第113話 悪役令嬢、置換契約を読む
挽き小屋は、粉の匂いで、満ちていた。
白く、乾いた、良い匂いだった。梁も、床も、うっすらと、粉を、被って、窓からの光が、その中で、柱に、なっていた。
大きな石臼が、二基。ごとん、ごとん、と、水の力で、回っている。
「親の代からの、臼で、ございます」
父が、言った。粉挽きの話の時だけは、流れるようで、淀みがなかった。
「石は、上等の、灰色石です。目立てをしますと、まだまだ、良い粉が、出ます」
節くれた指が、臼の縁を、撫でた。慣れた、優しい、手つきだった。
……ああ。
……良い臼で、良い粉を、挽いて、村のパンに、なって。
……祭りの日には、村中が、この粉で、焼くのよね。
……立派な、お仕事だわ。誰に、恥じることもない。
……ただ——
……ごとん、ごとん、って。
……昨日の、あの音を、思い出す。カチ、カチ、カチって、五百枚を、飲み込んでいった、あの音。
……この音は、負けていく側の、音なんだわ。ゆっくり、ゆっくり、負けていく。
……良い音、なのにね。
「——良い音、ですのね」
律子は、言った。本心だった。
父は、少し、驚いた顔をして。それから、深い皺の中で、初めて、はっきりと、笑った。
「……粉屋には、子守唄で、ございます」
◇
夕方の光の中で、三人は、馬車に、乗った。
母が、包みを、持たせてくれた。挽きたての粉と、焼き菓子。クララには、別の、小さな包み。
戸口で、母が、クララの襟元を、直した。さっきから、何度も、直していた襟を、もう一度。
父は、何か、言いかけて——結局、言わなかった。代わりに、娘の頭に、大きな手を、一度だけ、置いた。
「行ってきます」
クララが、言った。
……「行ってきます」という家、なのね、ここは。
……ちゃんと、帰ってくる家。
馬車が、動き出した。クララは、窓から、身を乗り出すように、手を振った。両親は、門の前に、並んで、小さくなるまで、立っていた。
水車の音が、遠ざかっていく。
ごとん。……ごとん。
◇
村外れの、辻に、小さな石の像が、あった。前掛け姿の、布を持った、女の人の像。
クララが、窓から、ちょこん、と、頭を下げた。
「リーナ様です。染み抜きの。——昔、悪い金貸しが、証文を、書き換えたのを、魔法で、消してくださったんです。嘘の字だけ、きれいに」
「教科書に載っている方ね」
「ええ。魔法は、ちゃんと、間違った契約を、消せるんです。歴史が、証明してます。だから、わたしも——」
クララの声が、そこで、止まった。
一瞬だけ、窓の外の、像を見る目が、笑っていなかった。
それから、すぐに、いつもの顔に、戻った。
「——なんでも、ないです。えへへ。子どもの頃から、大好きなんです、リーナ様」
……言わなかったのは、「わたしも、リーナ様みたいになりたい」——ってところかしら。憧れの続きは、口にすると、照れるものね。
……一瞬、真顔に、なったのは——。
……ご両親のことでしょうね。
……影で写し取った、契約書。
……あなたの英雄は、魔法で、証文を、消した。
……私はいま、証文を持ってる。消すためじゃなく、——法廷で崩すために。
……違うのね。同じ染みを、見てるのに。
◇
帰りの馬車は、賑やかだった。
「——それでね、ジーナさん、うちの山羊、ボタンっていうんですけど」
「ボタン! あの、ボタンを、食べようとした子ですね」
「そうなんです、なんでも、食べちゃうんです。昔、父の帽子も」
「まあ! お帽子を!」
律子は、窓際で、相槌を、打った。
「仲の良い、山羊ですのね」
「それでね、ボタンったら、この前も——」
……あら。
……素通り、したわね、いま。
