第102話 悪役令嬢、相手側を弁護する
初夏の陽が、石畳に、照り返す季節になった。
中庭の大樹は、葉の色を、濃くした。講義は、進み、律子の目録は、厚くなった。学府の暮らしは、三月目に、入っていた。
その昼、クララが、貴賓区画に、駆け込んできた。
「セヴェリーニ様、あの、あのっ」
「落ち着いて、クララさん。お茶が、こぼれてよ」
「ティモくんが、大変なんです」
クララは、息を整えて、話した。寮の食卓の、端の少年。魔法登録の日に貴族の学生に順番を譲らされていた、あの子である。
曰く——ティモは、この春から、写本の仕事を、始めた。腕を見込まれて、二十二番地の古書店の下請けに入り、それとは別に、学生からの個人の請け負いも、受けるようになった。先月、三年生のバッソ様から、論文用の写本を、請け負った。こちらは、個人の仕事である。百枚あまり。口約束で、証文は、ない。納めたところ、バッソ様は、代金を、払わない。それどころか。
「写しが間違っていたせいで、論文の点を落とした、賠償しろ、って。ティモくん、寮で、真っ青になってて。来月の、生活費なんです、あれ」
「……なるほど」
「セヴェリーニ様なら、何とか、できるんじゃないかって。わたし、思って」
クララの目が、まっすぐだった。先日、貴賓区でお茶をしてから、この子は、律子を、頼ることを、覚えたようだ。
……頼られたものね。
……そして、これは、——揉め事の型としては、教科書ものだわ。
「クララさん。これは、内緒で助ける類の話ではなくてよ。表の手続きに、載せるの。——契約法実習の、グラティアヌス教授のところへ行きましょう。学内の揉め事の、調停の窓口は、あちらよ」
◇
グラティアヌス教授は、話を聞き終えると、髭を、ひと撫でした。
「裁定所に、持ち込む前の、学内調停。——ふむ。受けよう。判定は、わしがやる」
それから、教場を、見回すように、目を動かした。誰もいない教場を、である。
「代理人が、要るな。双方に」
「ティモくんには、どなたか——」
「カンディドゥス君だ。同業の、先輩だろう。写本の手ほどきは、彼と、聞いておる」
……あら。ティモさんの写本のお仕事、あの方の、仕込みだったの。
「バッソ君の側は、——なり手が、おらん。奨学生いじめの片棒と、思われたくない者ばかりだろう」
教授の目が、律子の上で、止まった。
「セヴェリーニ嬢。あなたが、やれ」
「……わたくしが、ですの」
「弁護士は、依頼人を、選べん」
髭が、もうひと撫で、動いた。
「それに、だ。あちらに、あなたが付けば、——手心を、疑う者は、おらんだろう」
……。
……つまり、悪役令嬢が貴族側に付けば、出来レースを疑う者はいない、と。
……使い方が、的確で、腹が立つわね、この髭。
「——お受けいたします」
傍らで、クララが、固まっていた。
「え……セヴェリーニ様が、……あちら側の弁護人、ですか?」
「ええ。あちら側よ」
「で、でも、ティモくんは——」
「あの方が代理人なら大丈夫。それに、クララさん。相手方に、まともな代理人が付くことは、ティモさんの利益でも、あるのよ」
クララの眉が、困惑のまま、寄っていた。
「……分からなくて、いいわ。終わりまで、見ていらっしゃい」
……説明しても、この痛みは、伝わりにくいのよね。
……見せる方が、早いの。
◇
依頼人、オラーツィオ・バッソは、三年生だった。よく仕立てられた上着と、よく仕立てられた不機嫌。
「怪談の令嬢どのが、僕の代理人とはね」
律子は、イニシアティブを取りたいだけ、の挨拶を無視した。
「ごきげんよう。事実の確認から、始めますわ。——論文と、写本と、教授の指摘を、拝見」
書面を、並べさせた。論文の、減点された引用。写本の、該当の一節。採点の朱筆——「引用、原典と、相違」。
……ふうん。減点は、事実。引用と写本の一節の一致も、事実。
……本物の不満の種は、あるわけね。踏み倒しの言い訳では、なく。
「先に、申し上げておきますわ、バッソ様。賠償までは、手を伸ばせません。減点の損害を立証するのは、砂の城ですもの。——ですが、写しに誤りがあるのなら、代金の話は、別。そこは、削れます」
「……ふん。やれるものなら」
「やりますわよ。お引き受けした以上は」
◇
調停は、教場で、開かれた。見物は、入れない。当事者と、代理人と、判定席の教授。それから、当事者側の席に、青い顔のティモと、付き添いのクララ。
