第114話 悪役令嬢、書庫に通う
旅から帰って、十日が、経った。
学府の丘は、すっかり、秋の色だった。朝の空気が、硬くなり、講義棟の暖炉に、火が入り始めた。
そして、律子の一日に、新しい時間が、できていた。
午後の講義が終わると、坂を下りて、公宮へ、通うのである。
公家の家令は、三度目の訪問から、何も聞かなくなった。四度目には、書庫の鍵と一緒に、膝掛けが、出てきた。今日は、それに、白湯が、ついた。
「……恐れ入ります」
「冷えますので」
家令は、それだけ言って、戸を、閉めた。
書庫は、今日も、静かだった。
律子は、窓際の机に、灯りを、つけた。埃の匂い。古い革の匂い。百年ぶんの、魔法評議会の議事録が、棚の中で、眠っている。
……さて、皆さま。ごきげんよう。
……今日も、伺いますわよ。
◇
読み方は、決めてあった。
新しい年度から、遡る。現役の顔ぶれの、発言と、動議と、採決を、頭に入れるのが、先。百年前は、その後。
……歴史は、手前から、掘る。地層と、同じね。
机の上には、議事録の綴りと、もう一冊——律子自身の、草案の綴りが、並んでいる。
……アリアドネ議長の審議録は、私の草案の、砥石。
……「正しい指摘の、悪意の配列」。あの三度の棄却で、法案つぶしに使われた指摘を、一つずつ、私の条文に、当てるのよ。
……定義が曖昧——直したわ。施行の費用——付表を、足したわ。既存の登録制度との整合——ここは、まだ、甘い。
……つぶされた法案は、二度と、つぶされないように、書き直す。
ペンを、置いて、白湯を、一口。
◇
それから、律子は、もう一つの、宿題に、手を、つけた。
エアルから、持ち帰った、宿題である。
……「通例の一割を、超えざることとし」。
……寿命を扱う置換契約の上限。
……守る係のいない、上限。判例集九冊でも、争われた形跡は無かった。
……でもね。百年の間に、誰か一人くらい、言い出さなかったの? 「これを、法律に、しましょう」って。
……確かめる場所は、——ここに、あるのよ。
アリアドネ法案の、審議録。三度の棄却の、綴り。
律子は、これまで、棄却の側——つぶすための指摘——ばかりを、読んできた。今日は、つぶされた側を、読む。法案の、条文そのものを。
第一条、定義。第二条、登録。第三条——
指が、止まった。
——第三条(譲渡の限度)。「何人も、その寿命の譲渡は、通算して、十分の一を、超ゆることを得ず。之に反する契約は、超ゆる部分に付き、無効とす」
……。
……あった。
……あった、ここに。
……ホフマン家の箪笥の契約書。あの一行——「通例の一割」。
……アリアドネ議長は、その通例を、条文に、していたんだわ。百年前に。しかも、ちゃんと、牙がある。——いえ、牙じゃない。「超ゆる部分に付き、無効」。超えた分だけ、なかったことにする。売り手を、罰しない書き方。売った人が、困らない無効。
……なんて、優しい牙かしら。
……そして、それすらも、三度、つぶされた。
……ということは。
……あの書式の「通例の一割」の一文は——書式設計者の、良心の残り火。
……この第三条は——その良心を、法にしようとした、遺言。
……二人、いた。同じ一行を、書こうとした人が。書式の中と、法案の中に。
……そして、法律になっていれば、ホフマン家の、あとの二冊の契約は——通算が一割を超えた部分を、取り消し出来る。
……。
律子は、ペンを、置いた。窓の外を、少し、見た。
……落ち着きなさい。
……法律に、なっていたら、の話よ。なっていないの。三度、つぶされて。
……だから、つぶした配列を、私は、読んでいる。
……第三条。あなたは、四度目こそ、通してみせる。
……私の草案の、しかるべき場所に、お席を、ご用意するわ。——文言は、磨かせて頂くけれど、志は、頂くわよ、議長。
◇
律子は、息を、整えた。
今度は、魔法評議会の現役の年度の議事録に、戻った。
読み進めるうちに、指が、止まる箇所が、増えていった。
……また、だ。
……ステッラート議員の、動議。
……位置が、いつも、——同じ。
議事録の中で、動議は、議論の途中に、出される。誰かが論を立て、誰かが返し、その流れの中に、動議が、差し込まれる。早すぎる動議は、揉まれて、形が変わる。遅すぎる動議は、次の会期に、送られる。
ステッラートの動議は、——いつも、採決の、直前に、出ていた。
議論が尽きて、誰もが、言うことを言い終えて、議長が、頃合いを計る、その手前で、するり、と。そして、揉まれずに、そのまま、票に、なる。
……一度なら、偶然。三度なら、上手。
……この五年分で、——九度も。九度、全部、同じ位置。
……型だわ、これは。
……バルディ議長の、頃合いの計り方——あの方、議場の空気で、採決の時機を、決めてらっしゃるのね、たぶん。議事録の間から、それが、透けて見えるもの。
……その癖を、風上から、使ってる人が、いるのよ。議長が「そろそろ」と思う手前が、揉まれない特等席だって、知ってる人が。
……人事の告示から数えれば、議員歴は、七年か、八年。
……若いのに、議場の呼吸の使い方だけ、妙に、老練ね、ステッラート議員。
……で、この方が、その特等席で、通してきたのは、何なの。
律子は、九度の動議の、中身を、見た。まず、一本目。
——「奨学生の写本料に関する規程の改正」。写本料の、引き下げである。
……あら。
……良い、規則。
もう一本。
——「登録閲覧手続の一本化に関する規程」。ばらばらだった閲覧の窓口を、一つに、揃える。
……手続の、合理化。……これも、まとも。
……というより、上手ね、条文が。過不足がなくて。
……。
……なによ。
……揉まれない席で、通してるのは、揉む必要のない、良い規則ばかり、ってこと?
