第107話 悪役令嬢、書庫に灯りをつける
書庫は、閉じた翼棟の、一階に、あった。
鎧戸を、カリストが、押し開けると、夏の終わりの光が、埃の柱を、いくつも、立てた。
書架が、——並んでいた。奥まで。綴りの背に、年号。年号。年号。百年が、順番に、眠っていた。
律子は、しばらく、動けなかった。
……ある。
……本当に、全部、あるわ。
……文書館の扉も、市場も、帳簿の裏も、——全部、閉まっていたのに。
……一番大きな扉が、婚約者の家の、閉じた翼棟で、開けられるのを、待っていたなんて。
「……顔が、笑っているぞ」
「笑いますわよ、これは」
律子は、手袋を外して、目当ての年代の書架へ、歩いた。アリアドネ議長の、在任期。法典編纂の動議の、年。
綴りを、抜いた。埃を、払って、開いた。
審議録だった。発言者の名前。逐語の、記録。
律子は、立ったまま、読み始めた。
——書架の奥に、赤い外套の婦人の小さな肖像が、議事録の書架を見下ろすように掲げられていた。
◇
第一の動議の、審議。
アリアドネ議長の、提案理由の陳述。格調高く、まっすぐで、——志の、塊のような演説。
続いて、質疑。
……来たわね。
発言者は、議員ではなかった。議員の「求めにより」発言する、参考人。——法律家、と、肩書がある。
その法律家の指摘は、こうだった。草案第十二条の定義と、第四十七条の定義が、重複し、かつ、齟齬する。第八条の例外と、第三十一条の原則の、優先関係が、条文上、決せられない。経過の措置を欠くため、既存の契約関係が、施行日に、法的な空白に落ちる——。
……。
……正しいわ。
……一つ一つは、全部、正しいのよ。私が読んでも、同じ箇所を、突くもの。
第二の動議。数年後。手直しされた草案。別の法律家が、立つ。新しい重複。新しい齟齬。棄却。
第三の動議。晩年。また、別の法律家。同じ型の、指摘の列。棄却。
三冊の綴りを、机に、並べて、律子は、指摘の一覧を、頭の中で、揃えた。
……見えたわ。
……この方たち、直させる気が、ないのよ。
……本気で法律を作りたい人の指摘には、順番が、あるの。致命傷から、指摘するのよ。直せるように。
……この人たちの指摘は、順番が、ばらばら。小さな傷と、大きな傷を、混ぜて、数で、埋めている。——審議の時間を、殺すための、並べ方だわ。
……正しい指摘を、殺すためだけに、使っている。
……重複の指摘も、矛盾の指摘も、経過措置の欠落も——全部、私の商売の、道具よ。法律を、良くするための、道具。
……それを。
……こんな使い方で。
……「私は、政治家で、法律家ではない」——伝記の、あの人の言葉の通りだわ。法律家の土俵に引きずり込まれて、法律家の道具で、——もてあそばれたのよ、あの人は。三回。九年かけて。
気がつくと、唇を、噛んでいた。
強く、噛んでいた。
◇
「——熱心な、こと」
声に、律子は、顔を、上げた。
書庫の入口に、セレーナ公妃が、立っていた。いつから、いたのだろう。カリストの姿は、ない。呼ばれて、表へ、戻ったらしい。
「も、申し訳ございません。お行儀も、なく——」
「いいのよ」
公妃は、書架の間を、ゆっくり、歩いてきた。埃の柱の光を、避けもせずに。
「この書庫にね、灯りがついたのを、見るのは、——何年ぶりかしら」
「……」
「政治のことは、わたくしには、分かりませんの。本当に、分からないの。夫の考えも、評議会の方々のことも」
公妃は、机の上の、三冊の綴りを、見た。それから、律子を、見た。
「でもね。——本を、あんなふうに、読む方を、久しぶりに、見ました。読みながら、怒って、唇を噛む方を」
「……お見苦しいところを」
「いいえ」
公妃は、首を、振った。
「怒れるのは、——分かる方、だけよ。わたくしには、この部屋の紙が、何に怒ればいいものなのか、分からないもの」
