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あれから湊とは、すっかり話さなくなってしまった。
同じ教室の、隣の席。数センチしか離れていないはずなのに、そこには深い溝があるみたいだ。
湊には、怒っているような雰囲気はない。けれど、ふとした拍子に目が合うと、彼は気まずそうに視線を逸らす。
僕からは、声すらかけられない。そんな勇気もない。それなのに、まるでここには彼しかいないように、湊の気配だけを意識してしまう。
そんな中、追い打ちをかけるように――僕たち二人は、生徒会や実行委員で席を外すことが多かった。
……きっとこのまま、夏休みに入ってしまうんだろう。
そんな予想通り、僕たちは一度も口を利かないまま、一学期の最終日を迎えてしまった。
その日の放課後も、僕は逃げるように特別教室へと向かった。夏休み前最後となる、実行委員の集まりに参加するためだ。
いつもは運動部の掛け声が聞こえる特別教室は、しんと静まり返っている。最後の集会が終わったのは、空が赤く染まる頃だった。
「じゃ、夏休み楽しんでこいよー」
名雲くんは鞄を肩にかけて、意気揚々と特別教室を出ていった。彼の背中が見えなくなるまで手を振って、ついに僕は一人になる。
誰もいない教室。なぜだか帰る気になれなくて、なにげなく荷物を整理していた。
「あ、これ……」
鞄をまさぐっていたら、内ポケットから『旭 ルイ』のアクリルキーホルダーが出てきた。
最初に湊からもらったもの。鞄につけるのが恥ずかしくて、ポケットに入れたままだった。
「これ、布教用って言ってたっけ……」
湊と仲良くなるきっかけが、このアクリルキーホルダーだった。
あの頃から、湊はずっとルイを応援してくれているのに。僕だけが変わってしまった。
このまま夏休みに入れば、きっと彼との距離はさらに広がるだろう。けれど「僕」はそれでいい。
現実の湊と話せなくても、僕は『旭 ルイ』として、彼と接することができるんだから。
「夏休み、配信頑張らないと……」
僕はアクキーを握りしめたまま、特別教室の扉を開けた。
三階の廊下では、窓から夕日が差し込んでいた。廊下がほのかに赤く染まって、奥からは数名の生徒たちの声が漏れ聞こえてくる。
「会長、次の予算は……」
「ああ……、じゃないかな。これから文化祭も……」
ガラ、と音がして、生徒たちの声が鮮明になった。
扉が開いたのは、生徒会室だった。そこから、生徒会のメンバー数人がこちらに近づいてくる。その中でいっそう背の高い人物に、すぐに目を奪われた。
――湊だ。
慌てて背を向けて、顔を隠す。
いや、本当はこんなことをする必要はない。湊と顔を合わせて、「またね」とだけ言えばいい。
わかっているのに、身体がまったく動かなかった。
湊と、生徒会メンバーの女子。おそらく一年生の庶務の子だろう。彼らは楽しげに話しながら、僕の後ろを通り過ぎていった。
「会長。本当に夏休みは、ほぼ毎日来るんですか?」
「そうだね、仕事もあるし」
「じゃあ私も、手伝いに行きます!」
「気にしないでいいよ。どっちにしろ、俺が処理しなきゃいけない書類だしさ」
女子の好意が滲む弾んだ声と、爽やかに返す湊の声。彼らの声が遠ざかってから、深く吐息を漏らした。
「これでよかったのかな……」
僕の呟きだけが、誰もいない廊下に虚しく響いた。
***
――顔を合わせなくなれば、自然と湊への気持ちは落ち着くはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、迎えた夏休み。僕は自室で配信の準備をしながら、大きくため息を吐いた。
「なんで、思い出しちゃうんだろう……」
脳裏に浮かんでくるのは、昨日の出来事。
最後に声をかけていれば、この胸の苦しさも、少しは軽くなっていたかもしれない。
湊と決定的な溝ができたまま、夏休みに入ってしまった――その後悔が、今でも続いている。
「僕が避けたくせに、どれだけ身勝手なんだ……」
自分自身への呆れと嫌悪で、頭の芯がじくじくと痛む。黒いパソコンの画面に映った自分が、今にも泣きそうな顔をしていて……僕は目を逸らし、『旭 ルイ』用のフォルダを開いた。
「毎日配信の初日なんだから、頑張らないと」
気を紛らわせるように小さく呟き、マウスをクリックする。
画面に表示されたのは、今日の配信のサムネイル。そこにはルイのイラストと、『夏休みの毎日配信!!』の文字が大きく描かれていた。
――毎日配信するって言ったときは、姉ちゃんもびっくりしてたっけ……
自分でも、唐突だったと思う。
毎日配信を決めたのは、もちろんVtuberとして頑張りたいからが一番だ。けれど心のどこかで、スケジュールを限界まで詰め込んで、湊のことを思い出す隙をなくしたい――そんな、逃避のような気持ちもあった。
「……時間だ」
午後一時、「配信開始」のボタンを押す。
僕は一度深呼吸をして、姿勢を正した。笑顔を作り、『旭 ルイ』として――マイクに向かって声を吹き込む。
『みんな、お疲れ! 今日の昼配信、来てくれてありがとー!』
僕が呼びかけると、みんなが反応してくれる。夏休みということもあるからか、同時接続者も多かった。
あっという間に、コメント欄が埋まっていく。
……あれ?
