第106話 悪役令嬢、公家を訪ねる
夏の終わりの朝は、光の色が、少しだけ、金に、寄る。
大祭の日だった。正式には、ソレムニタス・トランシトゥス・ソリス——太陽の移ろいの大祭。街の言葉では、暮れゆく夏の祭。
「夏送りですね、お嬢様! 屋台は、出ませんけど!」
ジーナは、朝から、飛び回っていた。ドレスの最終の点検。贈り物の包み直し。装填の練習は、今日は、お休みである。
律子は、姿見の前で、支度の仕上がりを、確かめた。控えめの、正装。婚約者として、初めての、伺候となる。
……作法の確認、済み。贈り物、済み。話題の在庫、三つ。
……配役表の、舅と姑の欄が、今日、埋まるわけね。
……初見プレイ、開始よ。
◇
公宮は、丘の中腹に、あった。
馬車を降りて、律子は、まず、建物を、見た。見る、というのは、彼女の場合、読む、ということだ。
正面は、立派だった。石の彫刻。磨かれた扉。旗。
……そして、翼棟の窓が、——閉まっているわね。左右とも。鎧戸ごと。
……使っていないのだわ、あちらの棟は。
出迎えの使用人は、礼儀正しく、——少なかった。この規模の宮なら、倍の人数が、いるはずだ。
案内される回廊は、磨き込まれていた。完璧に。
……完璧なのは、この動線だけ、ね。
……曲がり角の向こう、視線の届かない廊下の奥に、——埃が、積もっているもの。窓の光で、見えるのよ、ああいうのは。
……磨く手が、足りないの。磨くべき場所を、選んでいる。
……立派な正面と、閉じた翼棟。少ない人手。止まった修繕。
……学校の噂通りだわ。「公家は、お財布を、評議会に、握られてる」——。
……お招きが大祭まで延びたのも、これが理由ね。お客を迎えるには、支度の要る家なのよ。
◇
大祭の儀は、宮の前庭で、行われた。
律子は、婚約者の席から、それを、見た。
祭壇。聖歌。参列者の中には、評議会の高官たちが、儀礼の正装で、並んでいた。
……いらしたわね、魔法評議会の、顔ぶれ。
……評議員の構成図が、——顔を、持っていくわ。
……筆頭、あの恰幅の方が——バルディ議長。評議会の筆頭。
……お隣の白髪が、人事の告示にあった三期目の——ネーリ議員。監察の、部会長。
……覚えるわよ。今日は。そのために、目が、二つあるの。
……でも、あとのお歴々は、まだ、お名前と、繋がらないわ。順に、参りましょう。
そして、律子は、式の運びを、見て、——気がついた。
式次第を、さばいているのは、公家の家令では、なかった。評議会の、官吏である。進行の合図も、香炉の順番も、評議会の袖章をつけた男たちが、仕切っている。
……あら。
……お家の祭りなのに、進行係が、——監督されるべき側の、役人。
……「逆さま」の、実物だわ、これ。
……それと、——もう一つ。
官吏たちは、要所要所で、伺いを、立てていた。合図の前の、一瞬の、目くばせ。行き先は、参列席の——バルディ議長。序列通り。
……のはず、なのだけれど。
……二度に一度、皆様の目が、先に、隣へ、流れるのよね。
……議長の、二つ隣。四十がらみの、背の高い方。
……どなたかしら。構成図の、どの枠?
