第39章
「陛下、犠牲になられる前にお話があります」
康大はデネボラに腰をつかまれ、今にも放り投げられる寸前のカチョウに向かって言った。
もはや船は半分沈み、旗艦に乗り換えるのも難しい。
それでもこの船には結局ほとんどの人間が残っていた。
「手短に話せ」
デネボラの動きを止めるよう言い、康大に先を促す。
カチョウもカチョウで、このまま時間稼ぎをしても、その場しのぎにしかならないことは理解していた。
だが、それでもやらないよりはやった方がマシであることもまた事実である。
「御意。あの化け物をどうにかするアイディアが思いつきました。ただそのために陛下には囮になっていただきます」
「この私に餌になれと言うか!」
カチョウは豪快に笑う。
周囲の家臣達も、非難するどころか声を上げて笑った。
死の淵にあれば誰もが無礼講だ。
どんな話であれ誰の前であれ可笑しければ笑う。
「よい、続きを言え」
「御意。これより陛下にはここから飛び降り、真下にいるセイレーンを引き付けていただきます。それでデネボラ」
「なんだ?」
「お前も一緒に飛び降りてほしい。泳ぎが上手でバカ力があるお前の助けが必要だ。後々恨まれたくないから言うけど、襲われないとはいえ死ぬほど危険でまあ死ぬかもしれない」
「いまさら何を言う」
デネボラもカチョウの様に豪快に笑う。
同じような一国、一族の主として、この2人の態度には通じるものがあった。
そしてその死生観も。
「俺は族長になった時点で、皆のために死ぬ覚悟をしてきた。お前が今言ったことは「息を吸う覚悟があるか?」と言っているも同然だ」
「そりゃ失礼」
康大は苦笑する。
頼もしいが、自分とは絶対に相いれない価値観だなと笑えるほど思えた。
それから周囲のメルセデス軍人達も自分にできることはないかと、康大に次々聞いてくる。
康大は彼らに今はとりあえず船上で今まで通り援護するよう頼み、今度は2人の仲間に向き合った。
「というわけでダイランドも一緒に飛び降りてほしい。お前も泳ぎが得意で怪力があるからな。ただ多分2番目に危険だ。無事かどうかは計算に入れてないからおそらく死ぬんじゃないかな?」
「全然かまわねえっス。そういう場面に遭遇したのは、手の指どころか足の指足しても足りないぐらいっスから。まあそのほとんどが師匠が原因だったんスけど……」
「然らば拙者は?」
「圭阿は船の上に残ってほしい」
「・・・・・・」
圭阿はあからさまに不服そうな顔をする。
活躍する場面を奪われた圭阿の言持ちは分からないでもないが、康大には絶対に共感できない感情だ。
そんな圭阿の耳元で、康大は他の人間に聞かれないように囁いた。
「(この船にいるのはメルセデスの人間だけで、俺に何かあった場合、助けてくれる保証がないんだよ。だからお前にはその保険として上ににいてほしいんだ)」
「・・・・・・」
圭阿の不服そうな顔は変わらなかったが、不承不承といった様子でうなずいた。
手柄は得られずとも役目の重さは理解してもらえたらしい。
「この期に及んで留守番とは無念でござる……」
「まあその分俺が活躍してやるっスよ」
「むむむ、手柄を横取りされたようで複雑でござる」
「俺なら手柄より安全が欲しいけどな。それじゃあ計画を説明します。まず陛下がセイレーンに襲われます。その際セイレーンは陛下を食べようとするはずですから、船上の人は実際に食べられないよう上から援護し、デネボラとダイランドは俺が口の中に入って攻撃するのを援護してくれ。以上」
――それが康大が思いついた作戦、題して"ピノキオ作戦"であった。
圭阿の鯨という単語を聞いて思いついたのは、ピノキオの童話だったのである。
なお原作では鯨ではなくサメなのだが、大部分の日本人はディズニーの影響で鯨として覚えていた。
「なるほど。だがセイレーンはアレ一体ではない。その作業を全てのセイレーンに対してするのか?」
