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第119話 悪役令嬢の、知らない話


 その日の夕暮れに、学府の片端で起こった出来事を、律子は、知る由もなかった。


 ◇


 旧礼拝堂の脇の、木立は、葉を、落としきっていた。


 レオンハルト・リヒテンフェルスは、堂の軒下で、弓を、構えていた。


 冬の練習は、空気が締まって、音の輪郭が、立つ。彼の、好む季節だ。


 彼はリヒテンフェルス家の、三男。長男は、参謀本部付の頭脳。次男は、機甲部隊に所属する剣。軍人の家の、余りの三男は、剣の弓ではなく、バイオリンの弓を、持たせてもらっている。


 ただ、軍人の家は、彼の耳を、音楽の才だとは思っていなかった。


 ——音の魔法である。


 魔法登録の綴りには、こう、書いてある。音の知覚。聴覚の、強化。それだけ読めば、便利な耳だ。演奏家には、天恵だろう。


 実際は、少し、違う。


 彼が魔法を発動すれば、壁の向こうの口論も、話者の息遣いも、動悸の拍まで捉えることが出来た。軍人の家は、彼が魔法を磨いて、諜報員として活躍することを期待していた。本人が望むか望まないかの埒外で。


 レオンハルトは、日常的には魔法を発動しないが、それでも人より耳が良かった。そして、ふいに、魔法のかけらが降って来る時があった。


 半里先の、囁きが、降って来る。壁の向こうの、口論が、響き渡る。人が「誰にも聞こえない」と思って出す声ほど、まっすぐに、届く。……だから彼は、人気のない場所で、弾く。幽霊が出るという、この堂の裏は、彼には、ありがたい場所だった。


 ……幽霊は、噂話を、しないからね。


 音楽家の、最初の掟は、父の剣の掟より、厳しい。——聴いたものを、言いふらす者に、良い耳は、育たない。彼は、この掟で、生きている。気楽な三男坊の顔は、そのための、上着だった。


 その夕暮れも、彼は、弾いていた。


 声が、やって来たのは、二楽章の、途中だった。


 木立の向こう。裏手の、小道。声が、二つ。風は、こちらへ、吹いている。声の主たちの間では、内緒話の距離である。


 ——彼の耳にで、なければ。


「——それでね、カリスト様」


 女学生の声だった。知っている声だ。あの日、彼の練習を、知らずに、最後まで、聴いた人。呼吸が、変わりましたね、と、言い当てた人。


 その声が、今日は、半音、低かった。


「カリスト様の、魔法って……すごいん、ですよね。なんでも——取り消せる、って」


 弓が、弦の上で、止まった。


「らしいですよ」


 青年の声が、答えた。屈託が、なかった。恐ろしいほど、屈託が、なかった。


「僕の魔法は、すごいらしい。——使い方は、誰も、教えてくれませんが」


 小さな、笑いが、二つ。


 ……いまの問いは、旋律なら——どこにも、解決しない和音だ。

 ……お伽噺の口調で。憧れの口調で。

 ……でも、あの半音低い声は、憧れの声じゃない。あれは、楽譜をめくる前の声だ。次の小節を、もう、決めている人の声。


 会話は、冬の馬の話へ、流れた。厩舎の猫の話。他愛が、なかった。彼は、弓を、下ろしかけた。


 その時だった。


「——プルデンティア嬢は」


 青年の声が、言った。


「立派な方です。賢くて、正しくて、まっすぐで。……あの方の隣に立つと、僕は、自分が、よく出来た飾り物だと、分かる。誰もが、影でそう言っています。それは、仕方がないのです。本当のことだから」


