第105話 悪役令嬢、雪の夜の記憶を聞く
夏が、深くなった。石畳の照り返しが、強い日には、噴水の水音が、ごちそうに聞こえる季節である。
律子の朝は、決まった手順で、始まる。
顔を洗う前に、窓辺に、立つ。朝の光に、自分の影を、落とす。
……おはよう。
……濃さは——ええ、いつも通り。
影の先が、丸くなって、長い耳が、二本、立った。影のウサギが、朝の挨拶に、耳を、ぴこん、と揺らした。
……はい、おはよう。今日も、よろしくね。
魔法使いと対決した、その翌朝からの、約束である。毎朝、見る。濃いか、薄いか。元気か、疲れているか。歯磨きと、同じ場所に、収まった約束だった。
「お嬢様、お茶の支度ができました。——あ、今朝も、濃いですね!」
ジーナが、影を見て、にこにこした。この子は、いつからか、影の検分の、立会人になっている。
「ええ。満点よ」
「昨日のファヴィッラ、読みます? 豆の相場が、また上がってて、食堂で大騒ぎです」
「あなたの朗読会で、聞かせてもらうわ」
◇
昼、公宮から、書状が、届いた。
厚い、上等の紙。公家の紋章の、封蝋。
「来たる大祭の儀に際し、ご参列を賜りたく——」
「こ、公宮!」
ジーナが、封筒の紋章だけで、直立した。
「お嬢様、公宮ですよ! 殿下の、お家!」
「ええ。——婚約してから、初めての、お招きね」
……日取りは、数週間先。大祭に、合わせて。
……招かれて行く場所ですものね、宮廷は。婚約者でも、押しかけるわけにはいかない。
……それにしても、ずいぶん、ゆっくりの、お招きだこと。
……まあ、いいわ。お支度の、時間をいただいたと、思いましょう。
律子は、目録に、頁を、一つ、立てた。
「公宮伺候(大祭):作法の確認。贈り物の選定。ドレスは、ジーナと相談」
「懸案:殿下のご両親の情報が、目録に、薄い。公は、寡黙な方、公妃は、お優しい方、との噂のみ。——配役表の、舅と姑の欄が、白紙だわ」
……乙女ゲームで言えば、ご両親への、ご挨拶イベント。
……攻略情報、なしの、初見プレイね。
……ふふ。まあ、いつものことだわ。
◇
その午後、律子は、図書館からの帰りに、——夕立に、捕まった。
中庭を斜めに横切る、屋根つきの回廊。駆け込んだ先に、先客が、いた。
背の高い、奨学生。小脇に、書物。
「……あら」
「——セヴェリーニ様」
マルクスが、会釈をした。近頃は、図書館や古文書庫で、偶然出会うことが、増えた。出会えば、判例の話をする。先例の解釈を、聞き合う。それが、いつの間にか、当たり前になっていた。
雨は、本降りだった。回廊の屋根を、雨音が、太鼓のように、叩いている。石畳の照り返しの熱が、雨気に、洗われていく。
……足止めね、これは。
……まあ、悪くない足止めだわ。判例の続きでも——
と、思って、律子は、ふと、別の問いを、口にしていた。判例の続きでは、なかった。ずっと、目録の隅にあった問いだった。
「——カンディドゥス様。一つ、伺っても、よろしいかしら」
「はい」
「あなたは、なぜ、法律家を、志されたの」
雨音の中で、少しの、間があった。
マルクスは、雨の中庭を、見た。それから、当然のことを話す、いつもの声で、——話し始めた。
◇
「十三の、冬でした。妹が、熱を、出しました」
医者は、治療費を、要求した。先払いで。家に、その金は、なかった。
「それで、私は、——賭場に、行きました」
「賭場」
「カードゲームです。私は、一度、場に出た札を、全部、覚えていられます。私の魔法は、そういうことに、使えます」
……ええ。使えるでしょうね。判例も全部、忘れない方だもの。
「勝ちました。治療費には十分。……でも、勝ちすぎました」
帰り道を、ごろつきに、つけられた。家に戻って、妹を担いで医者の家に向かう途中で、囲まれた。金を、出せ。出さないなら、川に。
「雪の、降る夜でした」
マルクスの声は、変わらなかった。ただ、言葉の解像度が、上がった。
「雪の粒が、大きかった。掌に載ると、形が、見えるほど。橋の下の川は、凍っていなくて、——水面が、黒かった。灯りを、吸い込む黒でした。背中に、妹を、負ぶっていました。熱で、ぐったりして、——軽かった。荷物より、軽かった。金を渡さなければ私は殺される。金を渡せば、妹が死ぬ。どうしてよいか分かりませんでした」
……。
「そこに、外套の男が、通りかかりました。全く強そうには見えない、ふくよかな、人の好さげな男でした。——その人が、話し始めたのです」
「話した?」
「法律を、です」
男は、ごろつきの顔ぶれを、順に見た。それから、静かな声で、——条文を、諳んじ始めた。
「路上の強取の罪。刑の、下限と、上限。夜間と、複数と、年少者相手の犯罪への、加重。累犯の、扱い。条文の番号まで、正確に。それから、この区を受け持つ裁定官の、名前。前の年の、同種の事件の、判決の重さ。——数字と、名前だけで、できた話でした。脅し文句は、一つも、ありませんでした」
