第109話 悪役令嬢、エアルへ行く
出立の朝、ジーナは、荷物より先に、報告を、持ってきた。
「お嬢様! 出ました、五十八秒!」
「あら。切ったのね、六十」
「はい! お粉を量って、お団子入れて、棒でぎゅっぎゅ、帽子をぱちん、で、五十八です!」
「……その口上で、覚えたのよね、あなた」
「レシピは、体で覚えるものです」
ジーナは、革の鞄を、両腕で、抱えた。中身は、着替えと、菓子と、拳銃と、旅費の紙幣である。頼もしいのか、物騒なのか、分からない鞄だった。
馬車は、坂下の貸馬車屋で、仕立てた。二頭立ての、箱馬車。御者は、貸馬車屋の、年配の、無口な男だった。学府の紋も、侯爵家の紋も、入っていない、ただの、貸馬車である。
……よし。目立たない。実に、普通だわ。どこから見ても、女学生の、休暇旅行。
寮の前で、クララを、拾った。クララの荷物は、古い旅行鞄が一つと、焼き菓子の包みが、三つだった。
「村の分と、隣の家の分と、教会の神父様の分です」
……よく気が利く子。
足元では、影が、朝の光の中で、薄く、伸びていた。
……あなたは、原則、お休みよ。旅の間は。
……人前では、動き回らない。
……宿の部屋で、朝の確認と、夕方はお話しましょう。
影は、返事の代わりに、律子の足元に、行儀よく、畳まれた。
馬車が、動き出した。学府の丘が、窓の中で、ゆっくり、遠ざかった。
◇
街道は、西へ、下っていく。
クララは、良い道案内だった。宿場ごとの名物、水のおいしい井戸、御者への心付けの相場。乗合馬車で来た者だけが知っている地図が、彼女の中に、あった。
「この次が、例のパンが美味しい宿場です。胡桃が、入ってるんです」
二番目の宿場は、街道の分岐にある、大きな宿場だった。厩と、井戸と、パン屋と、酒場。旅の者が、行き交っている。
御者が、馬に、水を、飲ませに行った。クララは、パン屋の列に、並びに行った。ジーナは、馬車の反対側で、荷の、締め直しをしていた。
律子は、馬車の脇で、足を、伸ばした。
怪しげな男が、近づいてきたのは、その時だった。
三十がらみ。旅装。笑顔。
「——お嬢さん、いい馬車だ」
「恐れ入ります」
「お若いのに、供も、連れずに? 物騒だ。この先の道は、俺が、詳しいが」
男の目が、動いた。律子の顔——ではなく、馬車の中。座席の、革の鞄。
……あら。
……顔を、見ないのね、あなた。
……荷物を、見てる。値踏みの目だわ。
……前世で、何度も見た目。人を、金額で見る目。
足元で、影が、す、と、張った。
……駄目。
……あなたは、お休み。約束。
……それに——ここは、あの子の番よ。
カチ、と、音がした。
撃鉄の、起きる音だった。
男の、背後で。
「お手を、そのままに、お願いします」
ジーナが、立っていた。いつの間に、回り込んだのか。二連装の古式拳銃の銃口が、まっすぐ、男の背中に、向いていた。
構えは、静かだった。両手。肘は、軽く。そして——人差し指は、用心鉄の、外に、伸びたまま、掛かっていなかった。
……教わった通り。指は、最後まで、掛けない。
「物盗りでしたら、撃ちますよ」
ジーナは、丁寧に、言った。お茶でも勧めるような、丁寧さだった。それが、かえって、不気味だった。
男の笑顔が、固まった。両手が、ゆっくり、上がった。
「……人違いだ。道を、教えようとしただけで」
「左様でございますか。でも、道案内は、おりますので」
「……」
男は、後ろも見ずに、酒場の方へ、去った。途中から、足が、速くなった。
厩から戻った御者が、遅れて、何事かという顔をした。パンの包みを抱えたクララが、列から、駆け戻ってきた。
「ど、どうか、しましたか?」
「いいえ。道を、聞かれただけ」