 声は、静かだった。原稿を、読む声では、なかった。


「あなたと、いる時だけ、だ。……馬の話と、猫の話をして、笑っていられるのは。……僕は——プルデンティア嬢より、あなたに、惹かれています」


 軒下で、レオンハルトは、目を、閉じた。


 ……聴いてしまった。


 だが——この耳は、声だけを、聴くのではない。


 鼓動が、(とどろ)いた。


 女学生の、心臓の音。それまで、規則正しく、刻んでいた——半音低い声の間も、驚くほど、規則正しく、刻んでいた、その音が。


 乱れた。


 一拍、跳ねて。速く、なって。……速いまま、戻らなかった。


 ……計画の、拍じゃない。

 ……さっきまでの、あの規則正しさが、むしろ——構えていた人の拍だ。来ると、分かっていた人の。

 ……なのに、いま、乱れた。

 ……予定通りの言葉が、来て。予定に、なかった場所に、当たったんだ。


「……カリスト様」


 女生徒が、言った。半音低い声でも、いつもの明るい声でも、なかった。


「……わたし……」


 言葉は、続かなかった。


 沈黙。二つの鼓動。片方は、速いまま。もう片方も——青年の方も、速かった。


 やがて、どちらかが、笑った。つられて、もう一人も。ぎこちない、若い、笑いだった。声は、また、他愛のない方へ——逃げるように、他愛のない方へ——流れて、遠ざかり、木立の夕闇に、溶けた。


