第111話 悪役令嬢、機械に敗れる
カード式集計機の工房は、川沿いの、職人街に、あった。
鉄と油の匂い。規則正しい、カチ、カチ、という音が、扉の外まで、聞こえていた。
見学の申し入れは、あっさり、通った。「家の帳簿の参考に、拝見したい」——嘘ではない。案内に出てきたのは、腕まくりの、中年の技師だった。自慢の顔を、隠しもしない。
「これが、現在の型です。分類と、計数。銀行さんなら、口座の仕分け。商会さんなら、売り上げの集計」
藁色のカードが、棚に、束で、積まれていた。技師が、一枚、抜いて、渡してくれる。厚手の、しっかりした紙に、小さな穴が、行儀よく、並んでいた。
……麦の色ね、やっぱり。
……麦から、藁。藁から、紙。紙から、この穴。
ジーナが、壁の表を、覗き込んでいた。穴の位置と、意味の、対応表である。
「お嬢様、これ、レシピです」
「レシピ」
「この列の穴が、お金の種類で、この列が、月で——お粉の量の穴と、お団子の数の穴が、決まってるのと、同じです。場所さえ覚えれば、読めます」
技師が、目を、丸くした。
「お嬢さん、呑み込みが、早いね。うちの新入りより、早い」
「レシピは、体で覚えるものです」
……ジーナ、あなたって、時々、天才よね。
技師は、機嫌を良くして、機械の前に、椅子を、並べた。
「せっかくだ。うちの名物を、お見せしましょう。——手練れのお客さんと、こいつの、競争です」
……あら。
「五十枚。この束から、『港区分の、十月の』カードを、数えていただく。あなたは手で、こいつは機械で。よろしいですか」
……受けて立つわよ。書類さばきなら、数十年。伊達じゃないの。
技師が、手を、叩いた。
律子の指が、走った。カードの角を、親指で、送る。穴の位置だけを、見る。列の位置は、もう、頭に入っている。一枚、二枚——十枚——
「——十四枚」
律子が、言った。僅かに遅れて、機械が、カチン、と、鳴った。技師が、計数器を、覗く。
「……十四。——驚いたな。機械と、差なしだ。お嬢さん、あんた、何者だね」
「帳簿の、好きな、学生ですわ」
……勝った。……いえ、ほとんど引き分けね。でも、悪くないわ。
技師が、にやりと、笑った。
「じゃあ、本番だ」
棚から、別の束が、下りてきた。どさり、と、音がした。
五百枚。
「同じ、課題で」
……。
……やられたわ。これが、名物の、本当の仕掛けね。
律子は、それでも、指を、走らせた。一枚、二枚。三十枚。五十枚。指の腹が、熱くなる。八十枚——
機械は、カードを、飲み込んでいた。カチ、カチ、カチ、カチ。規則正しく。疲れず。速度が、落ちない。ジーナが、口を開けて、見ている。
百枚目を見たあたりで、機械が、カチン、と、澄んだ音を、立てた。
「終了。——七十九枚」
律子の手元には、まだ、四百枚近くが、残っていた。
……。
……完敗だわ。
律子は、指を、止めて、息を、整えた。悔しさより、先に、冷たいものが、背中を、通った。
……五十枚なら、私でも、並ぶ。五百枚なら、機械が、笑うのよ。
……個人の練度は、量の前で、死ぬの。
……数十年の技量が、量の前では、一年目の機械に、負ける。
……だから——仕組みには、仕組みなのよ。名人を育てるのではなく、規則を、書くの。
技師は、上機嫌だった。
「気を悪くなさらんで下さい。人の手であそこまでやれた方は、今年、初めてだ。——それにね、お嬢さん。今度の新型は、この倍の速度が、出ます」
「……倍」
「倍。来年には、店に、並びますよ」
……倍。
……猶予期間の見積もり、短縮修正だわ。
◇
会社の登記所は、夕方の光の中で、閲覧の客で、混んでいた。
……いいわね、この混雑。
