第101話 悪役令嬢、婚約者を弁護する
北の丘の上からは、街が、一望できた。
白い学府。評議会の塔。坂の街並み。川が、光っていた。
「いい眺めだろう」
「ええ。——とても」
カリストは、鞍の上から、あちこちを、指した。あの市場は、秋の祭りで、屋台が出る。あの橋は、古くて、渡ると、いい音がする。あの森の先に、いい水場がある。ゼフィロが、好きな水場だ。
どの言葉も、生きていた。誰の原稿でも、なかった。
「西の、ずっと向こうが、——エアルだ」
「エアル」
「晴れた日は、山の切れ目が、見える。……今日は、霞んでいるが」
……エアル。
……クララさんの、生まれた国。銀行と、コンピュータの原型を作った国。
……あちらの方角、と。覚えておきましょう。
しばらく、二人とも、黙って、街を、見ていた。
風が、丘の草を、撫でて、通った。
「——ここでは、誰も、点を、つけない」
カリストが、ぽつりと、言った。
「……殿下?」
「いや」
彼は、少し、笑った。さっきの笑いの、残りのような、でも、少し違う、笑い方だった。
「——なんでも、ない。そろそろ、戻ろう。日が、傾く前に」
◇
帰り道の、半ばだった。
道端の草むらから、——雉が、飛び立った。
羽音が、破裂のように、鳴った。
レヴァンテが、棹立ちに、なった。
視界が、傾いた。手綱が、手から、逃げた。落ちる——
落ちなかった。
横から、ゼフィロが、体を、寄せていた。カリストの手が、レヴァンテの手綱を、取っていた。もう片方の手は、律子の腕を、支えていた。
「——どう、どう。……いい子だ。もう、いない。飛んで、行った」
声が、低く、ゆっくり、馬に、注がれた。レヴァンテの前脚が、地面に、戻った。荒い鼻息が、少しずつ、収まっていく。
いつの間に、これほど、寄せたのか。分からなかった。一瞬だった。
「——大丈夫か」
「……ええ。ありがとう、存じます」
心臓が、まだ、速かった。
……助けられたわ、私。
……この手際で。この速さで。
カリストは、レヴァンテの首を、撫でて、それから、言った。
「レヴァンテを、叱らないで、やってくれ」
「あら。——叱りませんわ」
「臆病なのは、——目が、いいからだ」
当然のことを言う声だった。
「よく見えるから、怖いものが、多い。それだけの、ことだ」
……。
……臆病なのは、目が、いいから。
……。
……殿下。あなた、そういう言葉を、お持ちなのね。
◇
学府の門を、馬を曳いて、くぐった。
夕方の回廊には、生徒が、まだ、残っていた。遠乗り帰りの二人連れに、視線が、集まって、——散った。散った先で、囁きが、始まった。囁きというのは、書架の隙間も、回廊の柱も、よく通る。
「まあ。遠乗り? 殿下と、あの方が?」
「殿下、すっかり、尻に敷かれて、おいでね」
「あの悪魔的な頭脳ですもの。殿下なんて、掌の上ですわ」
「外国のご令嬢に、公国が、操られていくのよ」
「そもそも、あのご婚約、侯爵家のご財産が、目当てだって、お話よ」
「そうなの? まあ、いやだ」
「だって、公家は、お財布を、評議会に、握られてるんですもの。仕方が、ありませんわ」
「……殿下、お気の毒に」
律子は、歩調を、変えなかった。
カリストは、前を、歩いていた。ベッポと、飼い葉の話を、していた。聞こえたのか、聞こえなかったのか、背中からは、分からなかった。
……ああ。
……思い出したわ。入学式の週の、あの回廊。
……「ご婚約者様の……首席で、いらして……」の、囁き。
……あの日、もう半分が、添えられていて、私は、聞き取らなかった。
……これだったのね。
……殿下を、憐れむ声。
……私が褒められるたび、あの方が、値切られていたんだわ。——ひと月半も前から、ずっと。
◇
夜。貴賓区画の、灯りの下。
「お嬢様、手が!」
お茶を運んできたジーナが、律子の手のひらを見て、声を、上げた。手綱の痕が、赤く、残っていた。
「勲章よ。初心者の」
「お薬、塗ります。動かないでください」
薬を塗られながら、律子は、目録を、開いた。今日のささやきを、一覧に、書き出す。尻に敷く。悪魔的頭脳。操り人形。財産目当て。評議会に握られた財布。
書き出して、眺めて、——束を、ほどきに、かかった。
……さて。診断を、始めましょう。
……一つ目。「悪魔的頭脳」。
……事実認定に、争いは、ございません。まあ、悪魔かどうかは、審理の対象外として。
……二つ目。「殿下は、操られる」「財産で、買われた」。
……却下よ。証拠調べは、済んでいるわ。
……操り人形はね、「知ったかぶりは、しない」なんて、言わないの。
……操り人形は、馬丁の名前を、覚えないし、売れ残りの馬を、見込んだり、しないのよ。
……雉の一瞬に、あの手綱。あの声。あれは、誰かに操られた手じゃ、ないわ。
……あの方は、操られる方では、ないの。——測られ方が、間違っているだけ。
……学府の物差しは、一本しか、ない。あの方の良さは、全部、物差しの、外側にあるのよ。
……財産目当て、については。
……政略の婚約に、清らかな動機を、求める方が、無理筋ですわ。こちらだって、お父さまのご戦略。お互いさまよ。
……三つ目。「公家の財布は、評議会が、握っている」。
……。
……これだけ、毛色が、違うわね。
……悪口じゃ、ないわ。情報よ。具体的で、——検証、可能。
……公家は、評議会を、監督する立場。なのに、監督する側が、監督される側に、家計を、握られている?
……逆さま、じゃないの、それ。
……でも、調べにくい。婚約者の家の財布に、正面から、触れるわけには、いかないもの。
ペンが、目録に、走った。
「本日の囁き:例の型。事実の粒(財政の件・要検証)に、悪意の推測を、束ねてある」
「公家の財政:評議会の管理下、との噂。真偽未確認。——調べにくい筋。保留」
それから、別の行に、今日の言葉を、書き写した。
「『臆病なのは、目が、いいからだ』——カリスト殿下」
……あの方、ああいう言葉を、お持ちなのよね。
……学府の物差しが、測らない場所に、ぽつん、ぽつんと。
律子は、配役の頁を、開いた。少し、考えて、一行、足した。
「殿下が、ご自分の言葉で話せる場所:厩舎。——それから、たぶん、もう一箇所」
……中庭の、あの笑い方。
……いいことだわ。あの方にも、点をつけられない場所が、要るもの。
……丘の上の、あの言葉。遠乗りの解放感だと、思っていたけれど——
……いえ。詮索は、しないの。今日は、良い日、だったのだから。
目録を、閉じる前に、最後の頁に、一行。
「第十六年度、読了。未読先例、ゼロ。——再戦の支度、完了」
机の上を、影が、するりと、横切った。先が丸くなり、長い耳が、二本、立って、——影のウサギが、机の端で、一跳ね、二跳ねした。昼のぶんまで、元気だった。
「……あなた、今日、丘の上でも、ずっと、寝ていたものね」
ぴこぴこ。耳が揺れた。
「殿下のお側は、そんなに、寝心地が、いいの」
ぴこん。
「……羨ましいこと」
律子は、笑って、蝋燭を、消した。
手のひらの薬が、すう、と、涼しかった。