「いえ、作戦が上手くいけば一体だけで十分です。それと船上の人達は合図をしたら援護を止めて全力で逃げ、とにかくセイレーンから離れてください。作戦は以上です。では行きます!」
そう言うと、康大が誰よりも早く湖に飛び込む。
前回はダイランドに無理やり放り投げられたが、今回は自主的に水中に入った。
そうしなければ、勇気がくじける気がした。
この作戦において、誰よりも危険なのはカチョウではなく康大自身なのだから。
続いてカチョウ、デネボラ、ダイランドと湖に飛び込む。
彼らは康大と違い、今更勇気を振り絞る必要もない。
船はほぼ沈み、半分湖に浸かっていたが、他は逃げずにその場に残った。
中には飛び込んで水中から援護しようとするメルセデス軍人もいたが、それを他が止める。
1人が飛び込めば、我慢しきれず結局全員が飛び込むことを、その場にいる誰もが理解していた。
飛び込んだ時の音が決め手になったのか、男セイレーンはカチョウの存在に気付き、船を攻撃する手を、そのままカチョウに向ける。
「ここでつかまれたら作戦は失敗だ! 何としても防げ!」
水面に首だけ出している康大はその場にいる全員にそう指示を出した。
そして自分はすぐに湖に潜る。
康大自身の戦場は水面ではなく水中だ。
康大の指示で一斉に攻撃が始まる。
【UUUUUUUUGgggggggYYYyyyAAAaaaaaaa!!!!!!!!!!!!】
弓と魔法、それに圭阿の爆裂苦無を使った集中攻撃は、鱗を貫き、男セイレーンの腕は引きちぎれるかと思えるほどのダメージを受けた。
攻撃した軍人達が、このまま押し切れるとも思えるほどの戦果である。
(でも無理だろうな)
康大は冷静にそう分析する。
腕をいくら攻撃したところで、大本の心臓や脳が無事なら意味がない。
セイレーンが魚類か哺乳類か分からないが、腕一本程度で死ぬこともないだろう。
これから康大がやろうとしているのは、その大本を壊す……正確にはおかしくするための行動だ。
強い痛みで平常心を取り戻したのか、男セイレーンは集中砲火受けた腕を大きく振り回し、湖の底へと潜っていく。
このあたりはグラナダ湖でも最も水深が深く、巨体の男セイレーンでもかなり自由に動くことができた。
そしてそれは康大にとって好都合だった。
一度潜った男セイレーンは、水中から今度は攻撃されなかった方の腕でカチョウに襲い掛かる。
水中にいられれば援護射撃も届かない。
だが、そのためのデネボラとダイランドだ。
デネボラは水中とは思えない動きで槍を振るい、カチョウに触れる前に手を傷つける。
さらにダイランドも水中戦はお手のものなのか、切りつけるというより押し付けると言った方が適切な攻撃を手にする。
【UUUUUUUUUUuuuuuuAAAAAAAaaAAGuuUUFuuUUU!!!!!!!!!!!!!!!】
痛みを感じるツボにでも当たったのか、男セイレーンは先ほどの攻撃以上ににもがき苦しむ。
知らぬ間にダイランドの斧は指を一本切り落としていた。
痛みを恐れたのか、知恵を働かせたのか男セイレーンは再び潜る。
『・・・・・・』
この頃になると、康大だけでなく他の人間達もこの状況の不自然さに気付き始めた。
もうすでに何体かの男セイレーンはこの場に集まっている。
ただ、実際に船や康大達を攻撃しているのは今まで船の真下にいたこの男セイレーンだけであった。
他は回遊しながら遠回しに様子を見ている。
「ところで怪物どもは集団で襲ってこないみたいっすけど、何か理由があるんスかね?」
一端息継ぎの為に水上に顔を出したダイランドが、その疑問を最初に口に出して言った。
「これはあくまで俺の勝手な推測だけど――」
遅れて水面に顔を出した康大がそれに答える。
