3-5
表参道駅からほど近くにある高層マンションへ、僕たちは雨から逃げるようにして駆け込んだ。
まるで高級ホテルのような佇まいの一室。僕はそこで、ぶかぶかの白いシャツの袖を握った。
――結局、シャワーまで借りてしまった……!
サイズが合っていないシャツは、当然僕の服ではない。濡れた服は乾燥機にかけているので、湊が服を貸してくれたのだ。
僕と同様にずぶ濡れだった彼は、今まさにシャワーを浴びている。
「すごい部屋だなあ……」
僕は落ち着かないまま、リビングを見回す。
一番に目につく大きな窓からは、大都会の景色を一望できるようになっている。室内はシックな家具でまとめられていて、モデルルームのようだ。良くも悪くも、生活感がない。
『両親は海外にいる』と言っていたけど、やっぱり仕事が忙しいのだろうか。兄妹もいないようだし、こんな大きな部屋に一人でいるのは、少し寂しいようにも思える。
これ以上うろうろするのも申し訳なくなって、僕は黒いソファーに腰を下ろし、スマホを取り出した。
――リスナーさんたちに、生配信は明日にするって伝えないと。それに、今日は姉と出かけてたって言っておこうかな。
姉と出かけていると言っておけば、僕に恋人がいるという湊の誤解も、少しは解消されるかもしれない。
『いつも日曜日にやってる生配信だけど、今日は姉と出かけてるんで明日にします! その代わり明日は楽しい配信にするから、よかったら見に来てくれ~!』
ルイのテンションで文章を作って、『ツブヤキ』の投稿ボタンを押す。
「はあ……」
静寂の中にいると、だんだんと緊張が増してくる。
憧れの人と席が隣になって、ルイがきっかけで話すようになって。今では、彼の家にまで招かれるようになった。
数か月前の自分からしたら、夢みたいな話だ。
「なんでこんなに、落ち着かないんだろ……」
学校やコラボカフェとは違って、ここには湊と僕しかいない。この空間のせいで、妙に意識してしまうのだろうか。
そもそも友達なのに、意識ってなんなんだ……
僕がソファに背をもたれて、息を吐いたとき――勢いよくリビングのドアが開いた。
湊は部屋着に着替えて、スマホを手に握っている。時間はたっぷりあったはずなのに、わずかに髪が濡れたままだった。
「湊? どうし――」
「こ、これ見て! ルイくんのさっきの投稿!」
彼は大股で僕に近づき、スマホを掲げた。その画面には、今さっき投稿した文章が映っている。
「ルイくんの新情報!! お姉さんがいるんだって!!」
「へ、へえー……」
「つまりこれって、前のコラボカフェにも、お姉さんと一緒に行った可能性があるよね!?」
湊は目を輝かせながらそう言って、「あ、いいねするの忘れてた!」と呟いて画面をタップする。
興奮しているのか、手が震えて何度もタップを繰り返していた。
僕は急いでポケットに手をつっこみ、自分のスマホの電源を切って通知音を消す。
――なんとなく予想はしていたけど、ここまで喜んでくれるなんて。
湊はスマホを胸に抱え、ぽつりと呟いた。
「……よかったあ。でも、生配信は明日になるみたいだね」
「そ、そうなんだ……」
「もちろん楽しみにしてたけど、家族と出かけてるんじゃ仕方ないよね。代わりに、ルイくんの過去配信でも一緒に見よっか」
「過去配信? でも長居するのも悪いんじゃ……」
「そんなことないよ。それにまだ雨降ってるし、遠慮なくゆっくりして?」
生配信がなくなったので、一緒に見ることもないと思いこんでいた。けれど今更、断る理由も見つからない。
湊は「俺の部屋に案内するね」と言って、僕の手を引いた。
――湊の部屋……!