「……それで」
「退きました。全員。——刃物を持った男たちが、丸腰の男の、記憶の中の言葉に、退いたのです」
マルクスの声は、変わらなかった。ただ、その一節だけ、少し、ゆっくりだった。
「人が退いた後の川辺というのは、静かです。雪の落ちる音が、聞こえるほど。……私は、その静けさの中で、思いました。いま、私たちを守ったのは、——正確に、覚えられた言葉だ、と」
男は、その町の弁護士だった。
「弁護士は、私に、勝った金の出どころを、聞きました。私は、答えました。カードで、稼ぎました、と。——嘘のつけない場面、でしたので」
弁護士は、少年を、叱らなかった。説教も、短かった。
「『その魔法を、賭場で使えば、いつか、君は川に浮かぶ』と。それから、川の方を、見て、言いました。『いま、私が使ったのは、腕力ではない。記憶だ。——君は、条文を、覚えられるだろう。その魔法は、こういう使い方に、しなさい』」
……こういう使い方。
……いま、目の前で、刃物を退かせた、使い方。
「なぜ法律か、と、お尋ねでしたね。——これが、答えです。あの夜、法律が、私と妹を、守りました。正確に記憶された、法律が。そして私の魔法は、——それに、向いていました」
◇
「写本は、その、続きです」
「続き?」
「法律を学ぶには、年月と、金が、要ります。弁護士は、そのことも、知っていました。——宛先を、くれたのです」
「セルヴィアの、古書店に、知り合いが、いたのです。その店が、——アルカディアの古書店と、取引をしていました。アルカディアの店は、セルヴィアの本の写しを、欲しがっていた。原本が、国から、出せないので。……試しに、一冊、写しました」
「……それが」
「五年前です。以来、注文が、絶えたことは、ありません」
……五年。
……あら。
……ああ、——あの「五年」だわ。
……二十二番地で、モンタヌス様が、仰った。「私が、保証いたします。五年、当店の写本を、任せてまいりました」。
……あの時は、聞き流したのよ、私。先月来たばかりの学生と、五年の保証が、繋がらないまま。
……セルヴィアの机から、アルカディアの店へ。五年間、字だけが、海を——山を、越えていたのね。
……そして、あなたの予備学院の五年は。教室の奥でノートを取らなかった五年は。
……夜ごと、写本を書いて、実家を助けていた五年、だったんだわ。
「雇い主の顔は、学府入学まで、知りませんでした。字だけの、付き合いでした」
マルクスは、少しだけ、何かを、思い出す顔をした。
「雇い主は、写しの正確の、理由を、聞きませんでした。——値段だけ、上げてくれました」
……ふふ。
……らしいこと、モンタヌス様。詮索せずに、適価で。
「進学先に、この学府を選んだのは、——仕事が、この街に、あったからです。それと、特殊例外の、登録の都合と」
雨音が、少し、弱くなった。
◇
律子は、話を、頭の中で、もう一度、たどった。たどって、——ひっかかった。
……雪の粒の、形が見えるほどの大きさ。
……水面の、灯りを吸い込む黒。
……妹の、荷物より軽い重さ。
……五年前の夜の話に、しては。
「……カンディドゥス様」
「はい」
「まるで、——昨夜のことのように、お話しになるのね」
マルクスは、雨の中庭から、目を、戻した。
「——はい。昨夜も、見ましたので」
……。
「……見た、というのは」
「私の魔法は、忘れません。それは、——記憶を呼べば、その時の感情の強さのまま、戻ってくる、ということでもあります。古い痛みは、風化しません。五年前の雪は、五年前の温度のまま、降ります」
当然のことを言う声だった。しかし、当然のことを言う声で、語る内容ではなかった。
「呼ばなくても、——戻ることが、あります。寝る前などに。昨夜が、そうでした」
「……」
「珍しいことでは、ありません」
……珍しいことでは、ない。
……毎晩とは、仰らないのね。
……仰らない控えめの分だけ、——重いのだけど、それが。
律子は、何かを言おうとして、——言葉の在庫を、順に、繰った。慰め。却下。謝罪。却下、それは前に禁じられたわ。共感のふり。論外。
残ったのは、質問だった。弁護士の、質問だった。
「……その痛みに、慣れは、来るの」
「——来ません」
マルクスは、言った。
「慣れは、忘却の、一種ですので。私には、その機能が、ありません。……ただ」
「ただ?」
「隣に、別の記憶を、並べることは、できます」
雨が、上がりかけていた。雲の切れ目から、洗われた光が、一筋、中庭に、落ちた。
「並べる、と」
「痛い記憶は、消せません。薄まりも、しません。ですが、その隣に、——良い記憶が、あれば。呼び出した時に、両方が、やって来ます。……それだけの、ことですが。五年で、覚えた、やり繰りです」
