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第112話 悪役令嬢、箪笥の中を覗く


 朝の光の中で、律子は、クララの描いた道順の紙を、膝に、広げていた。


 鉛筆の線の道。曲がった木の、印。パン屋の角。川。橋。


 ……絵が、上手なのよね、この子。木の曲がり方まで、ちゃんと、その木の形なんだもの。


 馬車は、王都を出て、川を、遡っていった。麦は、あらかた、刈り取られて、畑は、切り株の金色に、変わっていた。積み藁が、あちこちに、小さな山を、作っている。


 曲がった木が、あった。紙の絵の、通りに、曲がっていた。


 パン屋の角を、川の方へ。


 水の音に、別の音が、混じり始めたのは、その頃だった。


 ごとん。……ごとん。


 低い、木の音。景色に馴染んで、ゆっくりで、どこか、息をするような。


「お嬢様、あれ」


 ジーナが、窓の外を、指した。


 川沿いに、水車が、回っていた。黒く濡れた、大きな輪。橋を渡って、三軒目——道順の紙の、終点に、その家は、あった。


 石と木の、古い家。水車の軸が、川に張り出した挽き小屋へ、続いている。壁ぎわに、粉の袋が、行儀よく、積んであった。庭先に、鶏。


 ……粉屋さん、なのね、クララさんのお家。

 ……村の麦を、預かって、挽いて、挽き賃を、頂くお仕事。あの水車が、——この家の、稼ぎ手だわ。


 そして、門の前に、エプロン姿のクララが、立っていた。


「セヴェリーニ様——!」


 手を、大きく振って、駆けてくる。学府の制服ではない、家の子の顔だった。


「お約束、通りですわ」


「はい! 道、迷いませんでした? あ、あの、それでですね、その——」


 クララは、そこで、急に、もじもじした。


「うち、ほんとに、何もなくて。あの、父と、母が、その、朝から、そわそわして——」


「クララさん」


 律子は、馬車を降りて、裾を、直した。


「私は、道案内の、雇い主として、ご挨拶に、伺いましたの。——ご立派な、水車じゃないの。良い音だわ」


 クララの顔が、ぱっと、明るくなった。


 ◇


 両親は、戸口に、並んで、立っていた。


 深く、腰を折る。骨ばった、大きな手を、前で、揉むようにしている父。白髪を、精一杯、撫でつけた母。


「よ、ようこそ、おいでくださいました。クララの、父で、ございます」


「母で、ございます。むさくるしい、ところへ……」


 律子は、令嬢の礼を、正しく、返した。


「プルデンティア・セヴェリーニと、申します。クララさんには、道中、大変、お世話になりましたの」


 顔を、上げて。


 律子は、内心で、静かに、息を、止めた。


 ……。

 ……お祖父様と、お祖母様——

 ……では、ないのよね。ご両親、なのよね。


 クララは、十七。ならば、親は、四十を、いくつか出たあたりの、はずだった。


 目の前の二人は、——七十に、見えた。


 深い皺。曲がりかけた、母の背。父の髪は、白いというより、薄かった。


 ……老けて、らっしゃる。

 ……でも、老い方が、変だ。

 ……皺は、深いのに、目は、若い。動きの、癖も。声の、張りも。それなのに、体だけが、——先を、行ってる。

 ……これは、早回し。

 ……サントーニ先生の、講義の、あれ。

 ……寿命の、置換だ……。

 ……いえ。動揺しない。今はお客の顔を、なさい、律子。


「さ、さ、どうぞ、中へ。何も、ございませんが」


 父が、身を縮めて、戸を、開けた。その手の甲に、古い火傷の痕が、引き攣れて、光った。


 ……火の痕。右手、甲から、手首。

 ……見たわよ。——でも、今は、仕舞っておくわ。


 ◇


 居間は、小さくて、掃除が、行き届いていた。


 床は磨かれ、窓辺に、花。卓布は、繕いの目が、几帳面に、揃っている。貧しさを、手入れが、支えている家だ。


 律子は、手土産の包みを、膝の上で、解いた。


「お口に、合いますかどうか。お茶ですの」


 茶葉の缶を、両手で、差し出す。


「まあ、まあ、そんな、お気遣い……」


 母が、押し頂いて、缶の蓋を、そっと、開けた。良い香りに、母とクララの顔が、ほころぶ。


 その間に、律子は、解いた包み紙の、皺を、膝の上で、伸ばして、畳んだ。角と、角を、合わせて。それから、何気なく、自分の鞄に、収めた。


 お茶をいれるとき、クララが、母の手から、そっと、ポットを、受け取って、注いだ。何気ない、流れるような、手つきだった。


 ……あら。

 ……いまの、受け取り方。

 ……お母様の手が、重いものを、持つ前に、入ったわね。癖に、なってる速さ。

 ……この子、家では、ずっと、ああして、いるのね。


 お茶は、素朴で、温かかった。


 歓談は、クララの、学府の話が、中心になった。寮の話。友だちの話。ジーナが、時々、合いの手を入れて、両親を、笑わせた。父は、ほとんど、話さなかった。ただ、娘の話を聞く間だけ、深い皺が、少し、ほどけた。