こんなに綺麗なマンションなのだから、彼の部屋もおしゃれで洗練されているのだろう。期待感に胸が躍り、迷わずついていった。
湊は部屋の前で立ち止まり、ドアを開けた。
「お邪魔しま——」
その瞬間、思わず言葉を失った。
立ち尽くして、数秒。僕はようやく目の前の光景を理解して、声を張り上げた。
「な、なにこれ!?」
リビングかと思うほど広い部屋の奥には、巨大なスクリーンとスピーカーが設置されていた。
壁には大きな神棚があり、その中には『旭 ルイ』の写真と、アクリルキーホルダーが飾られている。
そして一番の問題は、壁一面に貼られた僕――『旭 ルイ』のポスターだ。
映画館のような設備に、おしゃれな高級家具。それを台無しにしている、神棚と大量のポスター。
完璧な生徒会長と、ガチ恋オタク――彼の持つ二面性をそのまま具現化したような、カオスな空間だった。
「どうぞ、入って?」
「あ、えっと……。このポスターってなに……?」
口角を引き攣らせながら、恐る恐る中に入る。色々と気になるところはあるが、それを言うだけで精一杯だった。
アクキーはまだわかるけど、ポスターなんて作った覚えはない。
湊はいいところに気づいたとでも言うように、ぱっと表情を明るくした。
「実はこのポスター、自作なんだ!」
「じ、自作!?」
「うん。もちろん本当はルイくんの公式グッズがいいけど、デビューしてからずっとグッズを出す予定がなかったから……。それなら俺がルイくんの好きな表情をスクショして、部屋に飾ろうと思って作ったんだ」
相変わらずの早口トークも、この部屋にいるからかいつもよりインパクトが強い。
湊はうっとりと部屋を眺めながら、言葉を続けた。
「でも渉も知ってのとおり、そのあとにアクキーの発売が発表されて!! 嬉しすぎて、神棚まで設置しちゃった。ファンメイドのグッズと、ルイくんが作ったグッズに同じような扱いをするわけにはいかないからね」
「す、すごいね……」
「あはは、これからルイくんがもっとグッズを出してくれたら、この部屋もますますよくなると思うんだけどね。……あ、よかったらそこのソファに座って?」
湊はちょうどスクリーンの前にあるソファを指さしたあと、PCにコードを繋げていた。
きっと『旭 ルイ』の過去動画を選んでいるのだろう。
――この部屋で見るの、恥ずかしすぎない……?
僕は赤くなった顔を隠すように俯きながら、おずおずとソファに座った。
「せっかくなら渉が見たことない動画がいいよね。どれがいいかなあ」
「できればゲーム実況で……。RPG系は見たことないから……」
雑談配信をこんなところで聞いたら失神する自信がある。僕は比較的自分のトークが入っていないRPG系を選んでもらうことにした。
「そうなんだ! RPG系でおすすめの配信だと……これがいいかな。よし、準備できた」
湊は僕の隣に座ると、リモコンでわずかに照明を落とした。
部屋は薄暗くなり、大きなスクリーンにはルイの姿と、ゲーム画面が明るく映し出された。
『みんなお疲れー! 今日はクロニクル・オブ・エデンの全クリを目指していくぞ! あ、ネタバレはなしなー!』
ルイのキャラに合うように作った声が響き渡る。大きなスピーカーのおかげか、部屋に反響し、全身を包み込むように聞こえてきた。
湊は身を乗り出し、真剣に画面を見つめている。かと思えば、ルイがなにか冗談を言ったときには、楽しそうに笑い声を上げていた。
「今のルイくんの表情、最高……」
「うわあ、さっきの惜しい! 頑張ってるところも可愛いけどっ……。頑張れ!」
湊がなにかとうっとりとした口調で呟くので、羞恥心が駆け巡っていく。
――あ、頭がおかしくなりそう……!
僕は開始数分で、限界を迎えそうになっていた。
しかも湊が選んでくれたのは、活動初期の配信だった。この頃の僕はゲームは今よりさらに下手くそでミスばっかりしているし、トークもたどたどしい。
今見直すと、恥ずかしくてたまらない。
――湊は、こんな配信のどこがいいんだろう……
ついにスクリーンを直視できなくなり、そっと目を伏せた。視界は変わっても音からは逃げられず、ふとももの上で拳を握る。
「――渉?」
気づいたら、湊が身体を寄せて、顔を覗き込んでいた。
彼は不思議そうに小首を傾げている。
「どうしたの? なんか、顔真っ赤だけど……」
「い、いやっ……! これは……」
「もしかして、風邪?」
彼は手を伸ばし、僕の頬に触れた。
「なっ……」
見上げると、湊と視線が交わった。
――ち、近い……!
