第117話 悪役令嬢、研究室へ行く
教授は、律子の顔を、しばらく、見ていた。理解の速度を、測る目だった。
それから、部屋の隅へ、顎を、向けた。
「おい。——三番」
隅の学生が、顔を上げた。器具を、置く。頷きも、返事も、しなかった。ただ、立ち上がって、作業台の水差しから、手桶に、水を、汲んだ。
すると、手桶の水が——昇った。
音もなく。零れる一滴もなく。手桶の水が、そっくり、宙に、球になって、浮かんだ。天窓の光を受けて、揺れる、水の球。
学生が、指を、一つ、回した。
球の、内側だけが、回り始めた。
外の輪郭は、静止したまま。硝子玉のように、動かない。その内側で、水流が、渦を巻いて、光の筋を、ゆっくり、回している。外は完全な静止、内は完全な運動。二つが、同じ一つの球の中に、同居していた。
……。
……なに、これ。
……派手じゃ、ないのよ。爆発も、閃光も、ない。
……でも、これ——制御の、化け物だわ。
……境目、よ。静止と、運動の、境目を、水の中に、引いてる。一枚の、見えない膜で。……膜の内と外で、別の規則を、同時に、走らせてる。
……どれだけの、練習すれば、この精度を。
学生が、指を、止めた。渦が、静かに、解ける。球が、崩れず、そのまま、手桶に、降りた。一滴も、溢れなかった。
学生は、何事もなかったように、作業台に、戻った。
「——三年目で、これだ」
教授が、言った。誇るのでも、褒めるのでもない。事実を告げただけだった。
……三年目で、これ。
……受講者は、毎年、数人。その数人が、化ける——ジーナの噂、その二。
……実物を、見たわ、いま。
……この教授は、教える方でも、あるのね。……顔一つ、変えない師弟だけど。
「……勉強に、なりました」
律子は、言った。本心が、声に、出すぎない程度に。
教授は、もう、書物に、戻りかけていた。が、扉に向かう律子の背中に、初めて、向こうから、言葉が、来た。
「——君」
「はい」
「君のそれは、使うたび、細るだろう」
……。
「……ええ」
「記録は、取っているか。使った量と、減り方の」
「——目録に。毎晩」
「そうか」
教授は、頷きも、しなかった。
「見せろ、とは、言わん。続けろ。……数字のない現象は、現象ですら、ない」
「……はい」
「以上だ」
書物が、開いた。会見は、終わった。
律子は、一礼して、扉に、手を掛けて——
一瞬だけ、止まった。
……聞けるのよね、いま。
……この方なら、きっと、ご存じだわ。殿下の無効化魔法の使い方を。評議会が、なぜ、あの方を、あそこまで、警戒するのか。
……聞けば、分かる。聞かれたことには、答える方だもの。
……。
……でも、だめ。
……あれは、殿下の、秘密。持ち主の、いる秘密。
……持ち主に、聞かれてもいないのに、横から、開ける趣味は、ないわ。
……詮索、せず。
律子は、扉を、開けた。
出しなに、隅の学生と、目が、合った。
学生は、小さく、会釈をした。丁寧な、無言の会釈だった。
その目が、一瞬だけ——律子の、足元へ、落ちた。
影の上を、撫でて。それから、何もなかったように、作業台へ、戻った。
……。
……いまの子、私の足元を、見たわね。
……お師匠様の、独り言を、聞いてる耳、かしら。
……。
……保留。
律子は、外へ、出た。木立の間から、夕方の光が、差していた。
◇
旧観測堂から、貴賓区画への、帰り道は、放牧場の、柵の脇を、通る。
夕方の、冷たい風の中に、人影が、一つ、あった。
カリストだった。
従者を、離れた場所に、待たせて、一人、柵に、もたれている。乗馬服ではない。馬に、乗りに来たのでは、ないのだ。ただ、柵に、腕を載せて、暮れていく放牧場を、見ている。
その、肩の線。
……硬いわね。
……壇上の姿勢とも、違う。あれは、作った、まっすぐ。いまのは——持て余してる、まっすぐよ。
……殿下は、馬に、会いに、いらしたんじゃ、ないわ。
……逃げて、いらしたのよ、たぶん。人の声の、しない場所へ。
……渡り廊下の、あの声から。……そうよね。上手に仕舞っても、消えはしないもの。
律子が、そのまま、通り過ぎようとした、時だった。
厩舎の方から、バケツを提げた、小さな人影が、出てきた。
クララだった。厩舎の手伝いの、帰りらしい。柵のカリストに、気づいて、ぱっと、頭を下げて——それから、何か、言った。
風で、声は、届かない。
クララが、バケツの中を、見せた。カリストが、覗き込む。クララが、何か、身振りをする。両手を、広げて、それから、ぱくっ、と、閉じる仕草。馬が、何かを、食べた話らしい。
カリストの肩から、す、と、力が、抜けた。
笑ったのが、遠目にも、分かった。
……。
……ああ。
……避難所。
……あの子の前でだけ、あの方の肩は、息をするのよ。
……比べない子。台本の、要らない場所。
……。
……良かったわね、殿下。逃げた先に、ちゃんと、人がいて。
……配役表に、印。「柵:良好」——と。
……。
……あら、二度目ね、この印。
……順調、順調。
律子は、二人に、気づかれない道の側へ、それて、歩いた。
夕方の最後の光が、放牧場の柵の影を、長く、地面に、引いていた。
◇
夜。灯りの下。
目録に、頁が、立った。
「渡り廊下:殿下、陰口を、実聴(『腹話術の人形』)。挙動——袖口を、一度。以外、完璧。……完璧なのが、いっそ、痛ましいのよ。声、掛けず(二重に、しないため)。
「茶会(定例):殿下、平常、完璧。——例外、半瞬。『評議会のお話は、私には、難しいかな』。声だけ、定型の外。……意味、取れず。分類、できず。保留。……保留の棚の、殿下の段が、少しずつ、増えていくのよね」
「テオフラストゥス教授、訪問(旧観測堂)。火影の意味——『外の光の不在ではなく、内の光の投影。光源が、君の内側にある』。……サントーニ先生と、符合、二人目。核心は、依然、宿題」
「同・機構(当職の推理、七割正解との由):重さは、消えない。払われる。土間の鉄=押し先。押した分だけ、術者が軽くなるのは、副作用(設計にあらず、欠陥)。教授は、常時微量を押し続けて、反動を、一定に、均している。——欠陥を、姿勢に、した方」
「同・金言:『副作用は、消すものではない。測って、飼うものだ』。——当職の三年の手探りに、他人の口から、初めて、名前がついた。……目録は、続ける。数字のない現象は、現象ですら、ない、そうよ」
「同・弟子:一名、実見。水球の、内回し(外殻、静止。内部、運動。境界、一枚)。三年目、との由。——制御の、化け物。……『その数人が、化ける』の噂、実証。教える方でも、あるのね、あの方」
「柵:殿下、単独、先着(逃避と、見る)。後、クララさん。肩の力、抜けるのを、確認。——避難所、機能。配役、良好。印、二度目」
「草案:第三条の席、設営済み。文言、調整中。『超ゆる部分に付き、無効』——議長の、優しい牙のまま、いくか、当職の牙に、研ぎ直すか。——両案、併記で、寝かせる」
ペンを、置いた。
足元の影が、机の端で、耳を、立てている。
「……『測って、飼う』ですって」
律子は、影に、言った。
「私たち、間違ってなかったみたいよ、やり方」
影の耳が、ぴこん、と、揺れた。
「……ふふ。褒められたわけじゃ、ないんだけどね」
律子は、目録を、閉じた。




