた。一つではなかった。最前列の近くの、女生徒たちが、泣いているクララに、駆け寄ろうとして、押し留められていた。壁際で、ジーナが、給仕の盆を、置いて、飛び出しかけ——律子は、視線一つで、それを、制した。


 ……動かないで、ジーナ。あなたが動くと、証人が、一人、減るの。


 教師陣の列は、騒然としていた。その中で、ドレスをまとった女性だけが、微動だにしていなかった。ルシア先生は、驚いて、いない。ただ、まっすぐに、律子を、見ていた。


 表彰者の列に、マルクスがいた。


 彼も、動いていなかった。拍手も、非難も、していなかった。どよめきの中で、姿勢が、変わっていなかった。その目は、律子ではなく、クララを、見ていた。憎むのでも、憐れむのでもない、——読む目だった。


 ……あの場で、職業の顔をしているのは。


 どよめきは、まだ、鳴り止まない。数百の目が、壇の降り口の、一人を、見ている。侯爵家の令嬢。完璧な、才媛。怪談の、主。——追い詰められた、悪役令嬢を。


 律子は、その真ん中で、静かに、息を、吸った。


 ……クララさんの、事実は、全部、本当。

 ……殿下の、お怒りは、全部、誤解。

 ……クララさんの、目的——不明。ただし、私の破滅では、ない。

 ……問いは、開けたまま、進むわよ。

 ……そして、私に、与えられたものは——

 ……この、静けさと。四十三年と十七年。……この場の、全員の、耳。


 律子は、手の中の、扇子を、見た。


 ……行くわよ、律子。

 ……開廷しましょう。


 扇子が、閉じられた。


 ——パチン。


 乾いた音が、一つ、どよめきの、隙間に、落ちた。それだけの音が、なぜか、会場の、後ろの壁まで、届いた。


 どよめきが、揺らいで、細って、——途切れた。


 全員が、見ている前で、律子は、顔を、上げた。


 微笑んでは、いなかった。しかし、青ざめても、いなかった。それは、この一年、誰も、見たことのない顔だった。


「——弁明が、できるなら」


 声は、静かだった。


「これは、断罪ではなく、——法廷です」


 シャンデリアの下で、誰も、動けなかった。


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