大きな手が僕の頬を包み込み、さらに熱が集まっていく。
「渉、本当に顔が熱いよ。さっき雨に濡れたから、体調崩したんじゃ……」
「い、いや、シャワー上がったばっかりだから、まだ身体が熱いだけでっ」
「そう? それならいいけど……」
湊は納得したような口調なのに、手を離してはくれなかった。
「み、湊……?」
それどころか、覆いかぶさるように身体を寄せる。彼は僕をまっすぐに見て、おもむろに口を開いた。
「……ずっと、思ってたことがあるんだ」
湊は頬に触れたまま、すっと目を細める。
「渉の声って……ルイくんに似てるよね」
「っ……!?」
「最初は気づかなかったけど、上擦ったときの声とか――」
湊はそこで口を噤み、僕をじっと見つめ続ける。
グッズに囲まれ、配信が流れ続ける空間。スクリーンの明かりが、僕たちを照らしている。
――どうしよう。なにか、言わないと……
否定しなきゃと思うのに、なぜか言葉が出てこない。
配信の音が、だんだんと遠のいていく。彼の美しい瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「……真っ赤になってるの、可愛い」
鼓動が激しくなって、胸が壊れそうだった。
――友達なのに、どうしてこんなにドキドキしているんだろう。
今日、何度も脳裏を巡ったこと。でもこれは、ただの友達というには、あまりにも……
「渉」
湊は身を乗り出し、彼の顔がさらに近づいていく。
それはまるで、キスをするような体勢だった。
「み、湊っ……!?」
彼の胸に両手を添える。けれど、押し返すだけの力はどこにも入らない。頭の芯が痺れたようになって、なにも考えられなかった。
僕は耳の奥で鳴り響く心音を聞きながら、ぎゅっと目を瞑った。
「――渉、取れたよ」
次に訪れたのは、唇の感触……ではなく、湊の明るい声だった。
弾かれたように、瞼を持ち上げる。
湊は「顔に睫毛が付いてたから」と、笑顔で言い放った。
「――ッ!?」
すぐに顔を逸らして、自らの両手で顔を覆った。
――僕、変なことを考え……!?
てっきりキスをされるんだと思って、期待をしてしまった。いや、そもそも期待ってなに!?
――穴があったら、今すぐにでも入りたい……
項垂れる僕をよそに、湊は焦ったように口を開いた。
「渉。変なこと言ってごめんね?」
「へ、変なこと……?」
「渉とルイくん、話し方とか全然違うのに……。似てるとか言っちゃって」
「あ……」
湊は身体を離すと、自嘲気味に笑った。
「ほんと、ルイくんのこと考えすぎだよね。俺がおかしいだけだから、気にしないで」
湊はそれだけを言い残して、再びスクリーンに目を向けた。
僕は声も出せないまま、ただ彼の横顔を見つめることしかできなかった。
『旭 ルイ』を見つめる彼のまなざしは、熱が籠っていて、愛おしいという気持ちが溢れている。
ずき、と心臓が痛み出す。
僕は今更、大事なことに気がついた。
――『旭 ルイ』を生み出したのは僕だけど、彼が見ているのは「僕」じゃない。
彼の激情が僕に向けられたものだと、どこかで勘違いをしていた。
明るくて、前向きで、友達がたくさんいる人気者――現実の僕は、けっしてそんな存在にはなれない。
「過去配信も面白かったなー。あ、ちょうど服も乾いた頃だろうし、持ってくるよ」
いつのまにか、過去配信は終わっていたらしい。湊は電気をつけて、ソファから腰を上げる。
部屋を出る彼の背中を見送りながら、僕は俯き、胸元を強く掴んだ。
――僕が本当に、ルイみたいな人間だったらよかったのに。
もしそうなら、自分が『旭 ルイ』だって堂々と明かせただろう。
そして、湊が僕に向けるまなざしも、ただの「友達」とは違うものに……
「……だ、駄目だ。これ以上考えたら……!」
僕は頭を振って、身体を丸めた。
借りたシャツから、ふわりと香りが舞う。
僕は逃げ場のない感情を押し込むように、きゅっと唇を噛みしめた。




