4-1
『渉、可愛い』
二人きりの空間で、湊は熱の籠ったまなざしを僕に向けていた。
頬に添えられた手のぬくもりと、耳元で囁かれる甘い声。全身が溶けてしまいそうな感覚のなか、そっと彼の胸に身を預ける。
『……渉、キスしていい?』
僕は顔を上げて、こくりと頷く。
緊張と期待が綯い交ぜになって、胸が限界まで高鳴っている。
湊はわずかに笑みを浮かべて、ゆっくりと身体を寄せた。
目を閉じて、唇が触れる寸前。これまでにないくらい、幸せな気持ちが溢れてきて……
「――うわああ!!」
その瞬間、僕は飛び起きた。
思考が整理されるまで、数秒。窓から差しこむ朝日に照らされ、自室を見回して――ようやく状況が理解できた。
「な、なんて夢を……」
夢に見たのは、まぎれもなく湊とのキスシーンだった。
――完全に、昨日の記憶に引っ張られてる……!
結局昨日は、家に帰ってからずっと悶々としていた。湊との出来事が忘れられなくて、なにも手につかなかったのだ。
この胸の中に巣食っている複雑な気持ちも、いっそのこと寝て忘れてしまいたい。そう思いながら、ベッドに入ったことを覚えている。
「あんな夢見たら、余計に意識しちゃうよ……」
大きくため息を吐いて、スマホを触る。
「えっ、もうこんな時間!?」
ぼんやりとしていたら、家を出なければいけない時間になっていた。僕は慌てて立ち上がり、制服をひったくるように掴んだ。
案の定、学校についたのはホームルームの直前だった。
「なんとか間に合った……」
僕は一度呼吸を整えてから、教室の扉を開ける。
窓際に視線を送ると、湊はすでに席に着いていた。彼は軽く手を振り、花が咲いたような笑顔を見せる。
「渉、おはよう」
挨拶されただけなのに、心臓が大きく跳ねた。
湊はいつもカッコイイけれど、今日はいつにもまして輝いて見える。喉の奥が詰まって、すぐに挨拶を返せない。
――お、落ち着け……!
僕は胸のあたりを押さえて、唾を飲みこんだ。
「お、おは……っ、おはよう」
恥ずかしいくらい噛み噛みだ。
顔を伏せ、視線を合わせないようにしながら席に着く。
胸の奥からせり上がってくる緊張感。元々上がり症ではあるけれど、こんな感覚は初めてだ。
「渉、一昨日はありがとう。すごく楽しかった」
湊は僕の内心なんて知る由もない。椅子ごと僕の机に寄せて、いつものように声をかけてくる。
「こ、こちらこそ……。僕も、た、楽しかった、です」
「はは、なんでいきなり敬語?」
今は言葉を返すだけで精一杯だった。湊は笑いながら、話を続ける。
「この前は見られなかったけど、今度こそルイくんの配信をリアタイしようよ。俺の家ならいつでも空いてるし」
「えっ、あっ……」
心なしか、顔が近いような気がする。
彼が使ってる柔軟剤の香りなんだろうか。ふわりと清潔な匂いがして、彼に借りたシャツを思い出した。
いや、僕は一体なにを考えて……
「渉?」
「――っ!」
湊に声をかけられ、びくりと肩が上がる。彼は僕の顔を覗き込み、きょとんとしていた。
「ごめん、驚かせた?」
「い、いや! 大丈夫……!」
「ならいいけど……。それでさ、渉はいつなら空いてる?」
――生配信を一緒に見るなんて、物理的に無理だ。
そもそも、湊とまた二人きりなんて……!
教室で話すだけで、こんな有様なんだ。
まっすぐ目を見られないし、呂律も回らない。少し近づかれただけで、発火したように顔が熱い。
「う、うーんと……」
断ったほうがいいのはわかってる。でも、なんて言えばいいんだろう。
意味もなくスマホを触って、スケジュールを確認するふりをした。頭をフル回転させ、必死に言葉を選んでいるとき――
「みんな、席に着けー。ホームルームを始めるぞ」
チャイムが鳴り響き、先生が教室に入ってきた。
――た、助かった……!
湊も名残惜しそうに「またあとでね」と言って、自席に戻る。
僕は小さく息を吐き、ほっと胸を撫でおろした。
「このままじゃ、ダメだよなあ……」
一人きりの帰り道。僕は途方に暮れたような気持ちで、大きなため息を吐いた。
今日の自分は、どうかしていた。
湊を見ると、胸のあたりがざわついて、思考が追いつかなくなる。今まで通り接しようと思っているのに、変な反応ばかりしてしまう。
それは今朝変な夢を見たせいなのか、それとも……
「……とにかく、明日からなんとかしないと」
頭を振って、鞄を肩にかけなおす。
湊はいつも通り親しく接してくれているのに、僕がこんな態度をしていたら不審に思うだろう。
――でも、どうやって?