律子は、言った。それから、ジーナを、見た。
ジーナは、もう、銃を、鞄に、しまっていた。何事もなかったような顔で、荷の紐を、締めている。
「——上出来よ、ジーナ」
「六十秒、切った甲斐が、ありました!」
「撃たずに、済ませたのが、一番の上出来。……いつから、気づいていたの」
「あの人、さっきから、お馬じゃなくて、鞄ばっかり、見てましたので。お馬を見ないで馬車を褒める人は、嘘つきです」
……メイドの観察眼と、近衛の教練。
……悪くない、配合だわ。
馬車が、また、動き出した。クララが、胡桃のパンを、三つに、割った。温かくて、甘かった。
……男の目は、荷を、見ていた。私の顔には、興味がなかった。
……物盗り、でしょうね。街道の、ありふれた。
……でも、決めつけは、しない。夜に、目録へ。
◇
翌日の、昼前だった。
街道が、最後の丘を、越えた。
「——見えました!」
クララが、窓に、張り付いた。
視界が、開けた。
金色だった。
丘の下から、地平まで、麦畑が、続いていた。収穫の季節の、実った麦。風が渡るたび、金色が、大きく、波を打った。畑のところどころで、刈り入れの人影が、動いている。積み上がった、藁の山。荷車。遠くに、川の光。
「エアルです! わたしの、国です!」
クララの声が、半音どころか、一音、高かった。
「あの丘の、ずっと向こうが、わたしの村で。川を下ると、王都です。新しい方の。銀行の御用は、そちらですよね」
「ええ」
律子は、窓の外の、金色を、見ていた。
……麦の、国。
……麦から、酒。藁から、紙。紙から、通帳と、穿孔カード。
……銀行の分類機は、この藁の色を、していたわ。
……百年前に、誰かが、この畑から、始めたのよ。全部。
……そして、その道具の上で、いま、色々な産業が、回ってる。
……道具は、罪じゃない。速いだけ。賢いのは——賢くあるべきなのは、規則の方。
……見に来たわよ、エアル。あなたの、台所を。
国境の橋は、簡素だった。中立の商業国の、通行は、緩い。書き付けを、一枚、渡すだけで、馬車は、金色の中へ、入っていった。
クララは、それから、ずっと、しゃべっていた。あの丘の名前。この川で、洗濯をしたこと。収穫の祭りで、村中がパンを焼くこと。
村の話。丘の話。祭りの話。
……ご両親の話だけ、——出てこないのよね。
……まぁ、着けば、分かるわ。
律子は、金色の波を、見ていた。
◇
その夜は、川沿いの、宿場町に、泊まった。
クララとジーナが、寝息を立て始めてから、律子は、小さな灯りの下で、目録を、開いた。
「旧礼拝堂・裏口:実在。蔦の陰の木戸。把手に使用の艶、敷石に摩耗(年季物)。使途は既知につき、詮索終了。——雑記。ただし方角のみ、本記:北。塔」
「渡航:開始。用件は本物(銀行・決済網・登記・刊行物)。同行:クララ・ホフマン(道案内・荷物番として雇用。有能)、ジーナ」
「街道の男(二番宿場):荷を見る目。顔は見ない。——物盗り、と、仮置き。推定で、埋めない」
「ジーナ:初陣(構えのみ・発砲なし)。三箇条、遵守を確認。装填五十八秒。——及第。過分」
「エアル:麦、収穫期。国境、緩い。治安、良好と見て、なお油断はしない」
「クララ:丘と村と祭りの話は、半音、上がる。両親の話は、——本日、ゼロ回。所見のみ。詮索せず」
ペンを、置きかけて、律子は、窓の外を、見た。
月明かりの下で、金色の畑が、夜の色に、沈んでいた。それでも、金色だと、分かった。
床の影が、机の端で、耳を、ぴこん、と、立てた。
「……ええ。明日は、街へ、行くわよ」
律子は、小さく、言った。
「あなたは、まだ、出番なし。——大人しくしていてね」
耳が、ぴこん、と、揺れた。
律子は、灯りを、消した。