「雌……じゃなくてデネボラを襲わないあたり、笛で命令されてもまだセイレーンの本能は残ってるんだと思う。だからカチョウ陛下を襲えって命令されても、今戦ってる奴の縄張りを冒さないよう襲おうとしてるんじゃないかな。あの笛の命令がもっと正確だったら一斉に襲われたかもしれないけど、漠然と笛を吹いたやつを襲えって感じだったから、その本能が優先されたんだと思う」
「じゃああいつはこうなることも知らずに死んだってことっスか?」
「そうかもしれない」
「は、いい気味っスね!」
ダイランドは本当におかしそうに笑う。
この状況においてもそんな笑いができるあたり、本当に尋常な性格ではない。
肺活量が人間のそれではないデネボラは、未だ水中にいながらダイランドの無神経さに呆れていた。
「ただ、この遠巻きがいつまで続くか分からない。仲間がピンチになったと分かれば、きっと助けも入るはずだ。ここで完璧に勝負を決めなきゃらならない。陛下も心の準備をしておいてくださいよ」
「言われずともすでにできている。むしろ貴公は年中平和でうらやましいな」
2人同様水上まで戻っていたカチョウが珍しく軽口を返す。
実際この場で緊張しているのは康大だけだ。
他は全員とっくの昔に覚悟は終わっていた。
(つくづく生まれたセカイの違いを感じるなあ)
むしろザルマのような現代日本人的な平和主義者の方が珍しいのだろうかと、康大は思った。
「――さて、どうやら来るようだぞ」
カチョウが視線を水底に向ける。
いったん引いたと思われた男セイレーンが再び急浮上を始めたのだ。
男セイレーンはエラ呼吸でもしているのか、水底から大粒の泡が浮かび上がってくる。
やがて男セイレーンはその大口を開けたまま浮上してきた。
今度は両腕を使わず、直接的な手段で来たようだ。
迫り来る男セイレーンの恐怖はホラー映画の比ではない。
クジラの様な巨体をしているが、同じように歯の代わりに髭があるわけではなく、鮫のような牙が2列にわたって並んでいる。もしこのまま口に飛び込めば、その瞬間高確率で五体バラバラにされるだろう。口内に関しては断然ピノキオの原作に近い。
ナゴヤの街では多くの人間がその被害を受け、運河は血で染まっていた。
しかしあの時の彼らの犠牲は無駄ではなかった。
彼らの犠牲があったからこそ康大は牙の存在を知り、ただ単純にピノキオのように口の中に飛び込む作戦にしなかったのだから。
「ダイランドとデネボラはあのでかい口を閉じないよう抑えててくれ! うまい具合に!」
『・・・・・・』
2人は「うまい具合って……」と文句を言いたそうな顔し、目線を合わせる。
だが無理難題はお互い覚悟の上だった。
やれやれといった態度で、改めてそれぞれの得物を構える。
「私には何を期待する?」
「陛下はそこにずっといてください。むしろ動くと面倒なことになります!」
「逃げるな、ということか。いいだろう、楽ができるに越したことはあるまい」
カチョウは立ち泳ぎをし、笑いながら答えた。
康大には絶対に真似できない豪胆ぶりだ。
話している方の康大は歯がカチカチと鳴っているというのに。
「さて、無駄話はこれぐらいにしておこうか、来るぞ!」
『――――!!!』
カチョウの言葉と同時に、全員の視界に大口を開けている男セイレーンの全身が映る。
最初に動いたのは当然デネボラとダイランドだ。
「おりゃァ!!」
「せい!!!」
カチョウを挟むように配置してい2人は、水面ギリギリの位置まで浮上した男セイレーンの口内に、それぞれの武器を突き立てる。
両方上側ではそのまま口を閉じられただろうが、打ち合わせせずともしっかりと上と下に分かれて武器を刺していた。
鱗など存在しない口内を、2人の得物はいともたやすく突き刺さる。
【------------------------!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!】
今回は口を開けた状態で刺されていたため、特有の絶叫もあげることはできない。