「して、お嬢様は、その……ご旅行で?」


 母が、遠慮がちに、聞いた。


「ええ。王都で、調べものを、しておりましたの。銀行と、決済の仕組みの」


 ——父の目が、動いた。


 一瞬だった。卓の上から、部屋の奥へ。そこに置かれた箪笥の方へ。それから、湯呑みへ、戻った。


「……銀行、ですか」


 父は、湯呑みを、両手で、包んだ。火傷の痕のある手で。


「わしらには、縁の、遠いところで。昔、……水車は、斜陽産業だと言われました。それで、少し、無理を、しまして。それきり、どうも」


「あなた」


 母の声が、小さく、入った。咎めるのでは、なかった。ただ、そっと、蓋を、するような。


「あ、あのね、お母さん!」


 クララの声が、一段、明るくなった。


「学府ではね、模擬裁判っていうのが、あって、セヴェリーニ様が、それはもう、お強くて——」


 話は、学府へ、戻っていった。


 律子は、お茶を、一口、頂いた。


 ……いま、この卓で。

 ……何かを言わなかった人が、三人、いるわね。

 ……お父様は、箪笥の方を、見て、言わなかった。

 ……クララさんは、知っていて、話題を、変えた。

 ……そして私は、——全部、見えていて、お茶を、頂いてるの。

 ……いいのよ、それで。今日は、それで、いいの。


 ◇


 昼餉に、豆の煮込みが、出た。


 白い豆と、燻した肉の、切れ端。とろりと、煮えて、湯気の向こうで、母が、心配そうに、こちらを、見ている。


 律子は、一匙、頂いて、——本心から、言った。


「……美味しい」


「まあ」


「クララさんから、伺っておりましたの。お家の、味だと。……評判に、違いはないわ」


 母が、エプロンの端を、握って、笑った。クララと、同じ顔で、笑った。


 ジーナは、二杯目を、頂きながら、母に、レシピを、聞いていた。お豆の戻し方。燻し肉の、入れる順。母の説明を、ジーナは、一度で、覚えていく。


「お粉を、少し、入れなさるんですね、とろみに。——挽きたての」


「ええ、ええ、うちの粉ですもの、それだけは、たっぷり」


 台所の話で、女たちが、笑っている間。


 父は、黙って、豆を、食べていた。時々、娘を、見た。


 ……この家業の粉が、この鍋に、入ってる。

 ……回ってるのよ、水車の家業は。ちゃんと、回ってる。

 ……斜陽産業、か。

 ……ただ、——出口が、ないのね。


 ◇


 昼餉の後だった。


「あの、よろしければ、水車を、お目にかけたい、と、父が」


 クララが、言った。父が、後ろで、恐縮している。


「まあ。ぜひ、拝見したいわ」


 律子は、立ち上がりかけて、——袖を、直した。


「……ただ、その前に、少しだけ、休ませて、頂けます? 朝から、馬車でしたの。皆さま、お先に、どうぞ。すぐ、参りますわ」


「まあまあ、気が、つきませんで。どうぞ、どうぞ、ごゆっくり」


 母とクララが、片付けに、立った。ジーナが、鍋を、運んで、手伝いに、ついていく。父は、先に、挽き小屋の、支度に、出た。


 居間に、律子、一人。


 台所から、水音と、笑い声。外から、ごとん、ごとん、と、水車。


 ……さて。


 律子は、鞄から、さっきの包み紙を、出した。膝の上で、皺を、伸ばして、大きく、広げる。


 ……大判で、助かったわ。両面、使うわよ。


 足元で、影が、す、と、頭を、上げた。


 ……ええ。出番よ。

 ……この一回だけ。

 ……あちらの箪笥。お父様の目が、教えてくれた場所。

 ……お願いね。


 影が、床を、滑った。音もなく、箪笥を駆け上り、引出しの中に、吸い込まれていく。


 律子は、目を、閉じた。


 ——視界が、変わる。


 暗い。木の匂いのする、暗さ。箪笥の、引出しの、内側。畳まれた、布。その下に、油紙の包み。紐。


 ……当たり。……あら。

 ……厚い。


 包みの中身は、書類の束では、なかった。綴りだった。背を、紐で、綴じた、冊子が——重なって、三冊。


 ……ああ、やっぱり。

 ……サントーニ先生が仰ってたわ。「置換には、ものすごい、契約書が要る」って。

 ……本当だ。これが、その本物。

 ……私が写せるのは、せいぜい一冊。時間も、足りない。

 ……一番、紙のくたびれた子。あなたに、決めた。書式は、根から、読む。


 影が、一番、色の褪せた綴りに、そっと、潜った。一頁目に、広がる。膝の上の紙の、隅が、ほのかに、温かくなり、細かい文字が、浮かび始めた。


 ……小さく、写すわよ。四十頁はあるもの。詰めて、詰めて。


 影が、契約書の表面を見ていく。一枚。また、一枚。包み紙の上を、契約書の文字が、区画を、埋めるように、増えていく。


 ……十頁。……十五。


 台所で、母の笑い声。


 ……二十。……二十五。


 廊下を、誰かが、歩く音。——遠ざかった。


 ……急がない。急ぐと、雑になる。読めなくては意味がない。……三十。


 表が、埋まった。律子は、目を閉じたまま、手探りで、紙を、裏返した。


 ……三十五。……四十。……綴じ込みの、付表が、二枚。……はい、お仕舞い。


 影が、契約書へ潜るのをやめ、——引出しの隙間から、滑り出た。


 律子は、目を、開けた。


 膝の上の包み紙は、表も、裏も、蟻の行列のような細かい字で、埋まっていた。


 足元に、戻ってきた影は、——はっきりと、色が淡かった。輪郭が、水で、薄めたように。


 ……。

 ……一冊、まるまる、ですものね。

 ……ごめんなさい。……ありがとう。よく、やってくれました。


 律子は、紙を、丁寧に、畳んで、懐に、収めた。それから、何食わぬ顔で、立ち上がり、髪を、直した。


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