第116話 侯爵令嬢、憂鬱を知る
秋が、深くなった。
朝の丘は、霜の匂いがする。講義棟の窓は、朝のうち、白く曇っていて、学生たちの外套が、日ごとに、厚くなった。
その日、律子は、講義の帰りに、公家の書庫に持っていくノートを、取りに戻るところだった。渡り廊下の、角の手前。
角の向こうから、声が、聞こえた。
男子学生の、二人か、三人。声を、落としているつもりの、落ちていない声。
「——だから、うちの姉が、言うわけよ。あの婚約は、絵で見ると、傑作だって」
「絵で?」
「侯爵令嬢の方は、あの通りの、才媛だろ。模擬裁判の。で、殿下ときたら——挨拶も、お答えも、ぜんぶ、評議会の、書き付け通り。あれじゃ、花嫁の隣に立つのは、腹話術の人形だ」
低い、笑い。
……。
律子は、足を、止めていた。
そして、見た。
渡り廊下の、反対の端。柱の、陰に、
カリストが、立っていた。
従者は、少し離れて、気づいていない。カリスト一人が、ちょうど、角の声の、届く場所に、いた。
彼は、動かなかった。
表情も、変わらなかった。壇上の、あの、完璧な姿勢のまま。ただ、手袋の指が、一度だけ、袖口を、直した。直す必要のない、袖口を。
それから、彼は、何も聞かなかったような足取りで、歩き出した。声の主たちとは、逆の方へ。背筋は、まっすぐだった。教えられた通りに。
……。
……行きなさい、律子。声を、かけては、だめ。
……いま、私が、出て行ったら——「聞かれたことを、知られた」と分かる。二重に、きつくなるの。
……それに。
……腹話術の人形。……の、隣の花嫁は、才媛、と。
……比較の、才媛は、——私。
……あの噂の、燃料の半分は、私の評判だわ。
……。
……後味が、悪いわね。
律子は、彼の背中が、渡り廊下の向こうに消えるまで、柱の陰から、動かなかった。
◇
二日後は、月に一度の、お茶の日だった。
婚約者としての、定例のイベント。貴賓区画の、小さな茶室。焼き菓子。決められた、一刻。
カリストは、いつも通りだった。
いつも通り、完璧だった。天候の話。学業の話。律子の健康への、気遣い。どの言葉も、正しくて、温かい形をしていて、——原稿の匂いがした。
……今日も、台本は、快調ね。
……渡り廊下で効いた噂話は、顔の、どこにも出ていない。
……大したものよ、その仕舞い方。……褒めていいのかは、別として。
話題が、律子の近況に、及んだ。
「書庫へ、通われていると、母から、聞いています。……議事録を、読まれているとか」
「ええ。百年ぶん、ございますの。当代の年度から、遡って」
「熱心なことです。……その、どうです。何か、面白いものは」
「先日は、古い法案の、条文を。それは、見事な、一行を、見つけましたのよ。それから、当代の議事も。動議の、通り方には、議場ごとの、癖が、ございますのね。評議会の議事は——」
と、そこまで、話した時だった。
「——評議会のお話は」
カリストが、言った。
「私には、難しいですね」
……。
声が、違った。
その瞬間だけ。原稿の外の、声だった。作った柔らかさの、ない声。窓の外を見るような、遠い、平らな声。
律子が、瞬きを、一つ、する間に。
「——いえ。失礼。不勉強なもので、お恥ずかしい。どうぞ、続きを。あなたの、お話は、面白い」
いつもの声が、戻っていた。完璧な、婚約者の声が。
……。
……いまの。
……なに、いまの。
……「私には、難しいですね」。……謙遜の、だけれど、何か…。
……この声は、定型の外に、いた。
……難しい、が、本当に、聞こえた。何かを……諦めたような。寂しいような。
……。
……分類、できないわ。
……保留。
お茶は、定刻に、終わった。カリストは、完璧な礼で、律子を、送った。
◇
その足で、律子は、中庭の外れへ、向かった。
前から、決めていた訪問である。渡り廊下と、お茶会で、胸の中が、ざらついている日に、ちょうど、当たっただけだ。