想定外の再戦の場を用意された、マルクスと律子は、互いに静かに会釈した。
「——始めよう」
教授の言葉で、律子は、立った。
「請求は、写本の代金、九十リル。当方の答えは、こうですわ。——支払い義務、なし。当該写本には、瑕疵が、ございます。現に、依頼人は、写しの一節を信じて引用し、原典との相違を、指摘され、減点されました。写本の、唯一の効用は、正確さです。誤りのない写本、というのが、そちらの売り文句と、伺っておりますけれど」
律子は、ティモの側を、見た。
「ならば、まず、写しの正確を、証明なさい。代金の請求は、その後ですわ」
ティモの顔から、残っていた血の気が、引いた。立証責任を、投げられたのだ。百枚の写本の、全行の正確さを、どうやって——
「——証明します」
静かな声が、響いた。
マルクスは、書類を、持っていなかった。机の上には、一枚の紙きれだけが、あった。
「ただし、この教場では、できません。原本は、古文書庫から、持ち出せませんので。——検証の期日を定めていただくよう、求めます。場所は、古文書庫。全員で、原本を、見に行きます」
グラティアヌス教授の髭が、面白そうに、揺れた。
「よかろう。——明日の午後、書庫でだ」
◇
古文書庫の閲覧机に、三つのものが、並んだ。原本。写本。論文。
書庫番の老人が、少し離れて、腕組みしながら見ている。閉架の原本を、こんな人数で囲む閲覧は、久しぶりなのだろう。
「問題の一節は、原本の、この行です」
マルクスの指が、原本の頁の、一行を、指した。
律子は、覗き込んだ。——覗き込んで、止まった。
その行には、二つの字が、あった。本文の字。そして、行間に、細い別の手で、書き込まれた、訂正の字。
「——後筆です。本文より、数十年は、新しいインク。誰かが、後の時代に、原本に、訂正を、書き込んだ」
マルクスは、写本を、開いた。該当の頁。本文の写し。その行間に、小さな注記の字。そして、挟み紙が、一枚。
「原本、この行、後筆の訂正あり。本文と訂正、両様を写す。採否は、読み手に委ねる」
「写本は、原本に、忠実です。本文も、訂正も、両方、写してある。注記も、してある。——バッソ様が論文にお引きになったのは、訂正の側です。指摘された『原典との相違』は、写しの誤りではなく、原本の中の、二つの選択肢の問題です。そして、選択は」
マルクスは、挟み紙を、静かに、指した。
「——読み手に、委ねてあります」
教場が——書庫が、静かになった。
バッソの顔が、赤くなって、白くなった。挟み紙を、読んでいなかったのだ。
……。
……負けたわ、これ。
……書面の上では、私が、攻めていた。現物で、ひっくり返された。
……記録に対する誠実は、——最強の防御なのね。
……ティモさん、あなた、いい仕事の流儀を持っているわ。誰に教わったかは、——聞くまでもないけれど。
律子は、背筋を、伸ばした。転進である。
「——写しの正確は、認めますわ。お見事」
「では——」
「ですが、履行は、正確だけでは、完成しませんのよ。次の問題は、時期です」
律子は、受注の経緯に、切り込んだ。注文は、いつか。論文の提出日は、告げられていたか。納品は、いつか。
答えは、こうだった。目的は、告げてあった。納品は、——提出の、二日前。
「二日で、百枚を検分し、注記を確かめ、引用を選べ、と。写本の性質上、無理がございますわ。よろしくて、皆さま。——祭りの翌朝に届いた祝い菓子に、満額を払う方が、いらして?秋祭りのために、あつらえた菓子ですのよ。味は、完璧。ただし、屋台は、もう、畳まれておりますの」
クララが、思わず、というふうに、小さく、頷いてしまって、慌てて、止めた。
「履行は、目的に、間に合ってこそ。遅れの分は、——割り引いて、いただきます」
マルクスは、すぐには、答えなかった。それから、ティモの方を、一度、見て、言った。
「——遅延は、事実です。この春、古書店からの下請けが、立て込んでいた。個人の請け負いにまで、手が、回らなかった。……受けすぎたのは、こちらの、事情です」
……店の下請けが、立て込んでいた。
……あら。
……この春の、二十二番地の立て込みの、正体は——
……私の、九冊だわ。
……常連の職人が、私で、埋まって。店で溢れた分が、新人に、回って。——押し出されたのが、この個人のお仕事、というわけ。
……。