「そのまま口を開けさせたままに!」
康大の指示でデネボラは舌の上に立ち槍を下向きに、ダイランドも同じ場所から斧を上向きに押し上げる。
デネボラの槍はある程度の長さがあるため、男セイレーンの顎まで貫いた。
それでも今回は男セイレーンも引き下がったりはしない。
今更引くこともできないと判断したのか、興奮で再び痛みの感覚がマヒしたのか、頭の上半分を水上に浮上させ、重力の力を使ってそのままカチョウもろとも丸飲みにしようとする。
結果的にその場にいた人間とセイレーンは全員男セイレーンの口の中の住人となった。
このまま口を閉じられれば、かみ殺されて即死するだろう。
それがダイランドもデネボラも文字通り死ぬほど理解していたので、武器を握る手を少しも緩めはしない。
そしてこの3人以外にも、もう1人飲みこまれている人間がいた。
「コウタさん未だっスか!?」
指示通り同じ態勢で微動だにしないカチョウの隣で、あたふたとしている康大に向かい、ダイランドは叫ぶ。
男セイレーンは顔ごと水面に浮上したため、今は全員が水上に顔を出していた。
この状況では、船上からの援護もできない。
「・・・・・・」
焦点の合わない目の康大は何も答えられず、とにかく勇気を奮い起こそうとしていた。
カチョウと比較にならないほど肝が小さい康大が、怪物の口の中にいて冷静でいられるわけがない。
心の中では「死ぬ」、「怖い」、「つらい」、「帰りたい」、「死ぬ」といった憶病な感情と必死で戦っていた。
「ええいくそ!」
それでもどうにかこうにか底が尽きた勇気を借金して工面し、体を動かす。
ここに留まっていれば死ぬことは確実だ。
そう理性で感情を説得させる。
ただ言うまでもなく問題はここからだ。
唇あたりで事が済めば、ならそこまで難しいミッションでもない。
――つまり康大は、本当にピノキオのようにこの男セイレーンの口の奥まで移動しなければならなかった。
あまりに口側に近いと流れるし、自分以外の3人まで被害を受けることになる。
「無心無心……」
そう自分に言い聞かせながら、舌の上を這いずる。
幸いにも男セイレーンはこの場で飲み込もうとしているのか、口を閉じる以外の行動はとっていない。
だが、あまり時間をかけると、せっかくここまでお膳立てをしてもらったのが無駄になる。
康大は恐怖と不快な感触と生臭い臭いに耐えながら、男セイレーンの口内を進む。
その速さはまるで蟻が進むようだ。
恐怖で体がすくみ、うまく手足が動かない。
「も、もうそろそろいっスか~?」
「ほう、大の男がだらしないな。俺なら一晩中でも余裕だが?」
「ぐ……」
背中からダイランドの泣き言と、それをあざ笑うデネボラの嘲笑が聞こえてきた。
ただ、口ではああ言っていてもデネボラも限界に近い。
康大には見えなかったが槍を持つその手は震え、知らぬ間に鼻血まで流れていた。
カチョウは相変わらず平然としているが、それは死を覚悟した人間のそれだ。慰めにもならない。
男セイレーンの舌がわずかに動く。
それだけで心臓が飛び出す気がした。
そのことが切欠で、康大の中で色々のなものが切れた。
「俺ってホント馬鹿だよなあ! こんな無茶苦茶な方法思いつくなんてさ! こっちのセカイでも普通に死にそうじゃねえか!」
涙と鼻水を垂らしながら康大は突然笑う。
あまりに精神的に追い詰められすぎて、もう笑うしかなくなった。
しかし人間こうなると強い。
「うおおお!!!!!!!!」
康大はゴキブリのように無様に手足を動かしながら、今までとは比較にならないぐらいの速さで進む。
そして予定していた場所のさらに奥まで――食道の直前あたりまで進むと、護身用のナイフで自分の掌を深く傷つけた。
あまり浅い傷では効果が薄い。
男セイレーンは鯨のように常に海水を吸い込んでいるため、流れ出る血は胃の方へと流れていく。
「おまけだ!」
