第115話 悪役令嬢、宙から査定される
翌日の、昼下がりだった。
講義棟から、書庫へ向かう、中庭の道。秋の低い日が、律子の影を、前に、長く、伸ばしていた。
その影の、中に。
ふ、と。
もう一つの、人影が、重なった。
……え。
頭の形。肩。——人の影。私の影の、内側に。真上から。
真上には、誰も、いない。いるはずが、ない。ここは、吹き抜けの、中庭で——
影が——律子自身の影が——反応した。輪郭が、硬くなる。重なった人影から、身を、引くように。
……影さん、あなたが、先に、動くの!?
律子は、声より、先に、上を、見た。
建物三階分の、高さに。
男が、浮いていた。
……宙を歩いている。
……魔法学園とはいえ、こんな人がいるんだ。
痩せた、白髪まじりの男が、腕を組んで、空中に、立っていた。その周りに、開いた書物が、三冊、ゆっくりと、回っている。ガウンの裾が、風もないのに、静かに、揺れていた。
男は、律子を、見ていなかった。
律子の、足元にある影を、見ていた。
「——動いたな、いま」
男は、言った。誰に、というわけでもない、独り言の声量なのに、なぜか、はっきり、届いた。
「君の意思より、先に、だ」
……。
……見られた。
……影の、自律。私が、隠してきたものを。誓紙に書くのを避けたものを。
……真上から、三秒見ただけで。
男が、少し、高度を、下げた。建物の二階分。書物が、一冊、閉じて、脇に、退く。
「ふむ」
男は、初めて、律子の顔を——見なかった。まだ、足元を見ていた。
「君の影は、——重いな」
「……重い、と、仰いますと」
「影は、光の不在だ。不在に、質量は、ない」
男は、面倒くさそうに、言った。当たり前のことを、わざわざ言わされている、そんな顔だった。
「だが、君のそれには、ある。微かだが、確かに。……不在では、ない、ということだ」
……。
……何を、言っているの——
「ただの影ではないな、それは」
男は、結論だけを、置いた。
「——火影だ」
「……ほかげ」
「内から、灯って、映る、影」
それだけ、だった。
男の目から、す、と、興味の色が、引いていった。潮が引くように。書物が、また、開いて、男の顔の前に、戻る。男は、読みかけの頁に、目を落としたまま、ゆっくりと、上昇を、始めた。
「あ、あの——」
返事は、なかった。
ガウンと、三冊の書物は、屋根の稜線を、越えて、秋の空に、溶けるように、見えなくなった。
中庭に、律子と、律子の影だけが、残った。
……。
……。
……なんだったの、いまの。
律子は、その場に、立ち尽くしていた。心臓が、遅れて、うるさくなってきた。
……私の、一番の秘密を。
……通りすがりに、三秒で見抜いた。
……そして——もう、興味を、失くしたのよ。
……敵? 違う。あの引き方は、敵の引き方じゃない。味方? まさか。
……分類が、ないわ、私の表に。あんな存在の、置き場所が。
……それに。
……ほかげ、って。
……「内から、灯って、映る、影」——
……サントーニ先生も、仰った。「お嬢様の影の光は、内側から出ている」って。
……同じ場所を、指してる。別の言葉で。
……火影。
……なぜかしら。初めて聞いたのに、——聞き覚えの、ある気がしたのは。
◇
貴賓区画に、戻るなり、律子は、ジーナに、聞いた。宙に浮かぶ男に、心当たりは、あるかと。
あった。即答だった。
「テオフラストゥス教授です!」
「……教授」
「魔法学の! 寮で、有名なんです。『宙を歩く先生』って。あ、正確には、歩かないで、浮いたままなんですけど、すーっと」
ジーナは、身振りつきで、すーっと、を再現した。
「講義がですね、難しすぎて、聴いてる学生さんは、毎年、数人しか、いないんですって。でも、その数人は、みんな、すごい魔法使いに、なるって。あと、離れにある研究室から、ぜんぜん、お出にならなくて、お食事も、扉の前に、置いておくんだそうです」