そのとき胸に生まれた、小さな違和感。その間にもコメントは一つ一つ積み上がり、流れていった。
僕は妙な引っかかりを感じたまま、配信を続ける。
『夏休みの予定だけど、色々企画も用意してるんだよねー! 今度は質問・相談コーナーもやろうと思ってる!』
この質問・相談コーナーは、特に古参リスナーさんから要望が多かった企画だ。
『ルイくんにたくさん質問したい!!!!』と、ミシロさんもチャット欄で背中を押してくれたのを覚えている。
コメント欄を見ると、『NGなし?』『いつ配信するの?』と、次々と質問が飛んできていた。
しかしその中にも、見知ったアイコンはない。
僕はようやく違和感の正体に気づいて、頭の芯が冷たくなるのを感じた。
――ミシロさん、いない……?
コメント欄をいくら遡っても、彼を見つけることはできなかった。
いや、もしかしたらコメントをしていないだけで、今日だって観てくれているかもしれない。
けれど、いつもは僕の呼びかけに、誰よりも早く言葉を返してくれるのに。
焦燥感に支配され、視線を泳がせる。ふと画面のルイの表情を見て、はっと我に返った。
ルイは眉を下げ、切なげに瞳を揺らしていた。
――僕、なにやってるんだ……!
慌てて『旭 ルイ』の笑顔を作りなおす。
こんなんじゃ、配信に来てくれたリスナーさんに失礼だ。ちゃんと集中しなきゃいけないのに、どうしても意識の端っこで、彼のことを考えてしまう。
湊にだって、配信を見られない日だってある。そもそも、夏休みは生徒会の仕事で埋まってるって聞いたじゃないか。
僕は余計な考えを振り払い、声を張り上げた。
『質問・相談は匿名でも受けつけてるから、まだまだ募集してるぞー!』
――今の僕は、『旭 ルイ』なんだ。
そう心の中で、何度も言い聞かせる。
胸の奥のざわめきを抑えつけながら、なんとか明るい声を作り続けた。
二時間の配信が終わって、僕は力なくデスクに突っ伏した。
――最後まで、一度もミシロさんからのコメントはなかった。
無理に笑顔を作り続けていたせいか、頬の筋肉がこわばっている。
配信を終えてこんなに疲労を感じたのは、間違いなくこれが初めてだ。
――夏休みの初配信が、これって……
どうにかして気分を変えたくて、重い腰を上げ、部屋から出た。
「渉、お疲れー。今日の配信、過去最大の同接数じゃん!」
リビングに降りると、姉が声をかけてきた。
まだ三時だというのに、ビールを片手にタブレットで絵を描いている。画面に映っていたのは、ルイのイラストだった。
『現役高校生VtuberによるNGなし! 質問・相談コーナー』と題して、自信満々に人差し指を立てている。
「あれ、これって……?」
「あーそうそう! 次の質問相談コーナーのサムネ! なんかリスナーさんの反応がよかったし、特別に描いてあげようと思ってさー」
「えっ? あ、ありがとう……」
今日の姉は、やけに優しい気がする。
疑問に思いながら、僕もソファに腰かけた。スマホを取り出し、『ツブヤキ』に企画の告知文を投稿する。
姉はしばらく無言でペンを走らせていたが、時折ちらちらと、様子を窺うようにこちらを見ていた。
「……姉ちゃん、どうしたの?」
いつもは僕の都合なんてお構いなく絡んでくるのに、遠慮するような視線が珍しかった。
姉はわずかに視線を泳がせてから、おずおずと口を開く。
「……渉。あの話って、どうなったの?」
「あの話?」
「あたしに相談してたでしょ、友達のことを考えすぎちゃうって」
思わぬ話題に、ぴくりと肩が上がった。
姉はそんな僕の変化を見逃さず、深く息を吐いた。
「その反応、あんまり解決してないみたいだね」
「そ、それは……」
「他人の相談事を受ける前に、まず自分の悩みを吐き出せば?」
……たしかに、姉ちゃんの言うとおりだ。
僕は太ももの上で拳を握り、唇を噛みしめる。