さらについでとばかり、ナイフで男セイレーンの舌を傷つけると、そこに自らの掌をこすりつけた。
これで男セイレーンの全身に自分血がいきわたることになる。
そうなったらどうなるかは、もはや言うまでもないだろう。
――そう、ピノキオ作戦の最終目的は、あの薬草にしたように、男セイレーンをゾンビ状態にすることであった。
できるなら鱗を剥いで、外から安全に感染させたかった。
だが、それでは血が湖に広がり効果が期待できず、なにより協力してもらった仲間達が感染するリスクがある。自分1人なら安全だが、あそこまで激しく動き回る男セイレーンに対し上手くできる自信がなかった。
そのため、こうして血が散らばるリスクが少なく、また感染が早まりそうな場所まで、文字通り死ぬ気で移動したのである。薬も皮膚に塗るより内服した方が効果が高い場合が多い。
康大は任務完了を確認すると、掌を携帯していた包帯でぐるぐる巻きにし、行きと同じようにゴキブリ同然に這いずり戻る。
その途中、今まで口を押さえていた2人と餌役のカチョウにも逃げるよう指示を出し、自分は真っ先に口の中から飛び出し泳いで距離を取る。
生臭さと舌の感触が消えた瞬間、康大は自分が生きていることを痛感する。
今まさに口の中に取り残されている3人のことを心配する余裕などない。
現実セカイではそうやって生きてきた。
ヒーローになろうとした人間ほどあちらでは先に死んでいる。
尤も、充分な能力のある3人にとっては、康大に待たれた方が面倒である。
まずカチョウが康大に続いて口内から脱出し、その後デネボラとダイランドが口から出る。
上下に差している武器を抜くと口を閉じられるので、刺したまま脱出した。
予備がいくつもあるダイランドはいいがデネボラの槍は曰くがありそうなため悩むかと思われたが、見ている康大が呆気にとられるほど簡単に手放した。
日頃命のやりとりをしている人間は、むしろ自らの命の価値を正確に理解し、瞬時に取捨選択ができるのかもしれない。
……正確には人間ではないが。
口の中から出た3人は、康大の元へ集まろうとしたが康大がそれを止める。
「今の俺には近づかないでくれ! あとこれ以上湖に残る必要はない、全員船に乗ってここから逃げてくれ!」
康大はあらん限りの声で叫ぶ。
ワーメントの船は完全に沈み、メルセデス軍人達のほどんどは湖で立ち泳ぎをしていた。
そんな彼らをアイチ軍旗艦で待機していた湖族達が急いで回収しに向かう。
圭阿だけはすでに旗艦に乗り移っていたので、湖族達も無視して逃げることはできない。
その間、感染させた男セイレーンは微動だにしなかった。
カチョウに襲い掛かることも、暴れることもない。
この展開に康大以外の人間達は皆呆気に取られた。
それでも今すべきことは理解し、次々と旗艦に乗船していく。
そして、本来なら真っ先に救助を求める康大だけが、最後まで湖に残った。
「コ-タ! 上がれ!」
ハイアサースが船の上から声をかけロープを垂らす。
康大はそれをつかみはしたが、上がろうとはしなかった。
未だ計画は完全に成功したわけではない。
男セイレーンがゾンビセイレーンになるのを見届けるまで、船に上がるわけにはいかないのだ。
もし効果が薄かったり、そのまま死んだりしたら、また自分1人だけでも同じことをしなければならない。かなりの血を流した以上、協力を求めるのは危険すぎた。
それに、ここまで苦労してきたことが無駄でした、では康太も納得できない。
……と、言うよりそれ依然に――
(そんなことになったら確実に死ぬだろうな、多分)
――康大はため息を吐く。
結局成功しなければ全滅することはほぼ間違いないのだ。
周囲は完全に大勢の男セイレーンに囲まれ、逃げ場はない。一体の男セイレーンを倒したところで戦況はほぼ変わらないのである。
ならば危険でも徹底して成功の確率を上げるべき――。
やらないという選択肢は完全に除外されていた。
