第118話 悪役令嬢、入場券を渡す
初雪は、夜のうちに、やって来た。
朝、丘は、薄い白に覆われていた。昼には、消える程度の雪だ。それでも、季節の頁が、一枚、めくれた音がした。山地の多いアルカディアでも、賢者学府は標高がある。それは、これから訪れる厳しい冬の先駆けだった。
図書室の、大きな暖炉には、朝から、火が、入れられた。
律子は、返却する判例集を、二冊、抱えて、閲覧室の奥へ、歩いた。
窓際の、写本の席に、マルクスが、いた。
外套を着たまま、指先の出る手袋で、ペンを、動かしている。傍らに、古代語の、分厚い学術書。写本の、仕事中だった。インクの染みた指が、寒さで、少し、赤くなっていた。
……ちょうど、いいわ。
……前から、この方に聞きたかった、問いがある。
……手の内は、見せない。エアルへ行ったことも、クララのご両親の契約のことも。
……ただ、問いを、一つ、置く。それで、測れるものを、測るだけ。
「——ご精が、出ますのね」
マルクスが、顔を上げた。ペンを、置く。
「セヴェリーニ様。……返却で、いらっしゃいますか」
「ええ。それと——お忙しいところ、恐縮ですけれど。マルクスさんに、一つ、伺いたいことが、ございますの」
「私に、ですか」
「学問の、お話として」
律子は、返却する二冊を、卓の端に、置いた。置換契約の、判例集である。マルクスの視線が、一瞬、その背表紙を、なぞった。
「——置換契約を」
律子は、言った。
「マルクスさんは、どう、お考えになる? ……ことに、寿命の、売買を」
沈黙が、あった。
暖炉の薪が、一つ、鳴った。
マルクスは、すぐには、答えなかった。答えを、探しているのでは、なかった。答えの、出し方を、量っている沈黙だった。
「……九冊、お読みになった方から、その問いが、来ましたか」
「読んだから、こそですわ。判例は、事件の、済んだ後の顔しか、見せてくださらないの。……済む前の話を、伺いたいのよ」
「なるほど」
マルクスは、ペンを、ペン置きに、まっすぐ、直した。
「では、正確に、お答えします。——私は、あの契約を、全面的には、否定しません」
……。
「授業でも、申し上げましたが、奴隷に、なってでも、生き延びる道は、道だと。……綺麗な言葉では、ありませんが、私は、そういう出の、人間です。売るものが、命しか、ない朝が、この世に、あることを、知っています」
彼の声は、静かだった。憐れみの色も、怒りの色も、なかった。天候を、報告する声だった。
「その朝に、命を、売る道まで、取り上げれば——その人は、綺麗なまま、死にます。私は、綺麗な死より、汚い生存を、推す側です」
……。
……ええ。あなたは、そう言う方よ。知ってたわ。
……でも、その先を、聞かせて。
「ですが」
マルクスは、続けた。
「良い薬も、量を、誤れば、毒になります。そして、薬と毒を、分けるのは——成分では、ありません。分量の、規則です」
「……分量の、規則」
「はい。あの契約に、欠けているのは、契約の、出来では、ない。書式は、むしろ、完璧に、近い。欠けているのは——外側の、たった一行です」
マルクスは、窓の外の、雪の残りを、見た。
「たとえば、です。——譲渡は、通算で、一割まで。それを超える部分は、効力を、持たない。……その一行が、法に、あれば」
……。
……。
「売って、生きる道は、残ります。売り尽くして、死ぬ道だけが、消える。……薬は、薬のまま。毒にだけ、栓がされる」
マルクスは、律子に、目を、戻した。
「私は、写した判例を、忘れません。忘れられない、性分ですので。——譲渡人の側が、破綻した事件を、私は、十七件、諳んじられます。十七件、全件に、共通点が、一つ、あります」
「……伺うわ」
「どれも、二口目より、後です。寿命を売っても、一口で、破綻した者は、一人も、いない。破綻は、いつも、累積から、来る。……つまり、止めるべき場所は、最初から、分かっているのです。数えれば、分かる場所に、ある」