温かい手が、また、律子の手を、取った。
「プルデンティアさん。……一つだけ、お願いが、あるの」
「はい」
「あの子を、——導いてやって、くださいますか」
……。
「あの子はね、いい子なのよ。でも、この家は、あの子に、何も、教えてあげられないの。教えないことが、あの子を守ることに、なっているから。……わたくしには、それが、正しいのかどうかも、分からないまま、ここまで、来てしまって」
公妃の声は、最後まで、穏やかだった。穏やかなまま、底に、長い年月が、透けた。
「あなたは、分かる方。怒れる方。……だから、お願いするの。導く、というのが、何をすることなのか、わたくしには、上手に、言えないのだけれど」
律子は、その手の温かさの中で、——正確に、答えることにした。安請け合いは、この手に、失礼だった。
「……私に、できる形で」
律子は、言った。
「お約束、いたしますわ」
「ありがとう」
公妃は、笑った。カリストの笑い方の、原型が、そこに、あった。
「書庫はね、いつでも、いらっしゃい。鍵は、家令に、言っておきます。——灯りのつく部屋が、一つ増えるのは、いいことだもの」
◇
夜。貴賓区画の、灯りの下。
目録に、新しい頁が、いくつも、立った。
「公宮:正面は立派、翼棟は閉鎖、人手は半分、修繕は選択的。窮乏の実見。招きが大祭まで延びた理由と、整合」
「大祭:式次第の運営=魔法評議会官吏。当主の挨拶=原稿。統制は家全体に及ぶ(殿下の原稿は、お家の制服)。公の主宰権=太陽の移ろいの宣言のみ(奪う価値なしとされた役目)」
「評議会高官、実見。照合、開始:
バルディ議長——筆頭・恰幅。式次第の、公式の宛先。
ネーリ議員——白髪・三期目・監察部会長。……私の綴りの写しは、監察の筋? ——推定で、埋めない。
ステッラート議員——四十がらみ・長身。官吏の目の、非公式の宛先。二度に一度、議長より、先。構成図上の枠、未詳。要照合。
残る顔ぶれ、三、四名——名前との一致、未了。公報の号を、遡ること」
「コスタンツォ公:型の外に出ない方。例外、一言——『クラウディウス侯には、感謝している』。読めない。保留」
「セレーナ公妃:ご依頼、拝受。『あの子を、導いて』。——当職の回答:『私に、できる形で』。誠実に、履行のこと」
それから、頁を、改めて。
「公家書庫:評議会議事録の副本、推定百年分。監督権の名残として、届き続けている。敵の管理外。閲覧、随時の許可を得た。——調査環境、一変」
「アリアドネ法案:三度の審議録、実見。棄却の機構=雇われ法律家による技術的指摘の集積。指摘は個々に正当、配列は殺意(順不同・大小混合・時間の殺害)。——正しい道具の、悪用」
ペンが、そこで、止まった。
……もてあそばれて、いたのよ、あの人は。
……私の商売の道具で。
……なら、私の返し方は、決まっているわ。
……同じ道具で、——今度は、通すの。
「方法論(対アリアドネ反省):小さく。隙なく。順を追って。定義は一箇所、例外は明示、経過措置は本体より先に書く。——敵に、正当な指摘を、一つも、残さないこと」
……あの三冊は、負け方の目録どころじゃなかったわ。
……敵の、攻め手の目録よ。百年前の指摘の型、全部、頂いていくわ。私の草案の、校正者は、——あなたたちよ。
最後に、一行。
……それにしても。
……開かない扉の目録に、四枚、並べた矢先に。
……一番大きな扉が、——お姑さまの、「いつでもいらっしゃい」で、開くなんてね。
……婚約者という身分、ずっと、制約の欄に、入れていたけれど。
……訂正よ。——資産の欄に、移します。
床の影が、机の端で、耳を、ぴこん、と立てた。
「ええ。——忙しくなるわよ、私たち」
律子は、蝋燭を、消した。