やがて、感染させた男セイレーンではなく、別の、周囲で様子をうかがっていたセイレーン達が旗艦に近づいてくる。
仲間の異常を感じてか、それとももはや役に立たないと判断したのか、ワーメントが残した最後の役目を果たそうとようやく動き出した。
その動きに連動し、今まで死んだように微動だにしなかったあの男セイレーンが突然動き出す。
その動きはほぼ痙攣で、もはや知性どころか生の息吹すら感じられず、ハリウッド映画に登場するなりたてのゾンビそのものであった。
突然の仲間の不可解な行動に驚いたのだろうか。
目と鼻の先まで近づいていた男セイレーンの一体は、その場で膠着した。
これが本来の知性ある生き物の反応だ。
彼らもホイッスルで操られているとはいえ、完全な心神喪失状態にあるわけではない。
しかし康大によってゾンビ化された男セイレーンにそんなものなどなかった。
怪物は仲間にその大口を開けて噛みつく。
よく見て見れば負傷した腕は、筋線維がむき出しの状態で醜く復活していた。
しかもその力は以前より明らかに強く、あの堅固な鱗を牙は突き破り、指は皮膚に突き刺さる。
襲われた方はひどく暴れた。
鱗のために致命傷にまでは至らなかったが、ゾンビになったモノに噛まれたのだ。
仲間意識があまりに強すぎるせいか、暴れはするもののゾンビ化した男セイレーンを攻撃することはなく、とにかくもがいて引き離そうとした。
だが、次第にその抵抗も弱くなり、ゾンビ化した男セイレーンと同じように弛緩してほぼ死んだような状態になった。
どうやら作戦は完全に成功したようだ。
ただ、ここから繰り広げられるであろう地獄絵図を思うと、康大も素直には喜べなかったが。
「コータ! とにかく上がれ! 逃げるぞ!」
再び船の上のハイアサースが声をかける。
今度は康大も素直に従おうとした。
これ以上、ここにいてやるべきことはない。
安全を考えれば、一目散に逃げるべきだろう。
だが、この命の瀬戸際の状況でまた康大の直感が囁いた。
ここは動くべきではない、と。
康大はその直感を逆に理論武装させ、自分を納得させていく。
「いや、俺はここにいる。船も錨を下ろして絶対に動かすなと言え! 他の船もだ!」
「な――」
康大の指示にハイアサースは絶句した。
驚いたのはハイアサースだけではない。
康大の指示はあまりに無茶で、納得できる者など本人を除いて誰一人いなかった。
「どういうことか説明しろ!」
そう言ったのはハイアサースではなく、カチョウだ。
全員の命を預かる手前、まずそれを確認しなければならない。司令官として当然の態度である。
康大はそれに対し、立ち泳ぎをしながら冷静に答える。
「ある方法で私はあのセイレーンを狂わせました。おそらく今奴は陛下に対する攻撃命令も忘れ、見境なく襲い掛かる状態です。ですから今は動かず、船をただの景色の一部のように思わせた方がいいはずです。他のセイレーンもこちらが逃げなければ、まずは仲間の方を優先するでしょう」
「……分かった」
カチョウはそれ以上は理由を聞かず、その場にいるすべてのアイチ軍に停船の命令を出すよう部下に指示する。
数秒後、魔術師がのろしのようなものを打ち上げ、アイチ軍全艦隊はその活動を一切やめた。
カチョウはこの戦いが自分の慮外にあることを瞬時に理解していた。
ならばこそ従うことが最良と、自らの権威やこだわりにも目をつぶることが出来た。
康大はカチョウが素直に自分の言うことを聞いてくれ、ほっと胸をなでおろす。
傲慢だったり憶病な権力者なら、指示を無視してすぐに逃げ出していただろう。
そしてそれは、死んだワーメントが残した最後の罠のように康大には思えた。
もちろんワーメントは康大がゾンビになっていることも、感染させられる能力があることも知らない。
ただ、もし動いて男セイレーンに襲われたら、地獄の底から手を叩いて喜んだだろうなと、確信していた。
