2-5
化学実験室の扉を開けた途端、つんとした薬品の匂いが鼻先を掠めた。
最初に目に入ったのは、三人の女子の姿。彼女たちは窓際の席を陣取って、きゃあきゃあと盛り上がっている。
「あ、あのっ……」
意を決して、声をかけた。
彼女たちはぴたりと会話を止め、僕を一瞥した。立ち上がり、こちらに近づいてくる。
「鵜月くーん、突然ごめんね? 私同じクラスの冴木 莉愛! わかるー?」
「は、はい。もちろん……」
最初に話しかけてきたのは、真ん中にいる茶髪の女子だった。
美しい顔立ちで、モデルみたいに背が高い。彼女は僕の二つ隣の席――つまり、白鷺くんとは廊下を挟んで隣の席だった。
クラスでも目立つ存在だが、なにかと白鷺くんに声をかけていて、黄色い声を上げているのを知っている。
まさか……
そのとき、ぞっと嫌な予感がした。
――もしかして僕が呼び出されたのは、白鷺くんのことで……?
「鵜月くんに、ちょっとしたお願いがあってさあ。鵜月くんって、最近湊くんと仲いいじゃんー?」
僕の予想を裏付けるように、彼女は口の端を持ち上げた。
「な、仲がいいって……?」
「だって、お昼も一緒に食べてるじゃん! 私たち、何度も誘ってるのに断られてるんだよー?」
「そうだったん、ですか……」
――知らなかった。
てっきり白鷺くんが話しかけにくい雰囲気を出していたから、そっとしているだけかと思っていた。
他の人には何度も断っていたのに、僕には時間をとってくれてたのか……?
「私たち、ずっと不思議だったんだー。なんで鵜月くんが、いきなり湊くんと話すようになったんだろって! 二人って、全然違うタイプだしさ?」
彼女は両隣の二人に目配せをして、くすくすと笑った。楽しそうな笑い声のはずなのに、わずかに緊張が走る。
彼女たちの表情はにこやかで、直接責められているわけではない。
けれど、乾いた目線、吊り上がった口元、言葉の奥に潜む棘――そのすべてが「お前は湊くんと釣り合ってない」と告げていた。
「湊くんの会話を聞いてたら、『旭 ルイ』ってVtuberにはまってるらしいじゃん! それで納得したんだよねー。共通の趣味があるから、鵜月くんみたいな人でも、湊くんと距離を縮められたんだって!」
ルイの名前を出されて、背筋が凍った。
――絶対に、よくないことを言われる。
思わず身構えて、ぐっと拳を握りしめた。
「私も調べたんだけど、要は底辺Vtuberってやつ? 白鷺くんって、なんでこんなの好きなの?」
あはは、と三人の笑い声が響く。
「一瞬だけ配信見たけど、まじでつまらないし、良さがわからなくてさー」
「……っ、そう、ですか……」
心臓が冷えるような感覚がした。
彼女たちは、『旭 ルイ』に直接伝えているわけじゃない。これは僕の配信を見た人の、個人的な感想なんだ。
大丈夫だ。こういう言葉には、慣れているはずだから。
……それでも、じわりと胸の奥が痛んだ。
僕は唇を噛みしめて、沈黙を貫こうとした。
「でも好きなふりしたら、湊くんがたくさん話してくれそうじゃん?」
「……え?」
「いちいち配信みるのもだるいしさあ。だから鵜月くん! 手っ取り早く、『旭 ルイ』の良さを教えてくれない?」
その瞬間、頭を殴られたような衝撃が走った。
――僕を呼び出したのは、このためだったのか。
ただ白鷺くんに近づくためだけの、あまりに身勝手な理由。
彼女たちが、どんなに「つまらない」と嘲笑っていても??白鷺くんはいつも本気で、まっすぐにルイを応援してくれているのに。
「……っ、嫌、です」
絞り出した声は、震えていた。
その場が凍りつき、重苦しい空気がのしかかる。僕はそれでも、言葉を続けた。
「そ、そんな気持ちで話を合わせられたら……白鷺くんも、め、迷惑だと思う」
「……は? なにそれ、鵜月くんに関係なくね?」
冴木さんは、苛立ちを露わにしていた。
――わかっている。彼女たちにとっては、僕は気弱で、なんでも言うことを聞いてくれる存在に映ったんだろう。
たしかに普段なら、どんな理不尽なことでも、流されていたかもしれない。だけど……
『本当に好きなものを伝えても、いいことってないから』
悲しそうに言っていた白鷺くんの表情が、頭から離れなかった。
「と、とにかく僕は、協力できない、です……!」
「はあ!? ちょっと待っ」
冴木さんが僕の腕を掴む。
長い爪が皮膚に食い込んで、鋭い痛みが走った。思わず顔を顰めた、その矢先――
「――なにしてるの?」
背後から、怒気を孕んだ声が響く。
咄嗟に振り向くと――扉の近くに、白鷺くんが立っていた。
「み、湊くん……!?」