マルクスは、そこで、少しだけ、声を、落とした。
「——なぜ、その一行が、ないのでしょうね。この国に。百年も」
……。
……。
……マルクスさん。
……あなた、アリアドネ法案を読んでいないのよね。
……その一行が、百年前に、書かれていたことを。第三条という、番号つきで。
……三度、握りつぶされたことを。
……あなたは、魔法評議会の審議録を、読んでいない。棄却の配列も、知らない。
……知らないで、——同じ結論に行きついている。自分の足で、そこまで、歩いて。
……書式の中に、一人。法案の中に、一人。……そして、いま、目の前に、三人目。
……。
……言いたい。本当は、いま、すごく。「あったのです、その一行が」って。
……でも、まだ。
……この話の続きは、私の草案と、一緒に、お見せする。しかるべき日に。
「……セヴェリーニ様?」
マルクスが、少し、首を、傾げた。
「何か」
「いいえ」
律子は、扇子を、開いた。口元が、勝手に、緩みそうだったからである。
「——良いお答えを、伺ったと、思って」
「それは、何より」
マルクスは、真顔で、言って、ペンを、取り直した。
「……問いの、意図は、伺いません。あなたの問いは、いつも、後から、意味が、分かるので」
……あら。
……買われてるわね、私。
「お仕事の、お邪魔を、いたしました」
「いえ。——良い問いは、手の、休憩になります」
律子は、一礼して、写本の席を、離れた。
暖炉の火が、鳴っていた。
……合格、いえ、合格どころじゃないわ。
……この人とは、一緒に闘える。
◇
数日後。法学演習の、模擬法廷の、学年末最終回が、あった。
律子は、訴える側の、代理人役だった。争いは、売買の、瑕疵の事件。相手方の同級生たちも、この一年で、グラティアヌス教授にずいぶん鍛えられた。良い勝負に、なった。
傍聴席に、クララが、いた。
……あら。いらしてる。
……前回も、いらしたわね。拍手を、頂いたっけ。
クララは、一番前の席で、小さな帳面に、熱心に、何かを、書きつけていた。律子が、証拠を、順に、示すたび。相手方の主張を、番号を振って、潰すたび。最後に、求める判決を、一つ、明確に、言い切った時も。
鉛筆が、動いていた。
演習が、跳ねた後、クララは、廊下で、待っていた。
「セヴェリーニ様! すごかったです、今日も!」
「ありがとう。……熱心に、書き物を、なさってたのね」
「あっ、は、はい。あの……変な質問、してもいいですか」
「どうぞ」
「訴える側の人って、どうして、ああやって——一つずつ、順番に、言うんですか? 最初に、いちばん怒ってること、言っちゃえばいいのに、って、わたし、思っちゃって」
……あら、可愛い質問。
……でも、良い質問よ、それ。核心なの、実は。
「怒りから、始めるとね、聞いている人には、怒りしか、届かないの。ああ、あの人は怒っていると思われるだけ」
律子は、歩きながら、答えた。
「順番に、言うのはね、聞いている人の頭の中に、絵を、作るためよ。事実を、起きた順に、一つずつ、積む。絵が、出来上がったところで——最後に、求めることを、一つだけ、言うの。そうすると、聞いた人は、自分で、答えに、着くのよ。同じ怒りに、たどり着かせてあげるの」
「絵を、作る……」
クララは、立ち止まって、帳面に、それを、書いた。一字一字、丁寧に。
「事実を、順に。最後に、求めることを、一つ……」
「ふふ。熱心ね」
「え、あっ、そのっ——お、面白くて! 法律のお話!」
「良いことよ。……あなた、向いてるかもしれないわ、その道」
「そうですか。えへへ……」
クララは、帳面を、胸に、抱えて、笑った。
……勉強熱心な子は、好きよ。
……冬の間に、また、一つ、伸びるわね、この子。