……分からないわ。今は、——お顔だけ、頂いておく。
やがて、公が、祭壇に、立った。
カリスト・ヴァレンティーノ・アルカディアの父。コスタンツォ・アルカディア公。銀の混じった金の髪。均整の取れた、静かな立ち姿。
公は、手元の紙を、開いた。
……原稿。
朗読は、正確で、荘重で、——どこにも、引っかからなかった。夏の恵みへの感謝。移ろいゆく太陽への、言祝ぎ。定められた言葉が、定められた通りに、流れていく。
……ああ。
……分かったわ、殿下。
……あなたの原稿は、あなただけの、ものじゃなかったのね。
……この家、全体に、かかっているのよ。統制が。祭りの進行から、当主の挨拶の一字一句まで。
……壇上の二分間の、あの窮屈さは、——お家の、制服だったんだわ。
公の宣言で、儀は、頂点を迎えた。太陽は、夏の座を離れ、実りの座へ、移ろう——。
……太陽の移ろいの、宣言。
……太陽はね、評議会の許可なく、動くのよ。
……だから、この役目だけ、残されたんだわ。誰も、奪う価値を、認めなかったから。
……形だけ残して、実質を、奪う。——その儀式そのものを、いま、見ているのね、私。
儀が果てて、参列の、崩れる、短い間だった。袖に記章をつけた官吏が、一人、足早に、あの背の高い高官へ、寄って、頭を下げるのが、見えた。
「ステッラート様。お車の、ご用意が」
……ステッラート。
……頂いたわ。お名前も。
◇
拝謁は、儀の後の、小さな広間で、行われた。
「——プルデンティア・セヴェリーニに、ございます」
律子は、最上の礼をした。
コスタンツォ公は、静かに、頷いた。近くで見る公は、儀の時と、同じ顔をしていた。完璧に整えられた、読めない顔。
「よく、来られた。……息子が、世話に、なっている」
「もったいない、お言葉で、ございます」
言葉は、それで、ほとんど、尽きた。型通りの、二往復。公は、型の外に、一歩も、出なかった。
辞去の礼の、間際だった。
「——クラウディウス侯には」
公が、言った。
「……感謝している」
それだけだった。次の瞬間には、公は、もう、次の拝謁者の方を、向いていた。
……。
……今の、一言。
……原稿の声と、——同じ。同じ型。なのに。
……一音だけ、重くなかった? 「感謝」の、あたり。
……気のせいかしら。
……分からないわ。読めない。——読めない一言、として、保留。
公妃は、対照的だった。
セレーナ・アルカディア公妃は、律子の手を、両手で、取った。手が、温かかった。
「まあ、まあ。……ようこそ、いらっしゃいました。ずっと、お会いしたかったのよ」
「公妃殿下——」
「セレーナで、いいのよ、ここでは。……あの子から、聞いていますよ。厩舎で、レヴァンテに、乗ってくださったんですって? あの子、あの日、珍しく、夕食で、二回も、笑ったの」
……二回も、笑った。
……数えて、いらっしゃるのね。息子さんの、笑った回数を。
◇
歓談の間で、カリストと、合流した。式服の彼は、原稿の顔を、脱ぎかけていた。
「堅苦しかったろう」
「厳かでしたわ。……ときに、殿下。一つ、伺っても」
「ああ」
「アリアドネ議長の、法案の草稿——正本は評議会の文書館で、許可制と、伺っております。ですが、審議の記録でしたら、と、思いまして。お家に、何か、残っておりませんこと? 監督のお立場なら、と」
カリストは、少し、考えて、——あっさりと、言った。
「書庫に、あるはずだ」
「やはり。監督のお立場ですからね」
「それも、あるが」
カリストは、こともなげに、付け加えた。
「昔、うちからも、議長が、出ているからな。——その、アリアドネだ。曾祖父の、叔母……大叔母、だったか。——まあ、うちの人だ、とにかく」
律子は、扇子の内で、二秒、止まった。
……いま、なんと、仰った。
……アリアドネ議長が、——アルカディア家。
……伝記の表紙を、思い出しなさい、私。『議長アリアドネ』。家名の記載——なかったわ。読み飛ばした若い章に、書いてあったのかしら。
……監督する家から、監督される機関の長が、出ていた時代が、あった。
「存じませんでした」
「有名な話だと、思っていたが。……いや、今となっては、誰も、あまり、話題にしないな。そういえば」
……話題にしない。
……有名な話を、誰も、話題にしない。
……へえ。
律子は、我に返った。
……そうだ、それより。
「ところで、議事録があると仰いました?」
「評議会の議事録の、副本だ。監督の立場だから、と、昔から、届く。……誰も、読まないが。埃の、山だ」
……いま、なんと、仰った?
「——何年ぶんが、ございますの」
「さあ。……全部じゃないか。祖父の代も、その前も、届いていたはずだから」
……全部。
……百年ぶん。
……評議会が、許可制で、囲っている記録の、——完全な、副本が。
……敵の、管理の、届かない場所に。
……そして私は、——この家の、婚約者。
「殿下。……その書庫、拝見しても、よろしくて?」
「埃だらけだぞ」
「埃は」
律子は、言った。
「——読めますのよ、私」