クララは、律子の言葉に、頷きも、しなかった。聞こえなかったように、ジーナへ、話し続けている。ジーナも、律子の方を、見ない。二人の会話は、律子の、上を、流れていく。橋の下の、川のように。
……そうね。
……怒らないわよ。理由は、私が、よく知ってるもの。
……私の光が、細って——
……いえ。影が、薄くなってる分、私が、皆の目から、薄いのよ。数時間の、ことだけれど。
……それにしても。
律子は、窓の外を、見た。暮れていく、刈り入れ後の、金色。遠くで、最後の、水車の音。
……静かで、いいものね、たまには。
……なんて、強がって、みたりして。
足元の影が、いつもより、淡く、座席の下に、畳まれていた。律子は、裾で、それを、隠すように、足を、組み替えた。
◇
宿に、着いた。
帳場で、部屋の鍵を、受け取る段になって、クララとジーナは、まだ、山羊の話を、していた。
「お部屋、二階の、奥とその隣だそうです、ジーナさん」
「はい! あ、お荷物、わたしが——」
誰も、律子に、鍵を、渡さない。
律子は、扇子を、口元に、当てて。
「——こほん」
二人が、飛び上がった。
「お、お嬢様!?」
「せ、セヴェリーニ様、いらしたんですか!? いつから——あの、ずっと?」
「ずっと、いましたわよ。ずっと、隣に」
「け、気配を、消して、らしたんですか……? こ、腰が、抜けるかと」
クララは、胸を、押さえている。
ジーナは——
ジーナは、少し遅れて、はっと、口を、閉じた。それから、視線が、すっ、と、下がった。律子の、足元へ。淡い影の上を、一瞬だけ、撫でて——何も、言わずに、荷物を、持ち直した。
「……お鍵、どうぞ、お嬢様」
「ありがとう」
……気づいたわね、この子。
……そして、言わない。クララさんの、前だから。
……気を遣わせるわね。
◇
夜。
クララとジーナの部屋の、灯りが落ちてから、律子は、机に、包み紙を、広げた。
表裏、びっしりの、細かい字。契約書、一冊分。
蝋燭を、二本、用意した。
……さて。長丁場よ。
読み始めた。
……寿命の譲渡年数、七年。目的の記載——「家業承継に伴う、先代債務の、清算」。
……ああ。
……水車場を、親から継いだのね。水車と、臼と——帳面の、借金ごと。
……商人からの借金を、返すために、七年。
……借り換え、だわ、これ。利息の、代わりに、寿命で。
……仲介、ブラント商会。書式は——
律子は目を凝らした、弁護士の読み方で。頭から、一条ずつ。
前文。定義。定義の、細目。対価。対価の、算定の、付表。履行の、方法。魔法の、施術の、範囲と、順序。危険の、分配。表明——「本契約に係る寿命の譲渡年数は、既往の譲渡と通算して、通例の一割を超えざることとし、譲渡人は、既往の譲渡なきことを、表明す」。
……あら、良心的。置換できる寿命の上限が、書いてある。通算で、一割まで。
……判例集でも、見た覚えが、ないのよね、この上限。九冊、通して、一件も。
……争われたことが、ない条文なんだわ。守る係がいなければ、破られもしない——破られたと、誰も、言い出さないもの。
……でも、読み直すと、妙な条文よ、これ。
……前段——一割を「超えざることとし」。……誰が、超えさせないの? 主語が、ないのよ。
……後段——担保は、譲渡人の、表明だけ。売り手の、自己申告。
……登録簿が、あるのにね。買い手は、照会すれば、済むのに。
……上限を、掲げて。守る係を、置いていない。
……まあ、最初の契約は、以前の累積はないから、この条項は、眠ったままだけど。
……でも、あの箪笥には、契約書があと二冊あった。
律子は契約を読み進めた。
解除。解除の、例外。異議。管轄。準拠。付表、一。付表、二。
蝋燭の、一本目が、短くなった。
窓の外で、夜番の、拍子木が、遠く、鳴った。
読み終えたのは、二本目も、残り少なくなった頃だった。