……肩透かしだわ。
……いえ——肩透かし、という感想までを、記録。
……型の発見まで。誰が善いの悪いのは、書かない。
……議事録は、まだ、五年分。九十五年、残ってるのよ。急がない。
窓の外が、暮れ始めていた。律子は、綴りを、棚に戻し、灯りを、消した。
……また、明日ね、皆さま。
◇
帰り道は、馬房に、寄るのが、常だった。
「お、いらっしゃい、お嬢様」
馬丁のベッポが、藁の山の向こうから、手を、上げた。
ゼフィロが、馬房から、首を、伸ばしてくる。律子は、持ってきた林檎を、掌に、載せた。柔らかい鼻面が、掌を、くすぐる。
「今日はね、大昔の、良い条文を、一つ、見つけたのよ」
ゼフィロの耳が、ぱたり、と、動いた。
「ええ、お手柄でしょう。……あなたも、お散歩、偉かったの?」
ベッポが、笑った。
「今日は、放牧場で、たっぷり走りましたよ。——おや、噂をすれば」
ベッポの視線の先、放牧場の柵の方を、律子も、見た。
夕方の光の中に、二人、いた。
柵のこちら側に、クララ。柵に、腕を載せて、放牧場の馬に、草を、差し出している。
柵の向こう、馬場の側に、——乗馬服のカリスト。
声は、届かない。ただ、クララが、何か言って、馬が、鼻を鳴らして、クララが、跳び上がって、笑った。
カリストが、——笑った。
……あら。
……あの顔。
……殿下。原稿のない時の、顔だわ。
距離があって、表情の細部までは、見えない。それでも、分かる。肩の線が、緩んでいる。壇上の二分間の、あの窮屈が、どこにもない。
……ふうん。
……ふうん、ふうん。
……進んでるじゃないの、私の配役。
……クララさんは、比べない子だし、殿下は、比べられない場所で、息をなさる。——設計の通り。
……お邪魔虫は、退散するわね。
律子は、ゼフィロの鼻面を、最後に一撫でして、林檎の残りを、ベッポに、預けた。
「続きは、あなたから」
「へい。……お声、掛けなくて、いいんで?」
「野暮は、しない主義ですの」
……配役表に、印を、つけておくわ。
……「馬房の柵:良好」。
◇
夜、部屋に、クララが、来た。
母からの手紙が、届いたのだという。焼き菓子の包みの、お裾分けと一緒に。
「ボタンがですね、また、やったんです」
クララは、手紙を、広げて、読み上げた。
「『ボタンは、神父様の、帽子を、食べました。神父様は、笑って、許してくださいましたが、帽子は、戻りません』……もう、恥ずかしくって」
「大物よ、ボタンさんは」
「あと、あのね、水車の、水をせき止める部分の修理が、終わったって。それと、母が、押し花帳を、毎晩、見てるって、父が書いて……あっ、これは、その、どうでも良い話です、えへへ」
……どうでも良くはないでしょ。いい話じゃないの。
……照れ屋さんの家系ね、ホフマン家。
焼き菓子は、素朴で、美味しかった。お茶を、淹れ直して、話は、寮のこと、講義のこと、ジーナが最近覚えた歌のことへ、転がっていった。
律子は、頃合いを見て、何気なく、置いた。
「そういえば、私、夕方、馬房に、寄りましたのよ。ゼフィロに、林檎を」
「まあ! いいなあ。わたしも、お馬、大好きなんです。エアルの、農耕馬とは、また、違って、こちらの馬は、脚が、すらっとして——」
クララの言葉が、そこで、一瞬だけ、詰まった。
……あら。
「——あ、あのっ、それでね、ジーナさんの歌なんですけど! 装填の歌に、二番が、できたんです!」
「……二番」
「『お玉が回って、火が通り』って始まるんです。もう、完全に、シチューの歌なんです」
……話の蓋が、閉まったわね。
……馬の話の、続きの先に、今日の夕方が、あったのに。
……で、その話は、私には、しない、と。
……ふふ。
……初々しいこと。
……まぁ、いいでしょう。恋の話は、本人が、抱えていたいうちは、抱えているものよ。
……詮索、せず。
「二番、今度、聴かせてもらうわ」
「はいっ。三番も、開発中だそうです」
クララは、いつもの顔で、笑っていた。