……宿題を、片付けに、行くのよ。
……「火影」。あの日から、目録の、宿題の欄に、居座ってるんだから。
目指す先は、中庭の外れの、木立の陰に、あった。
古い、石造りの、平屋。丸い屋根に、天を仰ぐ、細い切れ込み。昔は、星を測る建物だったという。——旧観測堂。いまは、魔法学の、テオフラストゥス教授が、一人で、使っている。
……空を測る建物に、宙に浮く方が、お住まい、と。
……出来すぎた符合ね。
扉の前に、空の盆が、一つ、置いてあった。
律子は、扉を、叩いた。
「——開いている」
中の声が、言った。入れ、とは、言わなかった。開いている、という事実だけを、告げた。
律子は、入った。
中は、思ったより、広く、高かった。丸屋根の下の、一つきりの部屋。壁という壁に、書物。天窓の切れ込みから、秋の光が、一筋、斜めに、落ちている。
そして、床は——石の、土間だった。
その土間の、あちこちに、鉄の塊が、沈んでいた。
黒い、四角い、鉄の塊。半分ほど、石にめり込んでいるもの。三分の一のもの。窓際の一つは、ほとんど、土間と、平らになっている。沈み方に、深い浅いが、ある。古い沈みと、新しい沈み。
部屋の隅に、もう一人、いた。
上級生らしい、女子学生だった。作業台に向かって、黙々と、何かの器具を、磨いている。律子が入っても、顔も、上げなかった。
部屋の主は、書棚の上の空中に、いた。
浮いたまま、あぐらのような姿勢で、書物を、読んでいる。こちらを、見もしない。
「あの、先日は——」
「用件」
「……伺いたいことが、ございまして。先日、仰いました、火影、という言葉の、意味を」
「言った通りだ」
教授は、頁を、繰った。
「影は、外の光の、不在だ。君のは、違う。内の光の、投影だ。——光源が、君の内側に、ある。それだけのことだ」
「……内側の、光源」
「それ以上は、聞かれていない」
……はい、そこまで、と。
……聞かれたことしか、答えない方。噂の通りね。
……でも、二人目よ。「内側から」——サントーニ先生と、同じ場所を、指す方が、二人目。
律子は、頷いて——それから、もう一度、土間を、見た。
深い沈みと、浅い沈み。
……。
……ジーナの噂の、実物。
……解明してみたく、なるじゃないの、こういうの。
「——先生。この鉄球について、推論をお話してもよろしいですか」
頁を繰る手が、止まった。
「ほう」
「重さは、消せませんわ。魔法でも。……ですから、先生は、ご自分の重さを、消していらっしゃるのでは、なくて——払って、いらっしゃる。押す魔法の、反動で、ご自身が、軽くなる。押し先が、——あの、鉄」
沈黙が、あった。
書物が、初めて、閉じた。
「……七割、正解だ」
「七割」
「押した分だけ、術者が軽くなるのは、この魔法の、副作用だ。設計では、ない」
教授は、初めて、律子の方へ、体を、向けた。浮いたまま。
「未熟な重力魔法使いは、敵を、床に、叩きつけるたび、自分の足が、浮く。狙いが、流れる。撃つほど、立てなくなる。——欠陥だよ、本来は。この魔法は、欠陥ごと、生まれてくる」
「……その、欠陥を」
「均した」
教授は、土間の鉄を、顎で、示した。
「常時、微量を、あれらに、押し続けている。寝ている間も。反動は、常時、一定の、軽さになる。荒れた反動を、飼い慣らせば、——姿勢になる」
……。
「副作用は、消すものではない」
教授は、言った。講義の口調では、なかった。ただの、事実の口調だった。
「測って、飼うものだ」
……。
……測って、飼う。
……。
……それ。
……それ、私が、ずっと、やってきたことだわ。
……写しは、切り札。付箋は、日常。回数を、絞って。朝、濃さを、確かめて。使った夜は、目録に、量を、書いて。
……手探りで、名前もなく、やってきたことに——いま、名前が、ついたのよ。
……この方、私の、百歩先を、歩いてらっしゃるんだわ。同じ道の。