冴木さんは大きく目を見開き、僕の腕を放して後ずさる。白鷺くんは実験室の中に入って、僕を庇うように前に出た。
「白鷺くん……」
彼は眉根を寄せて、鋭いまなざしを向けている。
「なんで君たちみたいな人に、鵜月くんが付き合わなきゃいけないんだ?」
いつもと違う厳しい口調に、険しい表情。
彼女たちは顔を見合わせて、口元を引き攣らせた。
「わ、私たちの話、聞いてたの……?」
「廊下でも丸聞こえだったよ? 君たちが鵜月くんに詰め寄ってた話も、全部」
「そ、それは……!」
彼女たちは首を振って、白鷺くんに縋ろうとした。しかし彼は冷たい視線で一蹴し、はっきりと言い放つ。
「鵜月くんは、俺の大切な友達なんだ。――二度と、彼に近づくなよ」
目の前の三人は怯えたように瞳を揺らし、言葉を失った。
白鷺くんは「行こう」と言って、僕の手を引く。
女子たちに向けた冷たい態度とは裏腹に、彼の手は温かくて――安堵で胸がいっぱいになる。
――白鷺くんが、助けてくれた。
それにさっき、僕のことを「友達」だって……
思わず涙が溢れそうになって、咄嗟に制服の裾で目元を擦った。
化学実験室を出て二人で向かったのは、いつもの裏庭だった。
「鵜月くん、さっきは俺のせいで、ごめん」
彼はベンチの前で僕の手をそっと放すと、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「この一週間、クラスの女子が俺たちのことを気にしてたのは知ってたんだ。だけど鵜月くんと話すのが楽しくて、強引に声をかけ続けちゃった」
眉を落とす彼に向かって、僕は必死に首を横に振る。
「白鷺くんは、なにも悪くないよ……! 僕も白鷺くんと話せて、本当に楽しかったから……」
――どうして彼が謝るんだろう。
今日だって僕の様子を心配して、助けてくれた。
現実の世界だけじゃない。『旭 ルイ』としての僕だって、何度も彼に救われてるんだ。
白鷺くんは必死に訴えかける僕を見て、安心したように目を細めた。そして深く息を吐き、掠れた声で呟いた。
「――俺、いつもこうでさ」
「……えっ?」
「周りが勝手に俺の理想を作って、少しでも理想と違えば攻撃されるんだ」
小さな声に、寂しさや諦めが滲んでいる。
――白鷺くんは、全校生徒の憧れの存在だ。
少し前まで、僕もそう思っていた。
現実離れしているくらい完璧に見えるからこそ、周囲の期待や理想を背負わされてしまうのだろう。
……彼本人の意思とは、関係なく。
「俺の好きなものとか、交友関係に介入されて。そうじゃなくても、さっきみたいに無理やり俺に合わせようとしてくる人もいる」
「白鷺くん……」
白鷺くんは静かに顔を上げた。まっすぐに僕を見つめて、柔らかく微笑む。
「でも鵜月くんは、最初から違うってわかったんだ」
「ぼ、僕……?」
彼はゆっくりと頷く。
「鵜月くんは、俺がイメージと違うって言ったり、無理に話を合わせたりしないで……ただ普通に、俺と接してくれた」
白鷺くんは僕の肩に手を添えて、緊張したような表情を見せる。
「もちろん、ルイくんのことを語れるのは嬉しかったし、布教したかったのは嘘じゃない。だけど、その……」
よく見ると、彼の頬がわずかに赤く染まっていた。
彼は意を決したように、真剣なまなざしで告げる。
「もしそれがなくても――これからも『友達』として、一緒にいたいと思ったんだ」
その瞬間、どくんと心臓が跳ねる。手のひらから彼の熱が伝わって、頬が熱くなった。
この一週間、彼と過ごすのが楽しくてしかたなかった。
だけどそれは、『旭 ルイ』という共通の話題があったからで。僕自身に興味を持ってくれたなんて、夢にも思っていなかった。
「し、白鷺くん。いいの……?」
おずおずと問いかけると、彼は首を縦に振った。照れくさそうに視線を彷徨わせて、そっと口を開く。
「……湊、でいいよ」
一瞬、耳を疑った。
「その代わり、俺も『渉』って呼んでいい?」
ふいに呼ばれて、はっと息をのむ。
――名前で呼び合うこと。もしかしたら、みんなにとっては当たり前なのかもしれない。
だけど、ずっと友達がいなかった僕にとっては……これ以上なく、特別な響きだった。
「い、いいよ……!」
最初は僕の正体が彼にバレないように、距離を置こうと思っていたはずなのに。
彼とこれからも過ごせることが、たまらなく嬉しい。
「これからも、よろしくね……。え、えっと……」
僕は一度、深く息を吸った。
「み、湊……」
一語ずつ噛みしめるみたいに、たどたどしく名前を呼ぶ。
湊は目を見張ったあと――満たされたように、優しく笑った。