「……詳しいわね、相変わらず」
「寮の洗濯場は、情報の泉です! あとあと、これは、噂なんですけど——教授の研究室、床が、あちこち、沈んでるんですって。鉄の塊が、めり込んでて、動かせないとか。お掃除の方が、こぼしてました」
……床に、沈んだ、鉄。
……重力を、そこに、置いてるのね、あの方が、浮いてる分の。
……自分の部屋に。自分の、持ち物に。
……誰にも、預けずに。
……。
……ふうん。
「ジーナ。その先生の噂、続きが、あったら、また、教えて」
「お任せください!」
◇
机の上に、手紙が、届いていた。
差出人の名を見て、律子は、自然に顔が緩んだ。リミニの、キアラからだ。
封を、切った。
——プルーへ。
——学校は、面白いわ。商法って、意地悪の百科事典ね。毎日、賢くなってる気がする。悪い方に。
——それとね、聞いて。父から、面白い仕事を、任されたの。学生の身でよ? 信じられる? 中身は、まだ、内緒。今度、見せたいものが、あるの。
——落ち着いたら、そちらへ、遊びに行くわ。ジーナさんに、よろしく。
——追伸。新しい変顔を、開発したわ。会う日まで、取っておく。楽しみになさい。
……ふふ。
……ふふふ。
……「意地悪の百科事典」。言うわね。
……面白い仕事、ですって。学生の身で。
……何かしらね。……聞かないわよ。あなたが、見せたくなったら、見る。
……変顔の、新作まで、ある。
……楽しみに、しておこうじゃないの。
律子は、手紙を、良いものを入れている引出しに、しまった。
◇
夜。灯りの下。
目録に、新しい頁が、立った。
「書庫、通い、継続。議事録、直近五年分、読了。並行して、草案の校正、第三条まで——審議録の『殺しの指摘』への耐性、付与中」
「アリアドネ法案・第三条(譲渡の限度):通算一割・超過部分の一部無効。——エアルの書式の『通例の一割』と、同じ一行。書式の中の良心と、法案の中の遺言。二人の、同じ一行。三度、つぶされた方の一行を、当職、継承す」
「換算、私用(記録のみ):仮に第三条が法であれば、通算一割を超える契約の、超過部分は、無効。——仮に、の話は、目録に、書かない主義だけれど。今夜だけ、例外」
「発見・議事の癖:ステッラート議員の動議、五年で九度、全て採決の直前。揉まれず、票になる位置。議長の頃合いの癖を、風上から、使う型。議員歴七、八年にして、議場の呼吸の使い方、老練。——型の記録まで。評価は、しない。残り九十五年分を、読んでから」
「馬房の柵:クララさんと、殿下。原稿のない顔、確認。——配役、良好。印」
「テオフラストゥス教授(魔法学):中庭にて、遭遇。浮遊。真上より、当職の影の自律を、三秒で、看破。——所感、割愛」
「同・発言:『君の影は、重い』『影ではない。火影だ』『内から、灯って、映る方の、影』。——サントーニ先生の所見と、符合。……火影。分類保留の欄に、初めて、他人の字で、何か、書かれた気分」
「同・雑報(ジーナ経由):研究室の床に、鉄、沈む。浮く重さの、置き場所と、推定。——自分の持ち物の、内側で、勘定を、完結させてる方。……嫌いに、なれない型」
「キアラ:書状、着。新事業? 詳細、不明のまま、預かる。変顔の新作、あり、との由。——楽しみ、の欄に、記入」
ペンを、置いた。
足元の影は、もう、すっかり、色が、戻っている。机の端で、耳が、ぴこん、と、立った。
「……ねえ、あなた」
律子は、影に、聞いた。
「火影、ですって。——聞き覚え、ある?」
影の耳が、ゆっくり、傾いだ。答えは、なかった。
「……そう。あなたも、初耳の顔を、するのね」
律子は、少し笑って、灯りを、引き寄せた。
蝋燭の火が、揺れて、影も、揺れた。
……内から、灯って、映る方——
……ま、いいわ。宿題の欄が、また、一つ、増えただけ。
律子は、蝋燭を、消した。