 レオンハルトは、軒下で、長いこと、動けずにいた。


 ……言わない。誰にも。掟だ。

 ……それに——何を、言うんだ? 「あなたの心臓が、乱れていました」と? ……それは、もう、密告ですら、ない。冒涜だ。

 ……ただ。

 ……僕の耳は、一度聴いた拍を、手放しては、くれない。

 ……あの規則正しすぎた拍も。跳ねた一拍も。……この先、あの人たちの、どんな声を聴いても、僕は、今日の拍と、比べてしまうだろう。

 ……厄介な耳だよ、本当に。


 彼は、弓を、構え直した。


 最初の音は、濁った。


 冬の軒下で、彼は、日が落ちるまで、調弦を、やり直していた。


 ◇


 その夜、女子寮の、三階の、角部屋では、消灯前の、ひそひそ話が始まっていた。


 寝台の上に、寮生が、三人。膝を抱えた輪の中心に、菓子の缶。話題は、順繰りに巡って——プルデンティアの、怪談に、行き着いていた。


「——で、相手の方、最後には、髪の毛が真っ白になって、震えてたんですって。模擬法廷で、よ? 練習で、よ?」


「聞いた聞いた。一つずつ、逃げ道を、閉めていくんですって。にこにこ、笑いながら」


「夜中の書庫にも、いらっしゃるらしいわよ。真っ暗な公宮に、灯りが、一つだけ、点いてて……」


「やだ、もう、やめてよ」


 きゃあ、と、小さな悲鳴が、重なって、笑いに、崩れた——そこへ、扉が、開いた。


 クララだった。


「あ、クララちゃん、遅かったのね」


「……はい。ちょっと、その……お散歩を」


 クララは、外套も、脱がずに、自分の寝台の端に、腰を、下ろした。頬が、まだ、赤い。冬の夕方の、寒さの色——だけでは、ないようにも、見えた。目が、どこか、遠い。


「もう、聞いてよ、いま、セヴェリーニ様の、怖い話、してたの」


「……セヴェリーニ、様の」


「そう。模擬法廷の……って、クララちゃん、聞いてる?」


「え、あ——はい。聞いて、ます」


 口ではそう答えたが、聞いていない返事だった。膝の上に、帳面を、抱えたまま、クララは、どこか、遠くを、見ていた。


 三人は、顔を、見合わせた。


 その中の一人が、輪から、身を、乗り出した。心配の色を、隠さない声で。


「……ねえ、クララちゃん。前から、聞こうと、思ってたんだけど」


「はい?」


「あなた、いつも、あの方の、お側に、いるでしょう。平気そうな顔で。……本当に、大丈夫なの?」


「……え」


「そうそう。時々、貴賓区に呼び出されているし……」


「今日だって、様子が、変よ。上の空で。……裏で、その、何か、させられてたり、しない? 怖くて、言えないだけじゃ、ないの?」


 部屋が、静かになった。


 クララは、口を、開きかけた。


 何かを、言おうとして。


 ——言えなかった。


 言葉の、代わりに、俯いた。膝の上の、帳面を、両腕で、抱え込むようにして。


「……やっぱり」


 誰かが、息を、呑んだ。


「そうなのね? やだ、クララちゃん、いつから——」


「泣き寝入りは、だめよ、そういうの。相手が、侯爵家だからって」


「でも、誰に、言うの? 先生? 揉み消されるわよ、きっと」


「——舞踏会が、あるじゃない」


 一人が、声を、低くした。


「学年末の、表彰舞踏会。学年中が、集まるのよ。先生方も、来賓も。……みんなの前なら、握りつぶせないわ」


「そうよ。事実を、言えばいいのよ。あったことを、順番に、そのまま」


「クララちゃんは、悪くないんだから」


 善意が、寝台の上で、次々に、手を、挙げていく。


 クララは、俯いたまま、動かなかった。


 帳面を、抱く腕に、少しだけ、力が、入った。


 消灯の鐘が、鳴った。


 ◇


 週が、明けた。


 貴賓区画の、律子の机に、正式の封書が、届いていた。


 厚い、上等の紙。学府の、紋章の、封蝋。


 ——学年末、表彰舞踏会の、案内である。


 一年の、学業を、修めた者たちの、総決算の夜。表彰。音楽。舞踏。学年の、全員が、集う。


 開けば、日付は、冬の、終わりの頃。


 そして、同封の、一枚。


 ——貴殿は、本年度、法学演習における、成績優秀者として、壇上にて、表彰される見込みである。当日は、その旨、お含みおきの上——


 ……あら。

 ……あらあらあら。

 ……壇上、ですって。


「お嬢様! それ、それ!」


 ジーナが、封書の紋章を、見つけて、飛んできた。


「舞踏会ですね!? ド、ドレス! ドレスの、ご用意を!」


「気が早いわよ」


「早くありません! お仕立てには、お時間が! ああ、どうしましょう、色は——冬の終わりだから——」


 ジーナは、もう、指を折って、数え始めている。


 ……ふふ。

 ……一年、ねえ。

 ……春に、入学して。模擬裁判をして、夏送りの大祭があって。秋に、エアルへ行って。冬に、書庫へ、通って。

 ……で、締めくくりが、舞踏会の、壇上、と。

 ……お友達は、相変わらずクララさん一人だけれど、

 ……悪くない一年じゃない。律子——いえ。

 ……プルデンティア・セヴェリーニ。


 ◇


 夜。灯りの下。


 目録に、頁が、立った。


 「マルクス・カンディドゥス:置換契約につき、所見を、聴取(学問の体裁。手の内、非開示)。回答の骨子——①全面否定、せず(売るものが命しかない朝の、実在。綺麗な死より、汚い生存)②薬と毒を分けるのは、成分でなく、分量の規則③『譲渡は通算一割まで。その一行が、法にあれば』④破綻判例、十七件、暗誦。全件、二口目以降。——止めるべき場所は、数えれば分かる場所にある、と」


 「同・所見:当職、衝撃。あの一行に、立った人、三人目。書式の中の良心、法案の中の遺言、——そして、貧しさの中から、自分の足で、歩いて来た人。……審議録を、読ませたいわ。第三条を、見せたい。まだ、見せない。私の草案と、一緒に、しかるべき日に。——当職の草案の、最初の読者:内定」


 「同・雑感:『あなたの問いは、いつも、後から、意味が分かる』ですって。……買われてるわね、私。……悪い気は、しない、これが」


 「模擬法廷・学年末最終回:勝訴。相手方、一年で、良い面構えに。——演習として、上々」


 「クララさん:傍聴、再び。筆記、熱心。質問、一件——訴えの、組み立ての、順序について。回答済み(絵を作る。事実を順に。求めることは、最後に一つ)。……良い質問だったわ。向いてるかも、しれないわね、あの子。——勉強熱心。結構なこと」


 「招待状:学年末表彰舞踏会。冬の終わり。当職、壇上表彰の、見込み、との由。——ドレス:ジーナ、既に、臨戦。……一年の、締めくくり。……楽しみに、しても、いいのよね、これくらいは」


 「草案:第三条の文言、両案併記のまま、越冬へ。舞踏会が、済んだら、決める」


 ペンを、置いた。


 窓の外は、静かだった。雪に、なるのかもしれない。


 足元の影が、机の端で、耳を、立てている。


「……舞踏会、ですって」


 律子は、影に、言った。


「あなたも、踊ったら。どうせ、足元に、いるんだから」


 影の耳が、ぴこん、と、揺れた。


 ……冬の終わり。

 ……壇上で、表彰されて。ドレスで、踊って。

 ……それで、二年目が、始まるのよ。

 ……良い春に、なるといいわね。


 律子は、蝋燭を、消した。


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