律子は、ペンを、置いて——置くも何も、まだ、一度も、取っていなかった——目を、揉んだ。
……。
……四十頁と、付表二枚。
……直すところが、一箇所でも、あれば、ペンを、取った。
……何も無い。
……定義は、精確。算定は、明快。危険の、分配は、非道で——非道のまま、完璧。隙という隙が、四十頁、先回りで、塞いである。
……これ、一人の、仕事じゃないわね。魔法使いと、法律家の、束——サントーニ先生の仰った「チーム」の、仕事。何十年もの間、訴訟で、殴られたら、殴られた場所を、全部、鋼で、埋めてきた紙。
……でも、私はこの型を知っている。判例集の、引用の切れ端で見た。九冊ぶん。切れ端でも、腕は、分かる。初めて、契約の全文を見た。
……はじめまして。あなたは古い版でしょう。契約は十五年前でも、設計は、もっと、ずっと、古いはず。この枯れ方は、根に近い版。
……根に近い版で、——この完成度。
……悔しいけれど、認めるわ。私、いま、この一冊に、手も、足も、出ない。
紙の隅、表の右下に、小さな刷りが、あった。
……刻印。「書式認証」。——オブシディアン・スケール、黒曜の天秤。
……昨日、登記所で、沿革を読んで。夕方、建物を、見上げて。
……今日は、粉屋さんの箪笥で、お会いしたわけね。
……契約の当事者には、いないのよ、あなたたちは。四十頁の、どこにも。認証者として、隅に、一つ、押してあるだけ。
律子は、蝋燭の火を、見た。
……この契約で売られた寿命は七年。
……七年じゃ、あの老い方は、説明が、つかない。クララのご両親はもっと、売ってらっしゃる。
……油紙の中に、あと、二冊。
……何年と、何年なの。
……私がそれを知る資格は、ない。
……それにしても。
……ここから進化した二冊の契約。
……それを崩すなんてことが出来るのだろうか。
……書式を、歴史ごと、読める目が、要る。版と、刷りと、変遷を、読める目が。
写しの、数少ない余白——紙の耳の部分に、律子は、極小の字で、書き入れた。
——原本所在:エアル国、ベルテ村、ホフマン家。寝室、箪笥、二段目、油紙包み(綴り三冊中の、最古の一冊)。写し作成:プルデンティア・セヴェリーニ、当人。日付。
……写しはね、原本と、繋がって、初めて、証拠なの。
それから、目録を、開いた。
「ホフマン家、訪問。ご両親、実見。——お年より、はるかに、老いてらっしゃる。置換契約による寿命の売却」
「家業:賃挽きの水車。親の代からの臼。手入れ、良。音、良。村の信用、厚。——出口、なし。銀行は、この家に、届いていない。届かない場所を、寿命のバイヤーが歩いて、回っている」
「写し:契約一冊分、取得(持参の包み紙、両面。原本、手つかず。油紙包みに、綴り、計三冊。残る二冊の中身と年数、不明)」
「当該一冊(十五年前・寿命七年分):承継と、先代債務の清算。ブラント商会。四十頁・付表二。組成は、チームの仕事(魔法の講義と整合)。書式=根に近い旧版と見る。瑕疵、なし。当職、通読五時間、ペンを取る箇所、ゼロ。——手も足も、出ず。書式の研究、要。独りでは、成らず」
「行使:委任まで、封。……封、と、書いた上で、もう一度。——委任まで、封」
「あの家の卓で、誰も、口にしなかった言葉が、一つ、ある。——私も、口に出来なかった」
ペンを、置いた。
足元で、淡い影が、机の脚に、寄り添うように、丸くなっていた。耳は、今夜は、立たなかった。
「……お疲れさま」
律子は、小さく、言った。
「明日は、またクララさんと馬車。あなたは、お休み。——ゆっくり、なさい」
影が、淡いまま、少しだけ、揺れた。
律子は、写しの包み紙を畳むと、目録の間に、挟んで、鍵のかかる鞄に、収めた。
それから、蝋燭を、消した。