そして康大の計画通りの地獄がグラナダ湖で展開される。
やはり噛まれた男セイレーンも感染し、近づく仲間を次々に襲っていった。
それも予想通り動いた仲間を中心に。
こういう時、群れとしての社会性が致命的になる。
仲間を心配して近づいたモノは噛まれ、また命令を遵守し、船に近づいたモノも結局噛まれる。
それでも逃げ出さないのは、命令に逆らえないからか仲間を放っておけないからか。
理由がどちらにせよ、ここまで何の抵抗もせずにゾンビにさせられていく男セイレーンを見ていと、康大も哀れにさえ思えた。
船の上から様子を見ているアイチ軍の人間達も、次第に目を背けるようになった。
康大の使った方法がゾンビ化であると分からなくとも、それが非人道的方法であったことを察する事はできる。
相手が怪物でも誰もが同情した。
次第に湖はセイレーンの血で染まっていく。
ただ、血の色はカブトガニのように青かったため、夜の暗さと相まって、そこまで目立つこともなかった。
それでも大量の血が流れている事実は変わらない。
ウイルスが感染した大量の血が。
血は風が起こす波に乗り、近づかなかった男セイレーンにも伝わっていく。
やがて、グラナダ湖にいた男セイレーンの全てがゾンビウイルスに感染した。
全ての男セイレーンに攻撃命令を出したのだから、そう捉えて間違いないはずだ。
そうでなければ困る。
まだまだ康大は追い詰められたままだ。
それから朝日が昇るまで阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられ、辺り一帯にはこの湖に生息していた全ての男セイレーンの死体……らしきものが浮かんだ……。
「終わったのか?」
おそらく船上で最も怯えているザルマが、康大にそう聞いた。
康大は首を横に振る。
「まだゾンビのままだ。お前は知らないけど、本当に終わるまでしばらくこのままだ。今のうちに飯でも食っておけ」
「そうだな」
そう納得したのはザルマではなくハイアサースだ。
当のザルマは食べ物が喉を通るような状態ではなかった。
「あーでもなんか詳しく調べてみたい気もするっす」
いつの間に甲板に上ってきたのかリアンが言った。
康大は苦笑しながら、「やめとけ死ぬぞ」と答える。
それから船の上と湖で色々と話し、康大がいい加減手足の温度低下に耐えきれなくなった頃、変化は唐突に訪れた。
最初にそれを見せたのは、やはり康大が最初に感染させた男セイレーンであった。
突然何の前触れもなく再び激しい痙攣を始め、次いで狂ったように暴れだす。
どこに目があるか分からないが、それが分かっていたらおそらくひどく充血していただろう。
その動きに反応して、周りの男セイレーンが襲い掛かる。
ゾンビ化が進み体がもろくなっていたのか、襲われた男セイレーンはその胴体をグロテスクに引きちぎられていった。
「……うぇ!」
ザルマが甲板から思わず湖に向かって吐く。
康大は巧みに動いて、その被害を最小限にとどめた。
やがて食い千切った男セイレーン達も、次々と同じような症状に襲われる。
こうなれば命令も仲間意識も何もない。
ただ互いに噛みつき、引きちぎり殺し合い、次々とグラナダ湖に醜悪な残骸をばらまいていく。
もはや共食いというより蠱毒だ。
そして最終的に満身創痍の男セイレーンが一体だけ生き残る。
「とどめを」
康大は船に向かって冷徹にそう言った。
ここでかけられる情けといえば、せめて一秒でも早くこの苦行を終わらせることだけだ。
少しして、甲板から弓と魔術師の火球による一斉攻撃が始まる。
もはや腐って軟化した鱗は、それらの何一つも防ぐことはできなかった。
康大はその光景に背を向け、ようやくハイアサースが垂らしたロープを上っていく。
【・・・・・・・・・・】
そして声にならない男セイレーンの悲鳴と共に、グラナダ湖の戦いは幕を閉じた――。