……閲覧が、日常の街。取引先を調べるのは、挨拶と、同じ。——紛れるわよ。
律子は、書き付けに、こう、書いた。
——オルデンブルク商会の登記につき、沿革調査のため、「O」の巻、当年版および旧版、計五冊。
……海運の、オルデンブルク商会。創業から、増資の履歴を、追いたい、勉強熱心な学生。
……嘘じゃ、ないわよ。ちゃんと、読むもの。
……そして、登記の綴りは、商号の、頭文字順。一冊に、ぎっしり、相乗り。
……オブシディアン・スケール、黒曜の天秤は、——同じ「O」の巻の、ご近所さん。宿の部屋で、年鑑を繰って、調べておいたわ。
……天秤の沿革を、遡りたければ、古い巻が、要る。オルデンブルクさんの沿革を、遡りたい学生にも、同じ巻が、要るのよ。
……都合が、いいこと。
……閲覧簿に残るのは、「海運を調べた学生」。——それだけ。
書記は、退屈そうに、書き付けを、受け取って、奥へ、消えた。しばらくして、埃の匂いのする綴りを、五冊、抱えて、戻ってきた。一番下の巻は、革の背が、乾いて、ひび割れていた。書記には何も、聞かなかった。閉所の時刻だけ、告げられた。
……最高だわ、この無関心。
律子は、五冊を、順に、開いた。醸造。製紙。——真面目に、読む。読んだ時間の形も、紙に、残るのだから。
当年版から、始めた。
オルデンブルク商会の頁を、真面目に、読む。船の数。航路。増資の履歴。読むべきものとして、読み、手控えを、取る。
それから、頁を、繰る手を、——止めなかった。同じ冊の、少し先。
天秤の、頁。
当年版の記載は、素っ気なかった。手控えには、写さない。目で、読んで、覚える。
二冊目。十年ほど、前の版。オルデンブルクを、読み、——少し先を、読む。
三冊目。さらに、昔。
巻を、遡るたび、天秤の目的の欄が、——痩せていった。
沿革の欄を、指で、追った。設立は、古い。百年、遡る。目的の欄は、最初、素っ気ない。「訴訟代理及び、法律事務」。
それが——途中で、変わっていた。
「増資、並びに、目的の変更」。
目的の欄が、太る。「契約書式の設計及び鑑定」「仲裁の斡旋」「契約に関わる金融業務の代理」——
……ここだわ。
……ただの法律事務所が、市場設計のお店に、化けた年。
登記の年を、頭の中で、裁定所の年度に、換算した。
……第三十九年度の、前後。
……あの、理由の三枚、切られた裁定と——同じ、時期だ。
……負けた年に、負けた側が、店を、作り替えている。切除と、改組が、同じ数年に、並ぶのよ。
……偶然? ——いいえ、まだ書かないわ。でも、手掛かりは、これで、三本目。
役員の欄も、見た。知らない名前が、並んでいた。数年ごとに、入れ替わる、雇われの名前。大株主の家の名は——どこにも、なかった。
……お金の筋は、登記の、外。
……名前の出ない、人がいるのね、この後ろに。
綴りを、閉じようとして——律子は、手を、止めた。
閉じない。
手を離した綴りが、ぱさり、と、自分で、開いた。
天秤の、頁で。
……。
……綴じ癖が、ついているわ。
……この頁だけ、何度も、開かれている。手を離せば、勝手に、ここで、開くくらいに。
律子は、静かに、他の四冊を、順に、手に、取った。閉じたまま、机に、立てて——手を、離す。
ぱさり。ぱさり。ぱさり。ぱさり。
……五冊、全部。
……全部、同じ住人の頁で、開くのよ。
……一冊なら、偶然。五冊なら、——読者だわ。
……しかも、古い巻ほど、癖が、深い。
……誰も読まない、埃の綴りを、奥から、何度も、出させて、遡った人。
……変更を、見張ってるんじゃ、ない。——歴史を、掘ってるのよ、この読み手は。
……どなた?