姉はそっとペンを置く。彼女は静かに微笑むだけだったが、話を聞くよ、と言われているようだった。
――あれから、湊のことをどう思っているのか。
僕は一度気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと口を開く。
「実は、姉ちゃんに言われてたことをやってみたんだ」
「……へえ」
「友達を増やして、自分の世界を広げようと思って。委員会に立候補して、そこで他の友達もできたんだ」
名雲くんとは、もう「友達」と呼んでもいいくらいになった。
話すだけじゃなくて、ゲームの貸し借りをしたり、夏休みも通信対戦をする約束をしている。気兼ねなく話ができて、一緒にいると楽しい。まさに僕が思い描いていた「友達」との関係そのものだった。
姉は、「やるじゃん」と誇らしそうに口角を上げる。だが僕はそっと目を伏せ、言葉を続けた。
「でも、最初に言った『友達』のことを、なかなか忘れられなくて」
「……うん」
「むしろ距離を取ったら、寂しいと思うようになったんだ。僕が勝手にその友達に依存しないようにしてたのに、本当に身勝手だよね」
たとえ新しい友達ができても、湊への想いは変わらなかった。それどころか、ますます湊を意識している。
今では、配信中のミシロさんの様子も気になって仕方がない。
ミシロさんからコメントがないとすぐに不安になって、その先にいる湊のことを考えてしまう。
「きっと僕にとって……その人は、特別なんだと思う」
「渉……」
「でもその人には、こんな気持ちを伝えられなくて……」
胸の奥が苦しくなって、言葉が詰まってしまう。
「僕なんかが、つ、伝えたら……変に思われるんじゃないかって……」
新しい友達を作って、自分の中の世界を広げれば。湊と話さずに、顔を合わせないようにすれば……彼への恋心を、抑えられるんじゃないかと思っていた。
でも、違う。
――僕はきっと、湊への想いを消すことなんてできない。
僕は俯き、それ以上何も話すことができなかった。
しばらくの間、沈黙が流れる。
――こんなことを打ち明けられて、姉ちゃんも困っているのかもしれない。
僕は怯えたように瞼を閉じる。その瞬間、姉はそっと僕の肩に触れた。
「渉。もっと自信持ちなって」
「……えっ?」
「自分で思ってるほど、渉は駄目な奴じゃないよ」
驚いて、ぱっと顔を上げる。
姉は悪戯っぽく笑っていたが、瞳の奥は真剣だった。
「それに、渉は変わったじゃん」
姉ははっきりと告げた。
「配信を始めてからリスナーさんが増えて、学校でも特別な人ができて。渉が誰かのことを想って、こうやって悩んでること自体が、一歩踏み出した証拠でしょ」
温かなまなざしに、鼻の奥がつんとした。
姉は少し照れたように笑う。静かにペンを持つと、再びルイのイラストを描き始めた。
「……姉ちゃん、ありがとう」
僕が掠れた声で告げると、姉はふ、と表情を緩めた。
「……まあ、うじうじしてるのは、今も変わらないけど」
「えっ……!?」
「でも色々考えちゃうのは、それだけ本気ってことだよ。……無理に抑えようとするのは、勿体ないんじゃない?」
「……っ!」
姉の言葉は、僕の胸を静かに揺さぶった。
――ずっと、抑えなきゃいけないと思い込んでいた。
湊の前で出してしまったら、彼を驚かせて、幻滅させてしまうのだと。
だけどこの想いは、そう簡単に消えてくれない。
でも、それは僕が駄目なんじゃなくて――この想いがまるごと、僕にとって大切な一部だからなのかもしれない。
僕の中に居座っていた重苦しいものが、すっと晴れていくような心地がする。
今でも、湊の姿を思い浮かべると、心臓が激しく音を立てる。
だけど僕は、もうその音を否定しない。
ただ、優しく受け入れるように――高鳴る鼓動を聞いていた。