自問自答を繰り返すが、一向に答えは出ない。
あれこれ考えているうちに自宅に着いて、玄関のドアを開けた。
「あ、渉。おかえりー」
リビングに入ると、姉に声をかけられた。ソファにだらしなく背をもたれ、スマホを弄っている。
彼女は顔を上げると、ぎょっと目を剥いた。
「渉、眉間にシワ寄ってるよ?」
……そんなに険しい顔をしていたんだろうか。
思い悩みすぎて、顔に出てしまったのかもしれない。姉は姿勢を正して、再び声をかけてきた。
「悩み事があるなら、おねーちゃんが聞いてあげよーか?」
茶化したような口調だが、声のトーンは柔らかかった。
僕は立ち止まり、瞬きを繰り返す。
――たしかにこのままだと、埒が明かない気がする……
姉には前にも相談をしていたし、きっとまた話を聞いてくれるだろう。
僕は静かに頷いて、おずおずとソファに座った。
「友達のことで、ちょっと悩んでて」
「友達? もしかして前に話してた、『旭 ルイ』のガチ恋の子?」
「あっ……。う、うん」
相手がわかっていると思うと、若干気まずい。口を開くのを躊躇っていると、姉はさらっと言った。
「どうした? ガチ恋にストーカーでもされたー?」
「ち、違うよ!」
思わず声が出た。
ストーカーされたどころか、むしろ僕のほうが意識しまくっている。
「それじゃあ、なんなのよ」
姉は唇を尖らせて、すっと目を細めた。
早く言え、という圧をひしひしと感じる。ついに観念して、おもむろに口を開いた。
「わ、笑わないで聞いてほしいんだけど……。最近、その友達のことばかりを考えて、うまく話せなくなっちゃって……」
「ん?」
「友達のことが気になって仕方ないというか、もうちょっと考えないようにしたいというか……!」
ごにょごにょと誤魔化して、自分でも要領を得ないということはわかっていた。姉は腕を組み、小首を傾げる。
「……え? なにそれ、恋愛相談?」
「ち、ちがっ! 恋愛感情かどうかはまだわからな――じゃなくて、ただ友達として、気になりすぎちゃうってことで!」
「ふーん……?」
姉はじっとりと僕を見て、怪訝な顔をしている。
――これ以上、追及しないでほしい。
僕の願いを察したのか、姉は目を逸らし、考え込むような様子を見せた。
「まあいいや。要は、その友達に依存しちゃってる状態なわけだ」
「……依存?」
「うん。良くも悪くも、大切に思いすぎてるんじゃない? だって、その子は古参のリスナーさんで、しかも初めての友達なわけでしょ?」
「それは、そうだけど……」
戸惑う僕をよそに、姉は突然身を乗り出し、自信満々に言い放った。
「それなら、解決方法は簡単だよ」
「……えっ?」
「渉がもっと友達を増やして、自分の世界を広げればいいんだよ」
その瞬間、僕は目を見張った。
――自分の世界を、広げる……?
姉は人差し指を立てて、得意げに言う。
「世の中、なんでもそうだと思うんだけどさあ。自分の居場所が一つしかないと、自分にはこれしかいない! と思いこむわけ」
「こ、これしかない……」
「うん。人間関係だってそうでしょ? 渉にはその子しか友達がいないから、その子のことばっかり考える。異常に相手の反応を気にしたり、意識しすぎちゃうの」
姉は珍しく、すっと真面目な顔をした。
「あたしもさ、普通に会社で働いてたときは、この職場しかない! って考えすぎて病んでたこともあったよ? でもイラストを描いて仕事をもらえるようになってから、いい意味で気楽になったというか」
「そ、そうなんだ……」
「だから、渉の居場所が増えれば、いい意味でそこまで気にならなくなると思うんだよねえ」
――姉の提案は、妙に説得力があった。
たしかに僕は、現実でも配信者としても、湊とだけ繋がりが深かった。だから彼のことばかりを考えてしまうのは、自然なことだったのかもしれない。
友達が増えれば、また何かが変わるんだろうか。
「でも、湊以外の友達なんて……」
僕が思わず呟くと、姉は唇を尖らせた。
「渉。そもそも配信者を始めたのも、リアルで少しでも話せるようになりたかったからでしょ?」
「あ……」
「最近雑談配信だって、板についてきたじゃん。前は一方的な話しかできなかったのに、今はコメントも拾って、自然と話せるようになったでしょ」
姉は念を押すように、言葉を続ける。
「この際だから、もうちょっと頑張って友達作ってみれば? そしたら案外、その子のことも気にならなくなるかもよ」
姉は口の端を持ち上げて、僕の肩を軽く叩いた。
「姉ちゃん……」
凝り固まっていた肩の力が、すっと抜けていくような感覚がした。
――そうだ、これは僕にとってもチャンスなんだ。
湊への気持ちは、本当に恋愛感情なのかはわからない。
だけど僕が一歩踏み出して、世界を広げれば……この気持ちの正体も、はっきりするんじゃないか。
「姉ちゃん、ありがとう。やってみるよ」
僕は大きく頷いて、ぐっと拳を握りしめた。