……。
……推定で、埋めない。
……読んだのは、私が、最初じゃ、ない。
……誰? ——敵の、内々の点検? それとも——
……いえ。推定で、埋めない。
……ただ、一つだけ、確かなことが、あるわ。
……この道を、先に、歩いている誰かが、いる。
律子は、綴りを、一度、醸造の会社の頁で、しばらく、開いて、置いた。それから、閉じて、返した。
……私の足跡は、薄めて、おくわね。
◇
宿への帰り道は、金融街の、大通りを、通った。
夕方の鐘が、鳴っていた。銀行の、大きな扉が、次々、閉まる時刻だった。
その建物は、通りの、突き当たりに、あった。
黒っぽい石の、堂々とした構え。磨かれた真鍮。高い扉の上に、黒曜石の、天秤のレリーフ。
……あれが、天秤の本拠地ね。
……近づかないわよ。見るだけ。通りすがりの、観光客の目で。
終業の刻で、扉から、勤め人たちが、流れ出てきた。上等な外套。きちんとした帽子。菓子折りを提げた男が、同僚と、笑いながら、家路につく。若い書記が、階段を、駆け下りる。
……。
……悪人の顔がひとつもない。
……あの広告の、良い給料をもらって働く、まっとうな人たち。これから夕餉に、帰るのよ。
……この建物の中で引かれた線の上で、誰かの十年が、割られて、売られていても。
……ここで働く人は、誰も、それを、悪事と思わずに、済む造りになっている。
……敵は、怪物じゃ、ないの。——ここは、あの人たちの、ただの勤め先なのよ。
隣で、足音が、止まった。
ジーナが、立ち止まって、建物を、見上げていた。
小さく、首を、かしげた。
「……?」
「——どうかして?」
「…………いえ」
ジーナは、もう一度だけ、建物を、見て——それから、いつもの顔に、戻った。
「なんでも、ありません」
……疲れたのかしら。今日は、歩かせすぎたものね。
「帰りましょう。夕餉は、温かいものを、頼んであるわ」
「はい!」
夕方の光の中を、二人は、宿へ、歩いた。影は、終日、行儀よく、律子の足元に、いた。
◇
夜。宿の灯りの下。
その前に、一つ、用事を、済ませた。宿の主人に、頼んで、良い茶葉を、一斤、包ませたのである。明日の、クララ訪問の手土産だ。
それから、目録を、開いた。
「死亡表:刊行物として実在。教区別・月別・享年・死因。貧しい教区に、若い享年、頻出(死因の欄は、みな、同じ言葉)。定期購読可——申し込みは、保留。取り寄せの経路は、父の為替筋を検討」
「学府の噂(ジーナ発・寮筋):天秤の大株主の一族の子息、学府に在籍、との由。学年・名、未確認。就職志望の学生が接近を競う、との由。——接触せず。目立つ観察も、せず。帰着後、静かに確認」
「銀行・本店:創業=守護魔法の通帳(誠意条件・量産不能)。現在=制度の信用(帳簿・監査・規則・機械)へ移行済み。魔法の残存は原簿の間のみ、守護役、当代三名。——魔法の信用から、制度の信用へ。移行の完了例、実見」
「所見:奇跡で始めて、制度に引き継ぐ——私の事業の、百年前の先例。設計者の名、いずれ調べること」
「天秤・登記:第三十九年度前後に、増資及び目的変更(法律事務所→設計業)。頁が切除されたのと、同じ数年。層序、三本目。——結論は、まだ、書かない」
「年鑑の綴じ癖:天秤の頁に、開き癖。先客、一名以上。正体——推定で、埋めない」
ペンを、置いた。
……街一つ分、歩いて。
……敵の台所と、敵の給料と、敵の生まれ年に、触れた一日。
……そして、この道の先客が、一人。
……あのゴシップ紙の梟かしらね、なんて——ふふ。
窓の外で、知らない街の鐘が、遠く、時を、打った。
……明日は、——クララさんの、おうちよ。
床の影が、机の端で、耳を、ぴこん、と、立てた。
「ええ。——でも、あなたの出番は当分なさそう」
律子は、蝋燭を、消した。