……。
……消せないなら、隣に、置く。
……在庫の、管理だわ。倉庫番の、知恵。
……この方、その暗い倉庫を、五年、一人で、切り盛りしてきたのね。十三の冬の棚の、隣に、何かを、並べながら。
「——雨、上がりましたね」
マルクスは、空を見て、言った。それから、律子に、一礼した。
「お話し、しすぎました。……このような話は、初めて、しました」
「……あら。光栄だわ」
「では」
彼は、水たまりを避けて、歩いて行った。濡れた石畳に、夕方の光が、映っていた。
◇
夜。貴賓区画の、灯りの下。
律子は、目録を、開いた。開いて、——しばらく、書けなかった。
書いたのは、事実の行から、だった。
「カンディドゥス様の写本歴:五年(十三歳の冬より)。経路:セルヴィアの古書店経由、二十二番地。モンタヌス様の保証『五年』と、整合。予備学院の五年=勉強と写本の五年」
「同氏の魔法の副作用:記憶の再生は、当時の感情の強度を、保存したまま。風化、なし。就寝前などに、自動で、戻ることあり。慣れ、なし。——対処:隣に、別の記憶を、並べる(本人談)」
ペンが、止まった。
……強度を、保存したまま、というのを。
……想像で済ませては、いけない気がして、律子は、——自分の、一番痛い棚を、開けてみた。
……劇場の、大階段。
……深い緑のドレスに、広がっていく、黒。傾いでいく、お母さまの重さ。悲鳴だけがあって、誰も動かない、階段の白さ。
開けただけで、胸の底が、冷えた。指先まで、冷えた。
急いで、棚を、閉じた。
……閉じられるのよ、私は。
……五年かけて、時間が、記憶の角を、少しずつ、丸めてくれているの。開けても、五年前の温度では、もう、降らない。
……忘却って、——恩寵だったのね。
……誰も、恩寵とは、呼ばないだけで。息をするように、皆、もらっている。
……あの方は、それを持たない。あの棚の角は、五年前の鋭さの、まま。毎晩、素手で、触っているのだわ。
……。
……ちなみに、私の、二番目に痛い棚は、——前世の、最後の日の、あれよ。
……刺されたことじゃ、なくて。薄れていく意識で、「部屋の乙女ゲーム百五十本、家族に見られる」って、後悔したこと。
……あれが毎晩、当時の強度で、戻るのだとしたら。……それはそれで、別種の地獄だわね。走馬灯の、恒常営業よ。
……ふふ。
……笑えたわ。よし。
……そして、笑って戻ってこられるのも、——風化の、おかげ。
……等価交換。
……全ての魔法は、対価を要する。——サントーニ先生に、教わった。
……私は、毎朝、影の濃さを、確かめて生きている。自分の魔法の、値札を、知っているから。
……特殊例外が、一学年に、二人、と、監察棟で、思った。仲間が、いる、と。
……それなのに、私、あの方の魔法の値札だけ、——見なかった。
……入学式の日に、思った。 「あちらは、ただで、毎日、全冊よ。魔法の配給係は、何を考えていらっしゃるのかしら」——と。
……ただじゃ、なかった。
……代金後払いの、魔法だったの。請求書は、毎晩、枕元に、届いていたの。五年前の雪と、五年前の温度で。
律子は、目録の頁を、繰った。マルクスが写本師だと知った夜の、訂正の行。「訂正:うらやましいのは、魔法ではなかった。——魔法との、付き合い方の方」。
その下に、書いた。
「再訂正:うらやましい、は、全部、取り消し。——あの魔法は、代金後払いの魔法。請求書は、毎晩、届いている」
「等価交換。ただの魔法は、ない。——私が、一番、知っていたはずなのに」
……また、だわ。
……境遇を、見なかった。次は、値札を、見なかった。
……三度目よ、プルデンティア。あなた、あの方のことに限って、どうして、そう、目が、粗いの。
……。
……それから、もう一つ。
……あの方、聞き返さなかったわね。「あなたの魔法の代償は」って。
……礼儀なのか、わきまえなのか。……あの方は、全部、話したのに。雪も、賭場も、川の黒さも。
……もし、聞き返されていたら、——私は、答えたかしら。
……。
……答えられなかったかも知れない。
……正直の勘定で、私、あの方に、借りが、できたわ。
最後に、律子は、今日の言葉を、一行、書き写した。
「『隣に、別の記憶を、並べることは、できます』——カンディドゥス様」
……倉庫番の、知恵。
……ならば、せめて。
……並べる棚の、良い記憶の側に、——今日の夕立の回廊が、入っているといいのだけど。
……。
……あら。
……私、いま、何を、考えたのかしら。
頬に、覚えのある熱が、上った。三度目の、熱だった。
机の端で、影が、耳を、そっと、伏せていた。跳ねも、ぴこぴこも、しない。ただ、伏せて、こちらを、向いていた。
「……心配しないで。——何でも、ないのよ」
影の耳は、伏せたままだった。
律子は、蝋燭を、消した。