……弁論には、使わない。というか、使えないわ、これは。私の依頼人の、利益じゃないもの。
……でも、覚えておくのよ、律子。私の大口注文が、この子の納期を、遅らせたの。
「それから、——一つ、認めます」
マルクスは、挟み紙を、見た。
「注記は、正確でした。ただ、——届いては、いませんでした。表紙に、注記の存在を、記すべきだった。正確と、伝わるは、別のことです。……以後、写本の表紙に、注記の一覧を、付けるべきです」
……。
……この方、自分の完璧にすら、注文をつけるのね。
◇
和解は、その場で、まとまった。
一。写しの正確を、双方、確認する。瑕疵の主張と、賠償の請求は、取り下げる。
二。代金九十リルは、認める。ただし、納期の遅れにつき、一割五分を、減じる。
三。写本側は、以後、注記の存在を、表紙に、明示する。
署名の前に、律子は、依頼人を、廊下に、連れ出した。
「バッソ様。まだ、争えます。争えますけれど——この先、勝ちを拾いに行けば、あなたは『挟み紙を読まずに職人を訴えた方』として、記録に、残ります。ここで菓子折り一つ持って手を打てば、『納期の遅れをきちんと割り引かせた、目端の利く方』で、済みますの。——お選びなさいな。どちらが、安くて?」
バッソは、しばらく、黙って、それから、署名した。
◇
書庫の出口で、ティモが、マルクスに、頭を下げていた。何度も、何度も、下げていた。減額はされたが、来月の暮らしは、立つ。仕事も、続く。二十二番地は、立て込んでいるのだ。
「いえ」
マルクスは、当然のことを言う声で、言った。
「……職業上の、知識が、あっただけです」
……出たわね。
……魔法込みの、次は、職業込み。
……あなた、また、自分の勝ちを、値切ったわ。
ティモとクララが、連れ立って、帰っていく。書庫番が、原本を、うやうやしく、閉架へ、戻していく。夕方の光が、書架の森に、斜めに、落ちていた。
「——ときに、カンディドゥス様」
律子は、言った。
「一つ、伺いたいのだけれど。あなたは、写本のお代を、お返しにならないの?」
マルクスが、こちらを、見た。
「……と、いうと」
「あなたの写本は、魔法で、書かれているわ。忘れない魔法。職業の知識も、込み。——それで書いた九冊のお代を、あなた、お受け取りになったでしょう。でも、お返しには、ならなかった」
「……仕事の、対価ですから」
「ええ。仕事の対価。あなたのもの。当然ですわ」
律子は、一歩、近づいた。
「では、伺うわね。同じ魔法と、同じ知識で、今日、あなたは、後輩の暮らしを、守った。その勝ちだけ、どうして、あなたのものでは、ないの」
「————」
「魔法が寄与したものは自分のものではない、というのが、あなたの理屈でしょう。なら、写本のお代も、お返しにならないと、辻褄が、合いませんわ。でも、お返しには、ならない。ならなくて、いいのよ。あの九冊は、あなたの仕事で、あのお代は、あなたのものだもの。——なら、点数と勝ちだけを割り引く理屈は、どこから、来ますの?」
マルクスは、答えなかった。
答えられない、顔だった。隠す訓練を受けたことのない顔に、問いが、そのまま、刺さっているのが、見えた。
……ええ。刺さりなさい。
……あなたのやましさはね、論理じゃ、ないのよ。論理なら、いま、崩れたもの。
長い、沈黙の、あとで。
「……持ち帰ります」
マルクスは、言った。模擬裁判の廊下と、同じ言葉を。ただし今度は、——法学の問いでは、なかった。
「ええ。ゆっくり、どうぞ」
律子は、令嬢の礼をして、書庫を、出た。
◇
夜。貴賓区画の、灯りの下。
目録に、和解の条項を、写した。それから、別の頁に、今日の覚え書き。
「検証の型:書面で攻め、現物で返される。記録への誠実は、最強の防御(写本師の流儀、弟子まで、通っていた)」
「祝い菓子の弁論:採用。クララさんに、効いた模様」
「当職の大口注文が、新人の納期を押した件:弁論不使用(利益相反)。——ただし、記憶しておくこと」
ペンが、止まった。
……「持ち帰ります」。
……模擬裁判では、私が、法学の問いを、持ち帰らせた。
……今日のは、——あの方自身の、問い。
……答え合わせは、急がないわ。ああいう問いはね、持ち帰った先で、時間をかけて、効くのよ。
……ふふ。
……効きなさいな。
床の影は、静かだった。濃さは、いつも通り。
律子は、蝋燭を、消した。




